テニスの精
自販機で水を買おうと、お尻の右ポケットから財布を取ったらすごく軽い。開いてみると、お札も小銭も見事にスッカラカンだ。
どうやらさっき人込みの通りを歩いていたとき、すられたらしい。すられて中身を抜かれてまた元に戻された。でも身分証とか会員カードは取られてはいない。良心的なスリである。
僕はTシャツをまくって、腹巻から予備の財布を取り出す。
そうしてがま口を開け、硬貨を一枚一枚機械の中へ入れていく。
でも最後の百円玉を入れようとしたところでついに落としてしまい、さらにつま先で側溝の穴に落っことしてしまった。
「くぉらぁ!!」
頭が爆発したと思えるほどの、とてつもなく大きな声が聞こえた。すごく至近距離で。
どうやらお世辞にも常識的とは言いがたい年配の男が、僕に向かって怒鳴ったのだ。
僕は田植えみたいな姿勢のままじっとしていた。こうやってお金を探すのに夢中という感じでやり過ごそうとしたのだ。
思った通り、男はそれっきり何も言ってこなかった。
もう大丈夫だろうと身体を起こし、それとなく周りを見てみる。
すると、子連れの若い女性が足を止めて心配そうに僕のことをじっと見ていた。
でも他には誰もいない。
その女性に、自分が大丈夫であると軽い会釈で伝え――彼女は時々僕の方を振り返りながら去って行った――、それから驚いたひょうしに落としてしまった財布を拾い上げる。
でもそうしたとき、がま口が開けっ放しになっていたのを忘れていて、財布から大量の小銭が雨となって落ちていき、一瞬見ただけでも五百円玉一枚と、百円玉二枚が側溝の穴の中へ次々と落ちていった。
「貴様は、また金をドブに捨ておったな」
そんな声がどこからか聞こえた。さっきの男だ。
周りを見回している僕に向かって、彼は続けてこう言った。
「さがしても無駄だ。わしは貴様の頭の中に直接話しかけているのだから」
僕はまだ意味がよく分からなかった。しかしそんなことお構いなしに、声の主は自己紹介を始めた。
「わしか?わしはな、何を隠そう、流通の精だ」
「流通の精?」
いかにも、と彼は大真面目に言う。
「貴様は中学くらいの頃から何度も何度も金を落としているだろう」
そう。合っている。中学二年の頃だ。反抗期も冷めるほど僕はその問題におびやかされた。
「そうして今の1231円で、その合計が10万円を越えたのだ!」
え、じゅ、10万円!?
それを聞いて、実のところ僕はホッとしていた。その十倍はあるかと思っていたから。
すると流通の精は、そんな僕の安堵に気づき、こう釘を刺してきた。
「10万円と聞いてホッとしているようだな。まあ、それも解らんでもないが。しかし、貴様は誤解しておる。これは貴様がただ流通不能にさせた金額というだけに過ぎん」
「どういうことですか?」と僕は思わず口に出して言ってしまった。もちろん周りには誰もいない。
「声に出さんでも心に思うだけでよろしい」
と流通の精は言った。
「結果から言えば、貴様がこれまで落としてきた金の総額は1587万2835円である。貴様はその内の10万円を流通不能にさせたのだ」
1587万…、と僕は思わず呟いて、倒れそうになるのを必死で堪えた。1000万ってなんだ?ああそうか、何年か前宝くじが紛失したが、あれだったのかも知れない。じゃあ500万というのは…
しばらくはそうやって、呆然と立ち尽くすほかなかった。
その間にも流通の精の声が、頭の中でブルドーザーが木々や家々をなぎ倒していくような感じで響いている。
「流通不能というのは、これは言葉通り、今のように金や価値あるものをドブや川に落としたり、あるいは誤って燃やされたりしてしまって、もう二度と使えなくなってしまった、言うなれば死んだ金のことだ。もちろん貴様が落としたその他の1577万2835円は無事人の手に渡り流通しておる」
「ちょっと待って!」
と僕は大きな声で叫んで、それから思い直して心の中で話し始めた。
「残りの1577万円が人の手に渡って使われている?」
「違う。1577万2835円だ」と流通の精は言い直す。「当たり前であろう。拾われた金は警察に届けられるにしろ、ネコババされるにしろ人の手に渡るのだ。遅かれ早かれ使われるに決まっている」
僕は色々言いたかったが、結局はそれをすべて飲み込んで、代わりにこう流通の精に聞いてみた。
「で、あなたは僕に何の用なのですか?」
「わしら流通の精は、その名の通り世界の流通をつかさどる精だ。貴様は10万もの金の流通を永遠に滞らせた。これは重罪だ。よってわしは我が眷族を代表し、貴様を制裁しにきたのである」
と、流通の精は断固たる口調で言う。
「しかし我らは、貴様が無償で1580万近くの大金を流通させた功績を忘れてはおらぬ。そのため刑が執行される前に、少しだけいい夢を見させてやることが決まった」
「おい待ってくれ!」
と僕はついに我慢できなくなって叫んだ。近くを歩いていた人が、何事かとこっちを見たが、そんなのかまいやしない。
「僕だって好き好んで1580万近い金を落としたわけじゃないし、もちろん10万円分の金を流通不可能にしたことだって、わざとじゃない。これは不幸なことだ。それに世の中には僕なんかよりよっぽど悪い人間もいるし、金を無駄にする奴だっているでしょう。それでもあなたは僕に対してその制裁とやらを加えるというのですか?」
言っていて自分が情けなくなってきた。
「これこそ、泣きっ面に蜂という奴だな」と、流通の精は言った。
お前が言うな!と喉元まで出かけたが、僕は制裁のことを思い出して何も言わないことにした。どう考えても、あっちの方が圧倒的に有利なのだ。
「これも宿命という奴だ。それにわしは、貴様をこれっぽっちも不幸な人間とは思ってはいないよ」
これはもしかしたら、流通の精が僕を励ましてくれているのかと思い、次の言葉をつい期待してしまった。
「貴様はいうなれば犯罪者だ。幸も不幸もない」と、流通の精は感情を込めず言う。「それに、流通の精だってエリアごとの割り当てだ。それから、例えば無用な殺生をすれば、それを罰する精なども別におる」
流通の精が喋り終わるなり、急に僕は全身の力が抜け、何もできずに地面にへたり込んでしまった。
意識がなんだか遠のいていくような感じがしてきた。
流通の精の声が聞こえてくる。
その声はまるで遠くに離れていくように、少しずつ小さくなっていく。
「さっきも少し言ったが、これから貴様にはある夢を見てもらう。それはこれまで貴様が現実でも、もちろん夢の中でも味わったことのない、最高の悦楽と快楽と幸福に満ちた夢だ」
それはぜひ見てみたい。
だが、と彼は言う。
「貴様がその夢から目覚めたとき、そこは貴様が今までしてきた罪を余すところなく清算するための場になっておる」
え?
「そこが現実なのか夢の世界なのか、貴様はしばらく問い続けることになるだろう。まあそれもすぐに向こうの生活に追われてどうでもよくなってしまうだろうがな。ちなみに目覚めたとき、貴様はわしの事をきれいさっぱりと失念しておる」
そして辺りは、しんと静まり返った。
でもいつまでたっても僕の意識ははっきりしたままで、その予告された眠気はやってこなかった。
なんだか身体も動きそうだ。
僕はおそるおそる立ち上がって服についた埃をはらい、それから流通の精の声が聞こえないかと、耳をすませてみた。
するととても聞き取りにくい声でこんな会話が聞こえてきた。
「ぬぬぬ!き、貴様は服部!そうか、ここ数年姿を現さぬと思っていたらこの人間に取り憑いていたとは!謀ったわ!」
「等々力さんよ。こいつは俺の大事なメシのタネでね。制裁なんてされるわけにはいかねえのさ」
「何を言うか、この一族のごくつぶしが!13年前貴様に敗れ、スポーツ推薦も、全国大会の道も断たれたあの悔しさ、うらみ、今ここで晴らし今日こそ勝利の校歌を歌い上げてやるわ!」
「あんたはまだ校歌なんて覚えているのか!俺だってあのあと周りからちやほやされて、女の子とデートして、そのおかげでお金が無くなって道を踏み外したんだ!覚悟しやがれ!」
それっきり、会話は聞こえてこなくなった。でもときどき、テニスボールのようなものを打つスコンという音や、誰かがコートで忙しなく動き回るキュッキュッという音が聞こえてきた。
僕はなんとなく、急いでその場を後にした。
走って移動している最中、驚くことに転びもしなければ(そしてそのひょうしに財布が飛んで行って、鳥や犬に持っていかれる/お金に困っていたらしい夫婦が見つけて、天の助けだと言って持っていかれたこともあったっけな)、荷物を持った人が突っ込んできて、高価な壺が割れたとか、肩にひびが入ったとか言って変な仲間を呼ばれたとかいうことも一切なかった。
道に誰かの財布が落ちている。それを拾って交番に届けると、ちょうどそこに落とし主がいた。お婆さんは、止める間もなく財布から何枚かのお札を抜いて僕の胸に押し付け出て行った。
僕はある決意を胸にそのお金をむき出しで持ったまま、交番を出た。
もしこのまま何事もなく宝くじ屋に辿り着くことができたら、このお金を全部宝くじにつぎ込んでやろう。
ちょうど今頭の中では、小さな音量で、男が何か学校の校歌らしき歌を、僕を讃えるみたいに元気よく歌っているところだった。
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