見出し画像

オールがもたらすしみじみと感じる学び

ただの、エッセイです。
思ったり思わなかったりすることをそのままに、ただ、綴っています。

まっさらな気持ちで迎えた月曜日。
起床後は、コーヒーを淹れて読書をしてPCを開くのが日課だけど、先週の土曜日に友人と「オール」したので、そこからうまく生活習慣が戻せずに1週間がすぎていた。

20歳くらいのときは、大学の課題に追われたり朝までカラオケしたりと、平気で徹夜していたことを思い出し、まだ自分に夜をあかせるほどの体力があったのかとうれしくなりました。

徐々に明るくなっていく外を横目に、ボードゲームをしたりただおしゃべりしたり。頭は回転していなかったけれど、日常ではない少し特別な時間を過ごした。

わたしは話をするのが得意でもなければあまり好きでもないので、聞き役に徹する方がうんと楽。
でもたまには口を開きたい、わがまま者です。

わがまま者のわたしを、受け入れてくれている友人たちと程よい距離感を保っていたい。
そしてわたしも、友人たちのわがままを快く受け入れたい。

常に、人間関係に悩んできた四半世紀。
わたしはできた人間ではないから、イヤなものはイヤだし、受け入れ難いものは受け入れ難い。
それでも、無意識に良いフリをしてしまい、後々にボロが出てくる。なんなら無意識に攻撃してしまうことも。
不器用だなと自分でも思いますが、それがわたしです。

それでも歳を重ねるにつれて、不器用ながらに世を渡るスキルをほどほどには身につけてきました。
「100%で気があう人なんて、いないよね」
そのことに気づくまで、随分と時間を要しました。

気が合わない部分も好きになることが、好きということ。
恋人関係でよくいう言葉だと思いますが、わたしはこの言葉を鵜呑みにしていたのだと思う。

わたしにとってよくない部分が見えた、わたしはそれを好きにはなれない…。
だから、この人は友達なのか?好きなのだろうか…?

受け入れるだけの器が小さいという話ではなくて、受け入れる器はそもそも持ち合わせていない状態だったのです。

だから、どうしたって100%すべて好きなんてあり得なくて、溢れた何%かを好き嫌い関係なく、受け入れられるかどうかが大事なんだよね。

受け入れた上で、どう接するかも当たり前に大事。
でもわたしはその接し方がマズいときがあり、「そういう意味で言ったわけじゃないのに…」と慌てて弁解することがここ最近2回ほどありました。

話し中に、自分の中の隠れた思いを曝け出すのは野暮だと思うタイプだけれど、隠れた主語や述語はきちんと表現しなきゃいけないんだと思った出来事。

壁、一つクリアしてもまた、壁。
一難さってまた一難とはこのこと。

あまり自分のことを曝け出したくはないけど、これは曝け出すという問題じゃないんだなと思った。
大きくわかりやすく捉えると、言葉に自分の魂が宿るってことだなとしみじみ。

さて、話をオールに戻すと、とにかく楽しくて、何かと振り返るきっかけになったのだから、本当にありがたい友人を持ったとしみじみ。

普段は23時には必ず寝て、5時に起きる生活。
そのルーティンから1週間抜けてみて、得られた学びは、あまりにも大きくてありがたいものだったとしみじみ。

ちなみに明日は謎に走りたい気分になりそうだから、ランニングウェアを寝巻きに床につく予定です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?