私が思う私が存在する
仕事から帰り、一人夕食を食べて物思いにふける時間が何よりも幸せだ。
孤独の作業の中にこそ思想の深淵が垣間見えるのだ。
私はそう独り言を言いながら、ゆっくりと今日の記憶の糸を手繰り寄せていた。
何処かで誰かが言った言葉を思い出す。
そう、そうだ、あの言葉だ。
現実は自分に取り入れた時にフィルターにかけられ、そして自分の中から表出する時にさらにフィルターにかけられる。
現実は二重の意味で編集されるのだ。
実に良い事を言うと思った。
そうなると元々の現実は現実ではなくなり、別なモノへと変身する。
私が捉えた現実は既に現実ではなく別のモノに変身するのだが目の前の現実は何も変わる事はなく私の前に存在する。
まさに奇奇怪怪の世界ではないか。
変身する世界と変身しない現実。一体本当の現実は何処に存在するのだろうか。
「いや、君の前に変わらず存在しているよ。変わっているのは君だ。」
「いや、僕は変わっていない。変わっているのは僕が取り入れた現実だ。」
「ちがうよ。現実を取り込んだ時点で君は変容しており、それはもはや以前の君ではないだよ」
「実におかしなことを言うではないか。だったら世界の現実は常に変容していると同時に何変わらないという矛盾が存在するのではないか」
「そうだ、それが世界だ。だからこそデカルトは言った。我思う故に我ありと。そう考える自分自身の存在は否定できないと」
「なるほど、ならば私は私の物想いと言う時間を受け入れて考え続けようではないか。それこそ私が私たる存在の所以だ」
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