見出し画像

『えんとつ町のプペル』を観て西野亮廣にイラついた話

『えんとつ町のプペル』をさっき観てきた。

西野亮廣さん(以下西野亮廣)のことは、彼の何作目かの絵本で知った。ストーリーは忘れてしまったけど、書き込みがとにかく細かくて、私は机の上に描かれた魚の形のペンケースがほしい、と思った。

その後、西野亮廣のことは忘れていたけど、面白い本を貸してくれることで定評のあるY氏が、「こいつ調子乗ってて、いつか失敗しねぇかなと思う。でも本は面白い」的なことを言いながら、「革命のファンファーレ」という本を貸してくれた。

本を読んで、西野亮廣のことは応援するまい、と思った。

なぜなら

①行動・努力ができる。(私はやろうと思ってもなかなか行動できない・継続や積み重ねができないので、それができる人間に対して憧れと嫉妬がある。)

②時代や社会の流れを読む力がある。

③アンチを取り込んで自分の勢力にしてしまう。

④イケメンである。

⑤困難もネタにする。

これらの理由から、あーこれほっといても夢叶えるわ、私応援する必要ない、と判断。というか応援したくない、と思った。

精神科医 高良武久は言った、健康な心とは、「他人に対して愛情を持つことができ、人の幸福を喜び、不幸を悲しむことができる」ことだと。私は、人の幸せを素直に喜べるような健やかな心であることは365日のうち4日くらいである。なので人の夢を応援したくない。とくにほっといても叶えそうなやつは。邪魔しないけど勝手に幸せになってね、と思う。



そうは思っても、「ディズニーを超える」とか大きな夢を語ってる人のことは、やはり少し気になってしまうものである。

そして今日の昼の飲み会で、知人に勧められたのでみにゆくことにした。その人は映画を観て、本「ゴミ人間」まで買っていて、それも読んでみた。

日本人でディズニーを超える人が現れてほしいという期待(このけっこう曖昧な「国籍」というもので人間をくくるのはよくないと思うのだけど、こういう人情のみたいなもんがあるのは事実なのです。別に日本人がディズニーを超えたからといって私が偉いわけでもなんでもないんだけどね。)と、単純に面白いアニメーション映画で感動させてくれよという思い。あと大きな夢を語ったひとが、仲間を得て、じっさいどんなものを作れるのよ、みたいな野次馬根性というか、確認したかったわけ。なんか観ないと、西野亮廣に負けた気がして嫌だった。(よい映画になっていてほしい、と思う自分もいた。)

同じ話を二回聞かされるのをなによりも苦痛に感じる人間なので、原作を読んだことのある映画を見に行くのは少し不安だった。

ストーリー知っちゃってるのに、楽しめるのか?

結論から言うと、面白かったし、泣けた

自分はつい、優しくありたいといいことばかり書こうとするので、ちゃんと正直に感じたことを書こうと思う。大人が本気で作ったもの。嘘はつかないのが誠実だと思うので。

(以下ネタバレ含む)

冒頭のハロウィンダンスのシーンは唐突だし、やたら長いので、わたしは置いてけぼりを食らった気分だった。リアルでもリズム・ダンスというものが苦手な人間としては、本当はどこかに逃げてしまいたい居心地の悪さだった。あまりにも長くて、「これ、アニメじゃなくてボリウッドで実写化したほうがよかったんじゃ…」とか「え?ほかの観客のみなさん楽しめてる?私だけかな?」みたいなソワソワ感。インド映画とかは、踊りだす前にテーマになるエピソードがあって、それをダンスで表現してるじゃん。これもテーマがちゃんとあったのかもしれないけど、ダンス中の歌もなんと言っているのか聞き取れず、何を表現したいダンスなのかわからず、キャラクターが踊っているのを見せるためのシーン(あわよくば日本中の子供たちのなかでこのダンスを流行らせたいのか?)、ダンスのためのダンス・・・と感じてしまった。これが映画館の怖いところで、強制的にそこに居させられるし早送りも出来ないので、ちょっと辛かった。

途中のハラハラドキドキするシーンたちは、普通に興奮したし、手に汗握った。自分もジェットコースターに乗っているようだったから、コロナ下で遊園地などに行けない人にとっては、遊園地に行った気分になれるレベルの臨場感なので映画館で見ることをおすすめしたい。音もよかった。(えんとつ町のプぺルランドでも作るんか?と思うほど。)

ただ、連鎖が面白いシーン(ルビッチがヘルメットを投げるところ)はディズニーを意識してるけど、すごく、なんというかぎこちなさを感じた。ああいうの、なんて呼ぶんでしょうか、きっと名前があると思うんだけど、見つけられなかった。どなたかご存知の方いらっしゃいませんか。AがBに当たって、Bが転がってCが・・・みたいなやつです。ピタゴラスイッチ?

日本のアニメーションって、アメリカのアニメや映画にくらべてピタゴラスイッチが苦手なのかな。あまり多く登場しない気がする。ディズニーとかトムとジェリーとかは「おお~よく考えたな!」って感心するし気持ちいいんだけど、えんとつ町のプぺルでは「これからはじめるよ~!」ってな感じの作り手の気合いを感じちゃって、「お、おう。始まるのね!よしきた」みたいな用意をしてしまって、感心できないというか。

そのシーンを作りたくて入れたのかな?みたいな。「えええ!そうなるの!?すっげえええ」ってこっちをあたふたさせてほしかった。でもトロッコのシーンは好きですよ。

プペルとお父さんが重なるシーンでは2回くらい泣きそうになり、2回目(プペルとのさよならのシーン)ではちょっと泣いた。悔しいけど。強情っぱりでもちゃんと泣かせてくれます。悔しいけど。


なんかダラダラ語ってしまいそうなので、見どころをば。

全体的に、とっても絵が美しい!可愛い!きれい!どのキャラクターも可愛くて目がきれいで好きなんだけど、とくにドロシーってお姉さんのキャラデザがとても素晴らしかった。あんなお姉さんになりたい。ずっと見ていたい。

こどもたちのひとりであるアントニオが、プペルを殴るシーン。これが本当に痛てて!ってなってしまうぐらい、やりすぎなくらいリアルなんだよね。本当にプペルが可哀想になるくらい、痛々しいのですよ。これは、叩かれ続けた西野亮廣だからこそ、かなり気合い入れたんじゃないかと推測。そして、殴ってるアントニオ自身が苦しそうにしてるのもちゃんと表現されてて、「夢を捨てた人ほど夢を追う人をより強く叩く」という西野亮廣の考えを表しているのかな。でも、あくまで夢を捨てた人への優しい眼差しを感じました。(最後、アントニオ含めた子供たちが船を留めているピンを外そうと手伝ってくれる胸アツシーンもあるんだけど、普通にピンが抜けるときに顔に当たらない!?大丈夫?前歯欠けちゃうよ!ってハラハラした。私は本当に君の前歯の安全を心配したんだぞ、アントニオよ。あと、一瞬君たちも船に乗り込んで一緒に特等席で星空を見るのかと思ったよ。そこは最初から夢を応援したプペルのみの特権なのね、とも思った。)

えんとつ町のなりたちの解説シーン。冒頭の「腐る前に使えよ」が怪しいなって思ってたけど、腐る経済を地で行くとは。お金・経済の話ですこし子共には難しいかもしれないけど、経済システムを守るために、平和のために、国民を無知にさせるというか、真実を隠してしまう怖さとか深い話を織り込んでいて見ごたえある。歴代の王様がだんだん不健康になっていくのも、自分たちを守るための煙でだんだん病気になっていく皮肉も面白い。

星空をみんなは知ってしまったけど、「外を知ったら外の世界と交流するようになって中央銀行にこの国の存在がばれる」危険はどうなったのとか、今後のえんとつ町の行く末が楽しみである。


映画を観終わったあと、しばらく席に座ったまま、周りの反応を観察。前に座っていた親子(かあちゃんと小学校低学年と年長くらいのふたりの男の子)は

母「おもしろかったねー(鼻水をかみながら)」

兄「面白いところも泣けるところもあったー」

弟「面白かったー」

と言っていた。

ほかに後方に男一人、カップル2組いたけどそちらの感想は聞けず。ただみんなやたらゆっくり席に留まっていた。

出口へあるいているとき、後ろからさっきの男の子が「ハロハロ~♪」とエンディングテーマをうたっているではないか・・・!西野亮廣さん、ちゃんと子どもたちにも気に入ってもらえたようですよ、と安心したのであった。

でも、帰りのエレベーターで私は西野亮廣にイラッとした。

私このひと応援したくないのに、めっちゃ応援してんじゃねーか!と。

始終、運動会で我が子の活躍を見守る親の気分だったわ!

そんな気持ちで映画を観る人のことをなんと呼ぶか。

ファンですね、本当にありがとうございました。

映画の内容よりもなんか、映画が良いものになっているか、ほかの人もたのしんでくれてるか、そっちでハラハラしちゃったよ!親か!ファンか?

映画代に払った1800円のことはどうでもよい。これは西野亮廣の応援ではない。アニメーション映画全体への応援である。私はべつに西野亮廣の夢が叶ってほしいとか思って観てない。

だけど、始終私のスタンスが完全にファンのそれであったことが悔しいのである。まんまとアンチが取り込まれてやがる。気持ち的にかなり応援しちゃってんじゃん。気持ちで負けたのが悔しい。

あと、西野亮廣が自分の夢を叶えたいってよりも、「夢を信じ続けろ」って観てる大人にメッセージを送り続けてるのも感じて、それもうざい。(良い人アレルギー)

完成度や面白いか面白くないかは、一番大事なことじゃない。(完成度高かったし、面白かったけど)見た人が自分の夢に向かって一歩を踏み出せるか、勇気づけられるかが大事なんだな、とか映画のメッセージを、帰りみち真剣に考えている自分がムカつく。


結論:『えんとつ町のプペル』はリトマス紙である。

なぜなら、内容で描いているのは、当たり前のことだから。

空には星がある。

人間ってこういうところあるよね。(自分が夢を捨ててしまったら、夢を追ってるやつにムカつくよね。攻撃しちゃうよね。自分の正しさを証明するために。)

それだけ。

この映画に対して

そうだよね!!!

ってなるのか

うっぜ!!!

ってなるのかで、つまり観た人の反応で、その人の夢への姿勢がわかるのである。

なるべく見たくないとか、怒りだす人は夢を捨てた人かな

居心地が悪くなったり西野亮廣にイライラする人は、夢に全力になれていない人だろう。(お母さんに宿題やりなさいって言われる小学生の気分。)

内容にうなづいてしまったり、映画のクオリティとか周囲の反応にハラハラしちゃう人は、西野亮廣の夢を応援してしまった人

シンプルに楽しんだ人は、今を生きてる人

ちなみに、夢に全力な人はこの映画は観ない。映画自体みない。その時間に自分の夢に向かって全力投球しているから。そして映画は観てなくても、西野亮廣と同じ世界をみている。


西野さんは「面白かった」と思ってもらうのがゴールとは考えていないと思う。(本人に聞いたわけではないけれど)夢に向かって行動を起こしてほしいんだろうな。面白い映画でも「あ~面白かった」って興奮や感動を与えても、その後の行動変容につながらないってことは少なくない。(興奮や感動を与えることが目的の映画ならそれでいいんだろうけど、自己啓発本や社会問題を啓蒙する映像作品でもそういうことがままある、と思う。)

なので、観た人がその後どう生きるか、でこの映画の価値は決まるんだろうな。西野亮廣はきっと数字とかも気にするとは思うけど、(関わったひとへの対価が支払えること、夢を応援してくれた人に数字としてもすごい成果を見せる責任、とか思ってそう)本質はそこかな。知らんけど。

ってことはさ、これで私が夢に向かって行動し始めたら、西野亮廣の手柄になるってことじゃん!なにそれ、むかつく。お母さんに言われてから宿題やり始める小学生じゃん!ダサイな自分!

でもこのまま夢に向かって行動せずに西野亮廣というワードに複雑な感情を抱き続けるのはもっとむかつくし、ダサイよね。


なのでたぶん行動するんだけどさ。

応援したくない人の作品によって、こんな時間まで文章を書いてしまったこともムカつく。本日も天邪鬼が遺憾なく発揮されました。おやすみなさい。


2021.1.3追記

冒頭に書いた魚のペンケースは「Drインクの星空キネマ」という絵本ででてきたものでした。たまたま今日学生時代の写真を整理してたら出てきた。日付は2011年の7月。(図書館から借りたからいつ出た本かは知らんけど)この10年の間に西野亮廣はこんなに大きなことをやり遂げている…。正直本当にすごい人だよ、やんなっちゃう。

あっという間に10年経ってて怖いわ。ついこないだまでモーニング娘。が10年前だったのにね。ほんと前向いて自分の人生生きないとな。断捨離はつづく。(今夜までがんばる。)


画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?