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①或る共同体の寓話、コミュニティについて考える


2016年2月2日

移住のための土地を探していたときのことです。

都会からの移住者がたくさん集まる村の話を聞いて、何はともあれ、どんなところなのか行ってみることにしました。

その村は大鹿村といって、人口は1100人足らず。
けれども村民の6人に1人が移住者で、村たっての移住体験ツアーが開催されるほど移住者の誘致が盛んな村です。

なぜ大鹿村にはこんなにも移住者が絶えないのでしょうか。

80年代の始めに、農業コミューンを作ろうとこの村にやってきたひとりの男性がいました。
やがて彼を頼りに移住する人が増えていった、それが始まりだったようです。

移住者が移住者を呼ぶというのはとてもうなづけることで、実際自分だってそこに興味を持って村を訪れたのですから。

結局のところ、現在は大鹿村とはまったく別の場所に住んでいるわけですが、それは村役場で説明を聞いているうちにすっかりくたびれてしまって、村に対して前向きな姿勢で向かい合うことができなかったことや、どうも面倒だなと思うことがあったからで、村自体は山に囲まれた、懐かしさのある長閑な田舎でした。

もうひとつ、大鹿村に興味を持ったきっかけがあって、それは詩人「ななおさかき」さんが晩年を過ごしたのがそこであったということです。

ななおさんをあらわすキーワードをいくつか挙げるとすれば、

放浪、詩、不所持、ヒッピー、自然志向、コミューン(部族)、

それから自由とかアレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダーなどのビートニクなどでしょうか、しかし、ただ、彼が旅に生きたこと、不所持を通したこと、そこに興味を持ちました。

不所持といえばサドゥさん。インド、リシケシュにて

一体どうしてこんな話を始めたのかといいますと、最近読んだ幾つかの本の中に、ななおさんが中心となって結成したコミューン「部族」の名前を見つけることがたびたびあったからなのです。

そしてこの話がどこに続くのかといえば、対抗文学やヒッピームーブメントではなくて、そのムーブメントのさなかに各地で誕生したコミューン、日本でも最盛期には全国で数十個のコミューンが結成され、そして消えていきました。

そういったコミューンの先駆者であり中心であったのが部族だったのですが、私はそれが「どのようにして消えていったのか」に興味を持ったのでした。
※部族についての、その成立の背景や活動内容、価値観については属していたメンバーご本人が本やネットに書いています。

それでここからの話題はそういったコミューンがなぜ消えていったのかということになるのですが、その前にひとつ、私が移住先で出会ったある男性についての話しをしたいと思います。

或る共同体の寓話

彼は早々に社会というものからドロップアウトしました。
まだ20代だった頃のことです。

彼は中学2年生のときに初めて目にして以来すっかり惚れこんでしまった八ヶ岳の、その中腹に建てられた簡素なつくりの家を購入して移り住み、歌ったり、野菜を作ったり、詩を詠んだりして過ごしていました。

彼の家には友だちや、友だちの友だち、友だちの知り合いなど、つまり全く面識のない人間でさえも常に5、6人逗留し、目的のない共同生活を送っていました。

集まってくるのは、平和と愛と自然と自然食が好きな貧乏旅行者でした。

旅行者たちは旅先で、彼の家のように無料で提供されている「場」を情報交換し(インターネットは無かった)、「◯◯さんからここの事を聞きました」などと言ってやって来ては、そのまま数ヶ月も暮している人もいました。

彼はどんな人が訪ねて来ようと大抵は迎え入れましたし、彼らがどのくらい滞在しようが、夜な夜な騒ごうが、昼間じゅうだらしなく寝ていようが構わなかったのです。

そういった来訪者が聞かせてくれる遠く離れた仲間の便りは嬉しかったし、みんなで旅や政治、環境の話をする時間を彼はゆかいな気持ちで過ごしました。

そんなある日、彼は唐突に何もかもが煩わしくなってしまい、運悪くその瞬間に立ち会った数人の共同生活者たちは、すぐさま追い出されることになりました。

このような彼の共同生活は、おそらく2、3年続いて、ただ突然に、衝動的に他人と暮らすのが嫌になってしまったので、その日以来、誰かを家に呼ぶことはほとんどなくなって、今は動物たちと暮らしています。

たとえば、終わりというものは、こんな風にしてやってくるのかも知れません。

その2へ続きます・・・

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