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l.C.U.に入学してバンド活動、そして運命の人に出会う

  ICUのクラスメイトの殆どは海城、開成などの有名進学校の出身者で男子も女子もガリ勉タイプだった。
 
 しかし、友達になったのは公立高校の出身者が多かった。彼らはいわゆるガリ勉タイプでは無かったがデイパックには読みかけのペイパーバックを忍ばせている程英語は堪能だった。彼等との共通の話題は音楽、映画、小説と実に豊富だった。
 
 学校がある三鷹の隣街、吉祥寺が遊び場だった。学校帰りには、当時、流行り始めていたロック喫茶に行って様々な話題について語り合った。彼等の博識ぶりには驚かされた。
 
 自然とバンドを組む事になり、吉祥寺のスタジオで練習した。その後、発表の場が欲しくなり、ラウンジで月に1度ボール(ダンスパーティー)を開催して楽しんだ。特に、ノンジャパやヘンジャパ(帰国子女)に好評でノンジャパやヘンジャパの友人が一気に増えた。
 
 映画も好きだったメンバーでフィルムクラブに入り、なかなか観られない映画を上映したりもしていた。
 
 60年代の学生運動の影響で中止になっていた学園祭が再開する事になり僕等もロック喫茶を出展する事に。僕が持っていたオーディオを提供し、皆んなでレコードを持ち寄ってロックを流して楽しんだ。
 
 学園祭の実行委員と揉めた事もあったが楽しい思い出だ。
 
 当時のバンド仲間の1人は後にプロのミュージシャンになり現在も活躍している。
 
 僕は哲学の勉強をもっとしたくなり何となく院に進む事を考えていた。
 
 しかし、その頃僕は運命の女性と知り合う事になる。
 
 ヘンジャパの友人に呼ばれて行った家にいたその友人のお姉さんに紹介されたのだった。

 後に僕の妻となる女性だった。


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