選択に良いも悪いもない。
会社員デザイナー10年、フリーランス3年目のしのこです。
ShIn-Designという屋号で3年ほど、個人事業主として活動しています。
わたしにとって「選択」とは
「#自分で選んでよかったこと」をテーマにした時に真っ先に考えたのは、わたしの思う「選択」についてでした。
自分は選択することに対してどんな考えがあるのだろう、昔からどんな選択をしていただろう?と思い、少しだけ過去を振り返ることにします。
むかしのわたしと「選択」
人はすごく細かいものから大きいものまで、1日に3万5000回ほど選択をしているそうです。(ケンブリッジ大学Barbara Sahakian教授)
朝ここで起きる!と決める選択から、人生の分岐点まで、ひとつひとつ自分で選択したことが人生になっていくのだと改めて思わされます。
選択が怖かった
幼い頃のわたしは「何も選択したくない」と思ってました。何かを選ぶということは、何かを選ばないという事です。「2つある可能性のうち片方だけしか得られないなんて勿体無い」と、損得勘定が今より何倍も大きい子供だったんです。
その上で、「悩む自分がダサい」と見栄も貼っていました。今考えれば、もっと迷ったり選びあぐねいても良かったのにな、とも思います。
選ばされていたと嘆いていた
もう少しだけ昔の話をさせてください。
今でこそわたしは今の自分が好きだ、と胸を張って言えるようになりましたが、昔は本当に自分が大嫌いな子でした。
なんで可愛くないのだろう、なんでいつも不器用でうまくいかないのだろう、頭が悪いのだろう、面白いことが言えないのだろう。
と、本当に自分が大嫌いでした。
そしてそれを、無意識のうちにどんどん他人のせいにしていました。親やクラスメート、友だちなど。自分自身が自分を嫌いなだけなのに、誰かのせいにするなんて。とも思いますが、他人からの目線や言動、ちょっとした動きの選択を見て、この人はわたしに興味がないのだと判断していた癖がありました。
当時から人の癖や心の動きを見ることが多かったのですが、正直今でもその癖は抜けません。
そしてわたしは、自分が嫌いだと自身が思っているのは、そんな周りのせいだと思っていました。
わたしに興味がない言動をして嫌いにさせる、そう考えていました。
絵を描くこと、ものを作ることを選ぶ
わたしは人との距離を測ることがとても苦手だったので、趣味は自然と1人でできるインドア系のものになりました。
ドラマやアニメ、漫画を見ていたわたしは、ふと「自分で作りたい」と感じ、チラシの裏に絵を描き始めます。
少女漫画のキャラクターの模写をまずやってみる。わたしのものづくりは、そんな始まりでした。
次第にものづくりを通じて友だちもできました。
描くことが楽しくて、周りにも褒めてもらえた。動機なんてそんなものでしたが、わたしはようやく「自分を肯定する」ことを選択できました。
「やめる」ことは選べない
ただ、ものづくりも楽しいだけではなく、絵の上手さを周りと比べることで自信を失ったり、周りに嫉妬もしました。声には出さずとも、なんとなく雰囲気は出てたと思います。
それでも、ものづくりをやめることはできませんでした。やめればもっと楽になったはずなのに、どうしても捨てきれなかった。
今の環境や友だちを失いたくなかったし、何より自身の象徴だった絵描きを捨てることを選ぶなんてことは、考えられませんでした。
そんなとき、わたしはインターネットに出会います。
Webデザイナーになる選択
趣味でイラストを描いていたわたしには、当時公開するプラットフォームがありませんでした。その時は個人でサイトを作ることが割と主流で、同じジャンル同士で被リンクしあい、ファンを活発化させることがとても人気の時代です。
わたしもそんな仲間に入りたいと思い、Webサイトを作ります。なんとか作ったサイトは思ったよりも出来が良く、おそらく3年くらいはそのまま使っていました。
高校生だった当時、ある友だちからサイトが可愛いと褒められます。承認欲求の塊だったわたしにとっての衝撃は大きく、今でも忘れられない出来事です。
わたしがデザイナーを目指す最初のきっかけは、実はそこでした。
「ふつう」の女性として幸せになれなかったとしてもかまわない。絶対に、やめない。
デザイナーになるために専門学校に通いたいと両親に伝えた時は、本当に驚かれ、そして反対されました。
当時はまだWebデザイナーなんて言葉は主流ではなかったし、いわゆる横文字の職業になんてわたしにはなれないと両親は思っていました。
そして、両親が若い時に「幸せだ」と教えられた生き方にも背くものだったので、「普通の女性として幸せになれないよ」とまで言われました。
今考えると、そんなことはないなぁと言えるのですが、若い頃の自分にそんな反論はできませんでした。
ただ当時、わたしの家にはそこまでお金はなかったので、奨学金を借りて専門学校に通うことを強く相談しました。
奨学金は自分名義でお金を借りること、しかも数百万円も。当時はそこまでことの重さを理解できていなかったように思いますが、一方で「そんなふうに幸せになれなくても、今やりたい」「将来の自分が苦労してでもやらなきゃ」と頑なに譲れませんでした。
今まで最終的には両親の言うことを聞いてきた子だったので、また驚かれもしましたが、最終的に両親は、応援してくれる立場になってくれました。
その後の2年間、必死にデザインについて勉強し、無事新卒で制作会社に入社したり、インハウスデザイナーとして一般企業で働くこととなります。
仕事の上での選択
理不尽と孤独
社会で仕事を始めると、無理にでもプロダクトを進めなければならない時があります。
もちろん誰かが助けてくれることもありますが、最終的に責任を持つのは自分です。
学生時代になんとなく甘えていて責任逃れしていたわたしは、仕事をしながらどんどん責任を負うようになりました。
いろんな理不尽やひとりぼっちの辛さ、理解してもらえない悲しさや憤りを抱えながら、また時々人に対して強い感情を持つこともありました。
そんな生活の中でも、自分が苦しいことを理解していました。そして、何が自分を苦しめているのか対峙した時、「選択させられている」と自分が思い込んでいることに気づきます。
楽しいことや苦しいことも、すべて選択している
仕事やプライベート、その中でわたしは漠然と、うまくいっていないと鬱憤が溜まっていました。そして無意識のうちに誰かのせいにすることで、逃げられて、楽だったんだと思います。
でも楽をすることで、楽にはならない。
自分を苦しめて終わらないだけ。
そう考えた時に、じゃあ「なにもかも自分が招いたこと、選んだ結果なんだ」と、ポジティブでもネガティブでもないような理屈を思いつきました。
確かに全ての結果は自分の何かしらの選択が反映されている。
その時良かれと思って選んだ道も、時として未来や過去の自分を苦しめたり、また傷つけることもある。
でもそれは、選ばなかったこともできたのか。選ばないという選択をすることで、もっと納得できない結果になっていたんじゃないだろうか。
選択をすれば、必ず選択しなかった方だったら、と思う時がある。損をしたんじゃないか、自分にとってプラスじゃなかったんじゃないか、と考える。
選択に、よいもわるいもなく。
どちらの方が納得できるか、後悔が少ないか、だけなんじゃないだろうか。
そう考えた時にわたしが納得できる基準は、
わたしは誰かが救われる選択なら、
それが良い。
わたし以外の誰かが救われることで、
わたしも救われるような、そんな気持ち。
と、ふと思うことができました。
そして年齢を経るにつれ、「人に選ばされたこと」「結果的に選ばざるを得なかったこと」についても、わたしは最終的には「【人に選ばされたこと】を自分が選んだんだ」と考えるようになりました。
なんだかネガティブっぽいですけども、「どんな状況でも自分の行動の最終決定権は自分にしかない」と考えて生きてきたので、すべての選択に対しては責任と後悔の可能性を覚悟して、日々を過ごしています。
それでもよかった、といえるもの。選択。
わたしはいま、フリーランスでデザイナーをしています。10年会社員デザイナーをしていて、なんとか独立できました。そして今、3年目としてなんとか生きてます。
そして今の社会はスキル重視になりつつあり、副業でクリエイティブ業務を学ぶ方も増えました。そんな中で、「手に職があって良かったね」「何年も続けられているなんてすごいね」と言ってくださる方もいらっしゃいます。
たしかにお仕事がある、スキルが手にあるのはありがたいことだし、経験年数は一種の自信にもなります。
もはや、自分の人生の3分の2くらいはデザイナーなんだろうな、と感じる時もあります。
ただ、そんなわたしもたくさんのことに挑戦し、諦めました。それは「諦めることを選択し、辞めた」とも言えます。
わたしはただ、「デザインをやめなかった」辞めないことを選択し続けているんだなとも思うんです。
昔の自分が見たら、大したデザイナーでもないのにしがみついて、と笑ったかもしれません。
でも今の自分は、「デザイナーでいることを選択している」自分がとても誇らしく、大好きだなぁと思えます。
わたしはデザイナーを職業にして、
心からよかった、と思えるんです。
そしてそれだけは未来でも変わらないし、
大切な自分の一つでもあります。
デザイナーでいれてよかった。