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本のメモ、私の野望。【ダヴィッド・ル・ブルトン著 歩き旅の愉しみ】

はじめに


先日、北海道に旅にいってきた。とにかく沢山歩いた旅だった。

そう、私は歩くのが好きなのだ。京丹後の山奥で車を持たずに生活していたのは、免許がなかったこともあるが、実際のところ歩くのが好きだから。

歩くのはいい。
目を見張るような、ワクワクするようなアイディアが降ってくるのは、たいてい歩いているときだ。気分が明るくなるのも。ごちゃごちゃした頭やモヤモヤした心がすっきりするのも、歩くことによって、が多い。

そして、たくさん歩いた日は、日常の輝きが増す
それは、お水のおいしさだったり、お昼ごはんのおいしさであったり。お風呂の気持ちよさだったり、布団の安心感であったり。
そんなもののすべてが5割増しくらいの喜びになるように思う。

登山の後の温泉の気持ちよさといったら。
(しばらくしてないわ。やりたくなってきた!)

私は現在あまり労働というものをしていない。
肉体労働などは、歩きと同じような効果があるように思う。
(千葉で1日中土間づくり作業をしていたときの、ごはんのおいしさと言ったら!)
そんな理由もあり、私はとても「歩くこと」を欲している。

さらに旅先での歩く時間は格別である。

異郷の香りを嗅ぎながら、ところどころなじみのない植物を顔を合わせ、お天気雨に打たれたりしながら、時間のながれによる空の色の移ろいを感じる。立ち止まるとふと吹く風が気持ちいい。落ちている葉っぱや花の色や造形に引き込まれる。
北海道では、そんな時間を過ごせた。

もちろんずっと歩いているといつまでも宿にはつかないので、バスやヒッチハイクなどにもお世話になった。
ただ、少し思う自分もいた。

全部、自分の足で歩けたなら、と。

本日の流れ

今回紹介する本は、そんな歩き旅について語られた
「歩き旅の愉しみ 風景との対話 自己との対話」という本だ。
ダヴィッド・ル・ブルトンという歩くの大好きなフランス人によって書かれている。

歩き旅のよさ、効用、後半に少年院に入った若者の更生プログラムとしての「歩き旅」なども紹介されている。

本日の私のスタンスは、この「歩き旅の愉しみ」という本にちりばめられた歩き旅礼賛のうつくしい言葉たちを、断片的に紹介する、というものだ。
要約はしない。最後に本と自分の旅から触発された「野望」を書き残すとしよう。

なぜ、歩くのか

どんな旅も、場所探しのようなものだ。目にしたとたん、まさに求めていた場所だとはっきり感じ、喜びに満たされるような場所…。

歩き旅の愉しみ p.10

「わたしは自分の好きな歩き方で行きたい。気に入ったところで足を止めたい。(…)晴れた日に美しい国をゆるゆる歩いて行く。そして、行く先には楽しいものが待っている。あらゆる生活の仕方の中で、これがいちばんわたしの好みにかなっている」

ルソーのことば 歩き旅の愉しみ

私はまだ、そんな場所を求めて歩いている途中のようです。

歩くこととは、なんなのか

歩くことは、強い意味で「存在する」ことだ。
存在する(exister)の語源である(ex-sistere)が「決まった場所から遠ざかる」「自分の外に出かける」という意味であることからも想起される。

歩き旅の愉しみ p.21

歩き旅は空間を味わう経験であると同時に、時間を味わう経験でもある。緩やかさを称え、のんびりあるくのを楽しむことだ。

歩き旅の愉しみ 

「歩くことは、何よりも立ち止まり、見つめて、そこに佇むことを知ることだ。」

ジャック・ラカリエールのことば 歩き旅の愉しみ

歩くことは、自分を取り囲む環境に改めて目を向け、自分の周りには大したものはないと思ってしまうマンネリ化した視線を浄化することなのだ。
ドイツの哲学者であるウォルター・ベンヤミンは「あるもののオーラを感じること、それはそのものに目を向けさせる力を与えることだ」と言う。

歩き旅の愉しみ p.126

つまり、歩くことって、ただ歩くことじゃないんですよね。
存在し、味わって、立ち止まること。そこには能動性がある。
視線もフレッシュになる。世界への在り方が変わるというか、背筋を伸ばす感じ。

風景との対話としての歩き旅

旅人は、周りの風景の何かに気がつくと、「見える」とは言わずに「感じる」という。(…)視線を向けるだけでは、深い観察はできない。外観を見るだけではなく、おおらかな気持ちになり、心が揺れ動き、場所と途切れることなく交流する。(…)小径がふんだんに放つ、あるいは小径そのものが「その場限りのアーティスト」のようにつくり出す、思いがけない味わいに注意を集中させる。

歩き旅の愉しみ p.125

街道ではなく、小径を歩いて、世の中を斜めから眺めると、自然現象の別の側面が見えてくる。抜け道は社会の周辺を通っているため、広い街道にとどまっていては見えないようなものが見える。裏庭や世界の裏側、つまりコンピューターの画面やさまざまな表向きの顔に隠されていたものの中に入るからだ。

歩き旅の愉しみ p.126

風景はそれが生み出すもので満ちているわけでもなく、空っぽでもない。大地と観察者との中間だ。

歩き旅の愉しみ p.156

小径はそこを通る者の視線の中だけに存在する。風景も同じだ。(…)同じひとつの小径はさまざまな見方の層の重なりで、見る人によってその姿はさまざまに変化する。(…)たったひとつの姿しかない風景などなく、どの風景にも無限のバージョンがある。

歩き旅の愉しみ p.156

歩き旅における風景は「見る」ものではなく、五感すべてで味わうもの。それは、その場所や自然の「中に入る」ことだ。
風景が絶対的なものではなく、私との関係によってまったく見え方の変わる、とても「個人的」なものなのだと気づかされる。一期一会なものであり、訪れたことのある場所でも、同じ風景ではない。また、人はそこを見るとき、過去の風景を重ねて「見て」いたりする。

そう考えると、誰かと「同じ景色を共有する」ことの難しさと、それができたときの尊さも感じた。

自己との対話としての歩き旅

ひとりで極めて長い歩き旅をしたジョン・ミューアはこう書いている。

「少しもさびしさを感じなかった。(…)自然全体が生き生きとして親しみがあり、人間味にあふれているように感じられる。石ですら、おしゃべりで、好意的で、兄弟のように感じられる。」

歩き旅の愉しみ p.174

「木々、草の一本一本、太陽光線、夕暮れ時や朝の空に浮かぶ雲、海、山こそが本当の連れです。そういったものすべてに命が、真の命が流れているので、それらを見たり、感じたりできる人は、決して一人ではないのです。」

アレクサンドラ・ダヴィッド・ネール 歩き旅の愉しみ p.175

「考え事」ができることを散歩の良さとして挙げる人も多い。
一人で歩きながら考え事に耽る時間はいいものだ。

歩き旅のいいところは、そこに周囲の環境という「あたたかい目線」や「気配」というものが加わることかもしれない。
高知や北海道でも、周りに人はいないけれど、生き物や森や石の存在にあたたかく包み込まれている感覚を感じることが多かった。
(私が岩や川に話しかけていたからかもしれない。あまりも美しかったから)

安心感のなかで自分と対話できると、深く癒されるように思う。

そして、野望

こんな気持ちのいい歩き旅のできる道・環境を作りたい!と思った。

歩き旅って、

歩かれる側(現地)には

  • 旅人のお腹が減る→食べ物がよく売れる、より美味しいと感じてもらえる

  • 滞在時間が伸びる→宿泊客増える→客単価、関係人口アップ

  • より深くその地域を知ってもらいやすい

歩く側(旅人)には

  • AIで時間余る→よりゆったり楽しむ時代へ→余暇の愉しみのひとつ

  • より現地の自然や雰囲気味わえる

  • お腹減る→ごはんおいしい

  • 健康的

というメリットがあると考えた。

日本一周とか、歩きでしたいのよ。
世界一周でもいい。

ただ、味気ないアスファルトの舗装道路や
埼玉のコピーみたいな地方都市を歩くのはごめんだ。

そして車道の脇をあるくのは危ない。
車は結構スピード出してるから危険だし、音もうるさいし、安心しがたい。
(ヒッチハイク的にはありがたいが)

理想を言えばさ、最高を描くなら、

舗装されていない、けどぬかるんだりもしていないよく整備された小径で
太陽ぎらぎらの炎天下じゃなくて、木漏れ日の感じで、ほどよく木陰を歩けて、横には小川なんかが流れていたり。自然の草花やキノコに出会えて、
たまにベンチがあったり。
5~10キロごとに飲める湧水とか、水が給水できるところがあって(自動販売機はごみが出るからなし。)
進むほどに美しくて個性のある景勝地や村や町に出会えて、
20キロごとに避難小屋か泊めてくれるお家があって(賛同者の民家、ゲストハウス、民宿)、温泉があって
1日2食は地元の食材を使ったおいしいものが食べられて
ときどき泳げる綺麗な川で遊んだり、浸ったりできて。
スマホがなくても迷わないような工夫が凝らされていて。

そんな道を私は作りたい。
というか歩きたい。

四国で言う、お遍路?
スペインの巡礼の道?
ニュージーランドにもあったような。

そんな感じで、日本をぐるっと一周する歩き旅の道があるといいな~って思った。

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