ニ、通信兵
零下四十度。ソ満国境の酷寒の地に俺はいた。うっかり深く息を吸い込んだら、肺が凍てついてしまいそうだ。
寝泊まりする小屋の便所から、糞尿が巨大な氷柱になって垂れ下がっている。
赤紙が来てから有無を言わさず送還された。行き先は告げられない。詰め込まれた列車は山陽本線をひた走り、二年前に開通した関門海底トンネルに潜った。門司から乗った船が釜山に着く。再び列車に詰め込まれ、朝鮮半島を縦断し…。それからは覚えていない。ただ、モノのように運ばれて来た。
「ソ連が攻め込んできたら終わりだな。」
勇気を振り絞って口に出してみる。
居室を共にする男は強張った表情を見せた。俺と同じ年頃だろうか。二十台前半だろう。
「聞いたか?戦車が来たらなるべく引きつけて、手榴弾投げて逃げろってよ。そりゃあ殆ど自決しろってことじゃあないか。」
裸電球が眩しい。兄はどうしている。ビルマは激戦区だ。
「何とか言えよ。」
彼もまた、黙っている。兄と同じだ。
「お前が考えていることは、わかるよ。」
そう言ってみた。そうだよ、わかる…。それは、決して口にしてはいけないことだ。
俺たちは、死ぬ。
俺の仕事は、野戦重砲隊の通信兵だ。凍てついた大地を電話線を持って全速力で駆け抜け、要所に敷設する。実戦になったら、銃弾飛び交う戦場を、俺はただひた走る。それが俺の、命と引き換えの仕事だ。
トトツーツー。電信機に送られてくる点滅信号を読み取り、手旗で信号を送る。
「ワレコレヨリトツゲキセントス。」
ふとそんな文句が浮かんだ。
凍てつく風が宿舎を吹き抜ける。吐く息まで凍ってしまいそうだ。外に出ればたちまち手指の感覚が無くなった。常に動かしていなければ、凍って腐り落ちるだろう。
遺書を書けという。これで三通目だ。両親にこれまでの大恩を感謝し、尽忠報国の信念を述べ、検閲を受ける。髪の毛と爪を添えて封をする。ありきたりの遺書を書くには書いた。
突然の帰還命令。理由はわからない。しんがりで残る部隊に別れを告げた。人の良い二十台前半の男は残った。
「死ぬなよ。」
そう言いかけてやめた。それでも何か言おうとして口を開いたが、何も出てこなかった。
後にソ連が攻めてきて、彼らは全滅した。このことはずいぶん後になって知った。
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