あきらめ (散文)

もしかしたら諦めない方がいい結果になったのかもしれない。そんなことがいくらでもある。なにかに挫折して続けることをやめてしまう。その分野に入ったばかりで適性も何も分かったものではないのにトップレベルにはなれないだろうと想像してやめてしまう。私が中学生だか高校生の時には自分の強みを活かそうという考えに触れることが多かった。やっても上達するか分からないものよりも今できることを活かそう、そういう考えだった。自分の適性を知ろう。それでリソースを強みに集中させよう。適性はこうやって知るといいよと適正テストを受けさせられる。そうして結果を見てみると結果はありふれた人。知能が少し高い。でもそれだけなの?私の強みって結局何?「弱みを反転させたものがその人の強みなんだよ」と高校の先生は言っていた。なるほど、多趣味で色々な中途半端な知識ばかり追い求めるのは好奇心が旺盛ということらしい。努力や継続が苦手なのは物事の概要を掴むのが速いということでもあるな。でもそれが何になるというのだろうか。私は諦めた。パズルを解くスピードを上げることを。なぜなら世の中には私よりよほど速く解ける人間がいたから。代わりに多くのパズルを解けるようにしたがそこにもすごい人はいる。そのうちやめてしまった。人より速く概要がわかるから、やる前に諦める。それは私にとって当たり前の事だった。「まだやめるには早いんじゃない?」そう言う人もいたけれど、やめる時期がわからないとかやめるにしても自分に合ったタイミングではないことがとても恐ろしくて、結局すぐにやめる癖がついた。私は諦めた。真剣に生きることを。世の中には自分よりもっと上手く生きる人がいると思ったから。自分に生きることは向いていないと何度も自殺未遂した。未遂をするまでは自分の中に信念のようなものを積み重ねてきたと錯覚していたが実際にはそんなものはなかった。ただそこには作為的に作られた信念もどきしかなくて「こういう人間ならこう判断するだろう」というような支えを失った不出来なアーチのようなものでしかなかった。もし、綺麗なアーチになっていたのなら崩れなかったろうに。そう思うこともある。でも実際何度も崩れてしまった。バラバラの経験の瓦礫。それが私だ。経験が何を私に許すのかと問うた時に人はそれは過去のを反省し失敗を繰り返さないことということが多い。失敗することに失敗することに失敗する。そんな反省に活きないことの方が多いし、軽微な失敗は忘れてしまう。過去の話なんてほんの些細なエピソードくらいしか持ち合わせていない私にとっては、失敗を活かすなんてことすら難しい。「何者にもなれるよ。お前は多分。10年後囚人になっていても成功していてもおかしくない」そんなことを10年前に私に言った彼は私のことを覚えているだろうか。安心しなよ。まだ何にもなれていない。大学生なのかもよくわからないまま日々を無為に過ごしている。ただ、反省と言えば。自殺をほのめかしている知り合いにはどう接するのが良いのだろうね。なぁ、答えてくれよ。私は止められたら癪に触って決行を早めたりするたちなんだがね。私はあえて止めなかったよ。君が死んでも悲しくなる気分じゃなかったし、嘘はつきたくなかったんだよ。だから引き止めることをあきらめた。電車で死ぬことをほのめかして、誰とも連絡がつかなかくなった君。あの日気になって調べたけど電車はどこでも止まっていなかった。元気かな?あの時、諦めなかったら良かったのかな。私にはわからないよ。新しいことを始めることにはエネルギーが必要だと言われるけれど、私は継続のほうがよほど疲れてしまう。新しいものだと誤魔化しながら日々を過ごしていくしか仕方ないね。諦めることの多かった私に。本当に諦めきれないものってどこかにあるのかな。

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