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ラーメンと珈琲と旅立ち

22時52分。

あと10分あれば。。。
間に合いたかった。
間に合わなかった。

それから、どう過ぎたかよく覚えてないが、冬の雨は雪に変わり、それも止んでいた。
クリスマスイブの午前3時過ぎに足を止めて見上げた。
ありがとうございました。
さよなら。
おやすみなさい。

母が亡くなりました。

ラーメンが好きだった。

以前は近くにあった蕎麦屋「東家」のラーメンを通院帰りによっては食べていたようだ。

蕎麦は好きじゃない。

糖尿病を患い失明した父親(私の祖父)が味気がなく柔らかくなった蕎麦ばかり食べていたことがトラウマになっているという。
僕が打った蕎麦も年に1回年越しにしか食べなかった。
ラーメンが好きだった。それもあっさり醤油ラーメン。
東家なき後、よくここに連れてきて昔風醤油ラーメンを一緒に食べた。ペロリと食べていた。

今日は慌ただしいが、今日しかないと思い年末の土曜日に妻と二人できた。
「昔風3つで」
「3名様ですか?」
「二名です」
「昔風3杯ですか?」
「お願いします」
「大盛りとかではなく?」
「3杯でおねがいします」
「ひとつは後で出しますか?」
「同時にお願いします」
「こういう頼まれ方初めてなもので」
「忙しいときなのにすいません。2人ですが、3人いると思って3杯でおねいします」

3杯のラーメン。
ちゃんと全部食べた。
初めて泣きながらラーメンを啜った。

うん。美味しかったよ。
また来るよ。

このあと斎場に向かった。

お茶かコーヒーかと訊くと「コーヒーが飲みたいねぇ」という。

こだわりはない。

缶コーヒーでも、インスタントでもいい。
それでも出歩いていた時は、小さな喫茶店でコーヒーを飲み、いつも同じ店でコーヒー豆を買ってきて、コーヒーメーカーで淹れていた。
それでも、豆にこだわりはなく、勧められれば、それを買ってきた。
そういうことがあってか、僕もコーヒーは早くから飲んでいた。中学の頃はコーラや牛乳より飲む量は多かった。

以前聞いたことがある。
船乗りの父に連れられてよく珈琲屋に行った。船長夫人として船に乗った時もコーヒーがよく出された。あちこちの港町でコーヒーをよく飲んだと。
コーヒーは父の思い出なのかもしれない。

美味しい珈琲を淹れてもらってきたので、お楽しみを。
向こうで父にも「美味しい珈琲を飲んできたよ」と自慢して話してね。


「地図帳買ってきて」
そう母に言われたのは、僕ら夫婦が共に仕事をやめ2人でニュージーランドへワーホリで1年間行く前のことだった。

地図を見ながら、僕らの居場所を知りたかったのだろう。
で、使いやすい地図と思いこの地図帳を買って母の元に置いて旅立った。

ニュージーランドから帰国後、母はパスポートを取り、何かの旅行会のツアーだが海外へ行くようになる。国内は今までほとんどの場所に行ったという。
海外は1999年から2007年まで、年2回ペースでいろいろな国に行ったようだ。
最後に行ったのはスイス。そのしゅぽあつの1週間前に雪で滑って骨折。ボルトを入れる手術をするが、「今行かないともういけない気がする」と言って杖をついてツアーに参加した。
その通りだったのかもしれない。それから参加者不足でツアーが中止になったり、母も体調を悪くして入院したりして、海外も国内すら旅行をしなくなった。冬が来ると「転ぶと危険」といい外出もしなくなり、引きこもり認知症が出始めたのもその頃だった。

それでも、最初の頃はテーブルの上にはこの地図帳があり、TVで紀行モノやニュースを見るとこの地図帳を開いていた。

母は与える人だった。

かといって、見返りを求めることもほとんどなかった。
まあ、仕事としての洋服の直しはやって生計を立ててはいたが、よくタダで直していたりもした。
さらに、目だったことには恥ずかしいと思うたちで、カラオケも苦手だった。あれだけの、洋服のリフォームの技術があるのに、そういう店を持とうとも思わず、ブティックの下請けに徹していた。
自分の手の届く範囲で、できる限りの手助けをしたい。それでいい。というような考えだったのかもしれないが、たぶんそういう使命感もなかったと思う。

僕も多くのものを与えられた。
その大半は返していない。
恩は受けてばかりだ。
恩返しもしていない。何もできなかった。
それが悔いているが、きっと母はそんな恩返しを求めていまい人なのだと思う。

いってしまえば、人が良すぎる。
だから、先物取引でだまされたり、使いもしないのにインターネット回線を引いたり、貴金属の訪問買い取りで真珠のネックレスを売ってしまったり、リフォームの契約をしてしまったり、毛皮を買ったり、貸した金が返ってこなかったり、ちょっとした聞き違いで疎遠になったりしてきた。。。見ていると危ない。

それでも、落胆はするものの、相手を悪くいったり、怒ったりしたことはない。もちろんやな気持ちではいるはずだし、何度か愚痴を聞いたことはある。

「恩」というものは、与える側が感じるものではない。受ける側が「恩」を重く受け止め、恩返しをする。あるいは恩を仇で返す。
与えた側が「恩も返さない」とか「恩を仇で返された。」と思うのは、「恩着せがましい」ことだ。
与えられたものを「恩」とは感じずに、いつまでも恨み、結局疎遠になることもあったようで、それが残念だといっていた。また一緒に旅行でもしたいと。

母の遺影を見ていると、
母もきっといっぱいの「恩」を与えられた人だったに違いない。母の両親や、兄弟や友人や、先立った父や近所の方や直しのお客さんとかからたくさんの「恩」をもらったのだと思う。
与えられた「恩」は、見返りなど求めずに次に与えればいい。
「恩」はいつまでも持ち続けるものではない。
母には「恩」を与えられぱなしで、母に何も返せずに逝ってしまったが、僕はそれを次に返していけばいい。きっとそれで母は納得してくれるのだろうと、勝手に解釈している。

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