迷人伝 その3

 通学時間も修業の場だった。紀昌は歩きながら、目の前をゆらゆら揺れる玉をジッと見つめていた。昨日の夜よりも心持ち長い時間瞬きせずにいられるような気がした。朝のほうが目が疲れていないためかもしれないし、少なからず昨日の修業の成果が出始めているのかもしれない。そのことに喜んだ紀昌は、薄気味悪い笑みをこぼしていた。

 紀昌の奇妙な姿を見た同じ学校の生徒たちは、皆一様に度肝を抜かれた。真夜中に突如現れたゴキブリを目にした時のような気持ちの悪さが全身に侵食してくる。赤白帽をかぶって変な玉をゆらゆらさせながら歩き、ニタニタ笑っている紀昌の姿は、誰の目から見ても気味が悪いとしか言いようがなかった。名は体を表すと言うが、まさにキショイというアダ名の通りであった。

 自分の家から学校までは、歩いて一〇分ほどの距離である。その間、紀昌が瞬きをしたのは、わずか五回だった。上々の滑り出しと言ってもいいだろう。今後、この記録を更新していくことを通学時の目標に据えた。

 教室に入ると、皆一斉に紀昌の姿に振り返った。女子たちは絶句し両手で口を押さえている。笑いを堪えている者もいる。男子たちは遠慮なく大声で笑った。そして、「なんやあれ!」「赤白帽って!」「なんか変なもん付けとるわ」「ホンマもんのアホがおる」などなど、口々に罵った。

 紀昌は、そういった外野の声にも平然としていた。自分には進む道が見つかったのだから、誰に何を言われようと気にならない。逆に、それが見つかっていないクラスのやつらが可哀想に思えたくらいだ。

 優劣感を感じながら、紀昌は自分の席についた。すかさずクラスの人気者たちが、紀昌をからかいにやって来る。やつらにとって、紀昌の奇行は格好の暇つぶしなのだ。我先にと突っ込みを入れたいのが、中学生男子の性分である。

 紀昌にとって、彼らは目障りでしかなかった。自分の席で修業に集中したいと思っていたからだ。そんな紀昌の思いなど知る由もなく、いや知っていたとしても、やつらは平気な顔で邪魔をしてくる。

「よう、キショイ!」

「……」

「おい、返事しろや!」

「……」

 紀昌は無視することを決めていた。低俗なやつらと言葉を交わすほど唾棄すべき行為はない。もう昨日までの自分ではないのだ。一歩も二歩も先に進んでしまった自分にとって、やつらは幼稚な存在に思えて仕方がなかった。

 しかし紀昌が無視すればするほど、やつらは調子に乗ってくる。しまいには、紀昌の帽子に取り付けられた玉をパンチしてくる。幸い糸は切れず、玉が三回ほど回転しただけで済んだ。

 それでも、クラスメイトたちは「ギャハハハ」と大笑いした。紀昌には何が面白いかわからなかった。ただ激しい揺れの中でも、紀昌は決して玉から目を離さずに修業を続けていただけである。

「こらぁ〜! 何を騒いどる!」

 怒鳴りながら担任が教室に入ってきた。これから朝のホームルームが行われるのだ。紀昌は、少しホッとした。静かになれば修業に集中できるに違いないと安堵した。

 体育科の教師で、まだ若い担任は、生徒から兄貴のように慕われていた。もちろん一部の生徒からだけではあるが、昔ラクビーをしていたという逞しい肉体は、中学生の男子にはない眩しさを放っていた。心優しくて力持ち。それが男女問わず、ある一部の中学生たちにとっては憧れの的だったのだろう。

 担任はふざけている生徒に愛情たっぷりに叱る。まるで「君たちのことがめっちゃ好きやから怒るんやで」と言わんばかりの言い方が、紀昌には常日頃から不愉快だった。

 だからと言って、紀昌は別に担任のことが嫌いではなかった。もっとも好きでもなかったが、ただ自分とは違う人種というくらいしか思っていなかった。もし担任が同級生だったとしても、決して友達にはならないタイプである。紀昌には友達と呼べる同級生はいないのだが、仮定の中での空想話なので自分勝手に思いを巡らすことに何の罪もない。それは別にして、紀昌はやかましいやつらを黙らせてくれた担任に、その時は感謝こそしたものだった。

 しかし、である。誰かが、次のように言い腐ったのだ。

「先生、なんか中島君が変な格好しとるんやけど!」

 皆の視線が再び紀昌に集中する。担任も紀昌の姿を捉えていた。その目は、まず初恋の相手が親友と付き合っていると知った時のように戸惑い、次に異国の人にいきなり話しかけられた時のように怯え、その次に寒い冬の朝に布団から這い出る時のように気合いを入れ直し、最後に車が通らない道路で信号が青に変わるのを辛抱強く待っている時のように正義感に満ちたものになった。

「中島、お前は何をしとるんや?」

 担任はできる限り生徒に動揺を与えないように、語気を荒立てずに言った。紀昌は担任まで無視することはできなかった。皆が紀昌の言動に注目している中、紀昌はさも当たり前のように返答する。

「修業しているんです」

 教室は爆笑の渦に巻き込まれた。あちこちで「修業やって〜!」「何の修業なんやぁ?」「変態の修業ちゃうか〜」といった罵声が飛び交った。あまりにも酷い集中砲火を浴びせられている紀昌を可哀想に思ったわけではないが、担任は「こら、笑うなや」「静かにしろ」と他の生徒を注意している。内心では「こいつ、アホちゃうか」と思っていたのだが、それを言ってしまったら教師失格だとギリギリのところで自重したのが本音である。

「とりあえず、その赤白帽は先生が預かっとくわ」

 担任が紀昌の席に近づいてくる。紀昌は両手で頭を抑え、その申し出を頑として拒否する姿勢を見せる。そんな紀昌の抵抗など、体育教師である担任の手にかかれば虫けらみたいなものである。

 担任が紀昌の手を退け、帽子を強く引っ張ると、ゴム紐があるせいで紀昌の顔も斜め上に引っ張られる。その姿に、教室は再び大爆笑に溢れ返った。いきなりの大爆笑に、担任の手が一瞬緩む。思わず帽子を掴んだ手を放してしまったのだ。

 すると、今度は「パチン!」という渇いた音を立てて帽子は紀昌の元に戻ってきた。急に手を離されたため、紀昌は「ガタン!」という大きな音を立てて椅子に倒れかかった。まるでコントのような一連のやり取りに、教室は今日一番のお祭り騒ぎになった。

 その隙に、担任は紀昌の頭から帽子を奪い取ることに成功。結局、瞬き帽子は担任に没収されてしまった。それだけでホームルームの時間は終わってしまい、担任はもう一度「これは預かっておく」とだけ言い残して、まるで戦果を手にしたみたいに意気揚々と教室を出て行った。

 紀昌は悔しかった。皆に笑われたからではない。昨日の夜に立てた誓いを一日も持たずして破ってしまったからだ。ただ、それは自分の責任ではない。あのあんぽんたんの担任が悪いのだ。これは誓いを破ったことにはならない。そう自分に言い聞かせて、紀昌は重苦しい午前中の授業を無気力にやり過ごした。

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