ものを見たり考える解像度の話


キーワード

関連に強い高解像度 共通項を抜き出す低解像度 具体の高解像度 抽象の低解像度 選択肢を獲得する

導入

 世の中の見方って人によって違うと思っていたけれど、それは単にその人が割いているリソースの割合が違うために生じていると思っていた。部分的に荒いところがあってもその他の分野ではとてもきめ細やかな理解をしているのだろうと。けれど本当にざっくりとしか世界を認識していないんだろうなぁという人に最近会ったので、それについて考えてみようと思う。実際彼と会ったから世界に対する解像度は人それぞれなんだなぁと思えたし、むしろ今まで会って話をしたことのある人は解像度の比較的高い人だったんだなと理解することができた。彼とは仕事の話や食べ物の話その他いろいろな話をしたけど、返答質問ともにふわふわしていたし、自分にとっては別のものだと思っていたものも彼は同一視しているようだった。私はというと一部こだわりというか些細な違いでも気持ちの悪さを感じることがある分野がある一方で、大体は「そういうこともあるよねー」とわざとゆとりを持った見方をするようにしている。かといって、細かい話ができないかと言われれば多くの友人から「お前と話しているとなんでも理解しようとしてくれるし、実際してくれるから嬉しい」と言われるくらいではあるから、細かい話ができないというわけでもないらしい。調整型とでもいうのかな。
 この記事では「解像度低いより高い方がいいよね?」という話をするつもりはあまりない。自分の考え方を押し付ける感じの気持ち悪さもそうだし、低いからこその強みもあると思っているからだ。この問題に対しては好き嫌いはあれど中庸がいいと思っているので、「それぞれの強みを知っておけると何を取り入れればいいのかがわかりやすいよね」というスタンスで行きたい。

ここで扱う解像度って何?

 ものの見方の解像度ってあまり意識しないことかもしれないけれど、そもそも私がものを見るときの解像度をどんなふうに考えているかをここに少し書いておきたい。まず解像度の高い人。これは物事を細かくみていて、一つひとつの特徴をよく理解しているというのが大きな特徴。だから、○○って何?って言われた時に多くの具体的な特徴を言えたりだとか関連したものの例を容易に挙げることができる。当然扱う情報は大きくなるし、些細なことに気がとられることも少なくないと思っている。次に解像度の低い人。これは物事をざっくりと見ていて、○○って何?って言われた時には特徴というよりは「こういうもの」というようにその物の全体をまとめた抽象的なフレーズで説明することが多いのだと思う。こちらはシンプルに物事を捉えていて、似たようなものは同じものとみなす人もいるようだ。例を挙げるとするなら、「たばこって何?」って言われた時に、「タバコの葉を発酵させた物を燃やすなどして吸う嗜好品で、日本では20歳から吸える。ニコチンが入っていて依存性があるとされている。電気を使って加熱するものがあるけれど、そちらは多くの場合タールを発生させなくて……」と続けていくのが解像度の高い人。「体にあまり良くないもの」と答えるのが解像度の低い人。関連づけるのが上手できめ細かな情報の扱い方をする高解像度の人、共通項を抜き出すのが上手でざっくりと進めていくのが上手い低解像度の人。そういう理解でこの話を進めていこうと思う。

人と話す場合 高解像度vs低解像度

 まずは人と話す時にどちらがいいのかという話。
 解像度が高ければ、話の中から関連する話題を選んで自然な流れで会話を続けられるという良さがある。例えば、歯車の話をしたらリンク機構の話に繋げることができるだろうし、カラクリという繋がりで考えるならばエジプトでヘロンが考えた聖水自販機の話にも繋げられる。ウンカの幼体の話もできるかもしれない。特徴を把握しているということはそれだけ繋ぐ選択肢が多くあるということで、相手に合わせて話を切り替えられるという良さがある。しかし、話し相手が関連付いているとわかるようにするには言葉を加える必要があるし、聞き手によっては話が飛んでいるように感じられるかもしれない。それでも相手も解像度が高いタイプの人間であるならば、それぞれの繋げ方の違いを興味深く聞きながら会話ができる利点もある。解像度が低い場合はどうだろうか。共通項を抜き出すのが上手いと言うことは、会話の中で「○○って△△に似ている。ほぼ同じじゃないか」という気づきを得やすいということでもある。おもしろいかどうかは横に置くとして、冗談をいうときにこれは活きるのではないか。「○○さんってもしかして△△の末裔?」みたいな感じで高解像度の人が行うのが情報のコミュニケーションとするならば、低解像度の人がするのは感情のコミュニケーションと言えるのではないか。同じことで笑ったり共感しあうコミュニケーション。おおよそほとんどの人は使い分けているだろうけれど、もしかしたら普段のコミュニケーションで解像度が近い人とよく話すようになるのかもしれない。ただ、高解像度すぎても感情の共有は難しいかもしれないし、低解像度すぎて浅はかだと思われるかもしれない。解像度の違いでコミュニケーションでショックを受けたのは、話し手がとても真剣な顔持ちで「昔から思っていたんですけどプリッツって実質汁なしラーメンですよね。しょっぱいし、細長いし」といっていた時だ。あまりにも酷くて苦笑いしてしまった。「冗談だよね?」といったら不機嫌になってしまった。IQが30違うと会話ができないなんて話はあるけれど、似たような感じで解像度の違いによって生じる会話中のストレスにはしんどいものがあるのかなぁと思った(IQとものの見方の解像度に関連性があるかはわからないけれど)。

問題解決の場合 高解像度vs低解像度

 問題解決についてはどうだろうか。目標達成だとか何か問題が起きたときの対処だとか。  
 高解像度の場合の良さは情報さえ集めてしまえば、細かいところまで計画を立てたりだとか、きめ細かな対応ができる所にある。これは関連する情報を持っていればそこからさらに関連した問題を想像できるというものによる。発生しうる問題をあらかじめ把握できるから、計画は多少のことでは崩れない。サブプランに移行するなどして対処ができる良さがある。ただ、情報を集めるときにはあらゆる状態を想定するためにかなりの時間を要する。この点が弱い点だろう。低解像度の場合の最高の武器は速さだ。予想外のことがたくさん起こる可能性が高いとか、計画に大きな影響を与えかねない不確実な要素がある時以外はざっくりした計画で発進して、後から柔軟に計画を修正した方がうまくいくことが多い。過去の事例を見ておけばその傾向をざっくり把握して経験的に活かすこともできるだろう。あくまで私の経験に過ぎないけれど、最悪の想定とそこからのリカバリー、計画の修正を考える段階の基準を用意さえできたら、ざっくり進めると時間的にも成果的にもうまくいくことが多い気がしている。結局はバランスが大事だけれどそのバランスの取り方を場面によって切り替えるのは非常に有効。速さが大事なら低解像度に重きを置くし、丁寧な対応が必要なら高解像度に寄せていく。そのコントロールをとる時には使い慣れている方を使うといいんだろうなと思う。

考えて思ったこと

 高校に入ってから英語の授業で「速読と精読を使い分けましょう」みたいな内容を結構時間をかけてやった気がするけれど、その感じで情報の取り扱い方として高解像度と低解像度の使い分けをいつの間にするようになっていた。意識しないでやっている人は多いと思うけれど、意識してやれるとその分メリットとリスクがわかりやすくていいよねっていうのが私の考え。途中で登場したプリッツはラーメンくんは情報の受け取り方が荒すぎるから、結構困っているという話をしていた。知っても自分のものにするかは自分次第という選択肢の獲得は大事だと日々痛感している。そういう意味でも色々な考え方に触れ、意見交換する場を大事にしたいなぁ。

最後まで読んでくれてありがとうございました。良い1週間を。

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