見出し画像

ヒサイから紐解くアルバニア近代史

1.アルバニア共和国について

アルバニア共和国は東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する国家である。アルバニアの面積は四国のおよそ1.5倍、人口は300万人ほどの小さな国である。公用語はアルバニア語だが、英語やイタリア語も使われている。ヨーロッパでは珍しいイスラム教が多数派を占めている国である。

アルバニアではイタリア語の普及率は非常に高い。この理由としてイタリアの支配下にあったことや、アルバニアが鎖国していた時代の国民は、自分と世界をつなぐ唯一の窓口がイタリアからのラジオ電波であった。それを拾い世界の情勢を確認するためにイタリア語を覚えることは必須だったのだ。

「イタリアの支配下」、「鎖国」と既に重要そうなキーワードが出てきてるが、アルバニアはどのような国なのだろうか。

2.アルバニアの変遷

アルバニアはオスマン帝国から独立後、78年間で6回も国名が変更されている。国名の変更が多いところからも激動の時代を送ってきたと察せる。ここからは、1900年以降のアルバニアの歴史について国名ごとで大まかに説明していく。

※ヒサイ登場が待ち遠しい方は「大見出しの3.」まで飛ばすことをオススメします。

①アルバニア公国

アルバニアはオスマン帝国の支配下にあったが1913年に独立を宣言した。1914年にドイツ帝国の貴族を公として迎え「アルバニア公国」になるものの、公が第一世界大戦のドサクサに紛れ国外逃亡したため無政府状態に陥った。

②アルバニア共和国からアルバニア王国へ

君主不在だったアルバニアは1925年にゾグー大統領が就任し「アルバニア共和国」が成立する。

しかし、ゾグー大統領が王位に就くと宣言したため、ゾグー"1世"として今度は「アルバニア王国」という君主制国家が1928年に誕生する。
1938年、イタリア軍による侵攻を受け王国は降伏。終いにはゾグー1世も国外逃亡をした。

ゾグー1世

再びリーダーが不在になったアルバニアはイタリアとの同君連合として傀儡政権が誕生し第二次世界大戦に突入するのであった。

③アルバニア人民共和国

1943年、イタリアが連合国に降伏したことで支配下に置かれてたアルバニアは、ドイツが占領することになる。この事態にアルバニア国民の中でパルチザンが結成されソ連と手を組み1944年に全土解放が行われ、アルバニア共産党を中心とした社会主義臨時政府が設立された。それに伴いホッジャ率いる共産主義政権の「アルバニア人民共和国」が誕生する。

ホッジャ

ホッジャ政権は1961年以降、スターリン批判を行ったソビエト連邦を「修正主義」と名指しで非難し、ソ連と対立していた中華人民共和国に接近して大規模な援助を受ける。

④アルバニア社会主義人民共和国

1968年にはワルシャワ条約機構を脱退すると、実質的にソ連を仮想敵国とする極端な軍事政策を取った。また、1967年に中国のプロレタリア文化大革命に刺激されて「無神国家」を宣言、一切の宗教活動を禁止した。同年、国号を「アルバニア社会主義人民共和国」へ改称した。

※アルバニアはイスラム教を多数派に占めており、「ヨーロッパ唯一のイスラム国家」と呼ばれている。しかし、「無神国家」政策の名残りがあり、国民の宗教に対する意識はかなり緩いのが実情である。クリスマスなどを季節間で楽しむ日本人と通づるものがある。

毛沢東と握手を交わすホッジャ

1976年に毛沢東主席の死によって中国で文化大革命が終息し、1978年に鄧小平が改革開放路線に転換するとホッジャは中国を批判した(中ア対立)。当時の経済状況から決して多くなかった中国の援助もなくなった。ホッジャは「アルバニアは世界唯一のマルクス・レーニン主義国家である」と宣言しアルバニアは孤立。事実上アルバニアの鎖国とも言える状況を招き、1980年代には「欧州の最貧国」とまで揶揄されるまでに至った。

⑤アルバニア共和国

これまで勤労党による一党独裁の共産主義鎖国体制をとってきたが、1990年より東欧改革の影響を受け、対外開放、複数政党制の導入等、民主化を始めた。1991年に「アルバニア共和国」に改称した。1992年3月の総選挙で民主党を中心とする戦後初の民主政権が成立して今に至る。

3.アルバニア情勢とヒサイ・ファミリーを重ねる

今日のサッカー界でトッププレイヤーとして活躍するためには様々なことが求められる。技術はもちろん、才能や意思、犠牲、運もまた必要だ。
プロサッカー選手という夢を叶えるのは本人の努力次第に思われがちだ。しかし、自分の子どものサッカーの才能が見過ごされないよう、息子の夢を叶えるため最大限サポートする愛情深い親の信念も忘れてはいけない。

ここからはラツィオに所属するDFエルセイド・ヒサイと父ガジム・ヒサイの経歴をアルバニア情勢と重ねていく。
サッカーファンからはヒサイという呼び方でお馴染みの選手だが、親族も登場するので、ここからはエルセイドガジム(父)で話を進めていく。

①エルセイド・ヒサイについて

エルセイド・ヒサイ(1994年2月2日生まれ)は現在イタリア・セリエAのラツィオに所属するアルバニア代表でキャプテンを務めるDFである。筆者が愛するクラブのナポリでも長い間両SBでプレーした選手だ。

特にエルセイドはナポリ時代の15/16シーズンの活躍により、当時22歳だった彼はヨーロッパのサッカー界で期待の若手選手となった。バイエルン・ミュンヘンアトレティコ・マドリードチェルシーバルセロナから関心を集められていた選手である。

彼もまたアルバニア出身の選手で、イタリアのプロクラブの下部組織に加入するため、イタリアに移る前まではアルバニアで暮らしていた。

エルセイド(左)とガジム(右)

②共産主義崩壊がもたらした社会不安による国外脱出

90年初頭、アルバニアは共産主義および鎖国状態が崩壊し民主化され、市場経済化し国際社会へ復帰した。他の欧州の国々から経済的支援を受け資本主義社会を確率するものの国内の経済は低調で国民は皆貧しかった。国家の広範的な政治的および社会的不安の中で大規模な経済崩壊とともに深刻な食糧不足を招くことになる。

アルバニア人は貧困から抜け出そうとイタリアへの渡航を試みる。アドリア海を挟むアルバニアとイタリアの距離は160kmも離れていない。家族の幸福を確保するためにゴムボートやスピードボートに乗ってイタリアに違法労働者として出稼ぎに行っていた。ガジムは煉瓦工や建設業、時にはグレーな仕事を行い命の危険を晒してまで家族を養う金を稼いでいた。

1994年、ガジムのもとにエルセイドが生まれた。エルセイドが産まれた2ヶ月後には養う金を稼ぐためガジムは単身でイタリアに移住する。その間、エルセイドは母と祖父母と共に母国アルバニアのシュコダルという街で少年時代を過ごした。

2004年の夏、ガジムが建設作業員として行った現場はサッカーの代理人であるマルコ・ピッチョーリ(後のヒサイの代理人)の家だった。ピッチョーリはジョアン・ペドロなどの代理人をしている。
ガジムは家の修理のついでに「私の息子はサッカー選手です。息子のチームを見つけられますか?」とピッチョーリに交渉した。エージェントがガジムに詳細を聞くとエルセイドが10歳であることが分かり、もう少し待つようガジムに説得したのだった。

ピッチョーリ(左)とヒサイ(右)

当時のエルセイドは地元シュコデルのアマチュアチームに所属していたが、アルバニアのプロクラブのアカデミースカウトには見過ごされていた。その後、アマチュアリーグで優秀なDFになり、ディフェンスのポジションならどこでも熟せる能力が評価されていた。

③EU非加盟国による弊害

・アルバニアとEU

アルバニアというとヨーロッパの国だからEU加盟国という認識をしてる人がいる思うが、あくまでEU加盟候補国の地位を獲得してるだけでEU加盟国ではない。さらに加盟候補国になったのは2014年とつい最近の話なのだ。

・EU枠と外国人枠

1995年、ボスマン判決によって「EU加盟国籍所有者の就労はEU圏内で制限されない」としたEUの労働規約がプロサッカー選手にも適用されることになった。EU加盟国のリーグにおいてはEU圏内の外国人に対して外国人枠を適用していない。しかし、エルセイドはEU非加盟国のアルバニア出身なので外国人枠となってしまう。

・未成年の移籍

FIFAは“未成年の保護”を目的とした移籍条項19条で未成年者の国際移籍を禁止する規定を設けている。この規定は原則として18歳未満の選手の国際移籍を禁止するという内容だ。ただ、「両親がサッカー以外の理由で移住した」場合。「EU加盟国内に住んでいる16歳以上18歳未満の選手が、EU内で移籍する」場合。「自宅が国境から50km以内にあり、かつ隣国のクラブも国境から50km以内にあり、両国のサッカー連盟が許可を出した」場合。この3つのケースのみ例外として移籍が認められるのだ。

つまり、ガジムはサッカーではなく、出稼ぎでイタリアに移住しているため、エルセイドが外国人枠であるとはいえEU加盟国のリーグの下部組織に加入する条件はクリアしていることになる。

ピッチョーリはエルセイドが14歳になったとき、イタリアに招待しアルバニアで高評価と聞いたサッカーの実力が如何なものだか確認した。そこでエルセイドはサッカーの実力を見せつけピッチョーリに評価された。そして、様々なプロクラブのアカデミーのトライアルに参加したのだった。

まず手配したのがフィオレンティーナだった。しかし、ここでEUの壁が立ちはだかることになる。フィオレンティーナのアカデミーのトライアウトで評価されたエルセイドだったが、イタリアへの移民および非EU居住者の子どもということが理由で契約が困難だったためフィオレンティーナのアカデミー加入はできなかったのだ。

エルセイドはフィオレンティーナの他にいくつかのアカデミーのトライアウトに参加し、エンポリのアカデミーに加入することになる。

ガジムが、息子が初めてサッカーボールを蹴った時からエルセイドの能力に盲目的信頼を置いていなければ、エンポリがエルセイドと契約を結ばなければ、今のような人生はなかったかもしれない。

4.りんごは木から離れたところに落ちない

多くのサッカー選手は、ファッションや車などにお金を費やすが、エルセイドが最初にしたことの1つは、父親の苦労が見過ごされないようにすることだった。2014年、エルセイドはフィレンツェのカセッラ通りに「Bar Elsi」というバーを開業した。父ガジムは現在、同店の店長を務めている。

このバーはイタリア在住のアルバニア人をはじめ、カルチョを愛するサッカーファンのホットスポットになっている。

家族のために命の危険を晒してまで働き、サッカー選手として導いてくれたガジムについて、当時20歳だったエルセイドは「私にとって(給与)は十二分すぎる。今こそお世話になった父に恩返ししなければならない」と語る。

"The apple dosen’t fall far from the tree"という古いことわざをご存知だろうか。「りんごは木の周りから遠い所には落ちない」という訳で、簡単に言えば"子は親に似る"という意味だ。家族のために尽くす姿や強い意思を持つヒサイ・ファミリーの遺伝子は後世にも引き継がれるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?