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写真を見ることへの想像力の欠如?   それとも悪く見てしまう気持ち?

いきなり重いタイトルです。

まずはこの写真をご覧ください。

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私がインスタグラムに投稿した写真です。
写真を撮る際、レンズの組み合わせ、カメラの高さや角度などを考えながら、どのようにすれば躍動感が出るのかなどを考えながら撮影しています。
さらに、撮影後は、どのようにすればネコの躍動感と浮遊感を見せることができるかを現像処理をする際に、トリミングをして見せ方などを考えます。

数年前なら躍動感がある写真というくくりだったのですが、「投げているのではないか」とコメントをいただきました。以前からこういう動きのある写真でこのようなコメントをいただくこともありました。

一見さんではなく、フォローをしてくれている方からもこのようなコメントをいただくのが非常につらいんです。これまでの写真やコメントなどを見ていただいていて、私がネコを放り投げて撮影をしていると思われるということが。

これに関しては、変な勘ぐりされるのは嫌なので、撮影の裏側としてある程度の撮影の方法を記載して、この写真ではないトリミングの写真も掲載しました。

MRKN9854のコピー

周辺情報を入れないと想像できないほどに、芸術分野の習熟度が落ちているのではないかと思ってしまうんです。
実際に学校では、団体での結束を図ることができない美術よりも、合唱、合奏コンクールなどで団体としての結束力を持つことができる音楽の授業には力を入れるけど、個人の能力になってしまう美術への関心が落ちていると聞いています。絵画を見る力、読み解く力を学ぶ場が少ないのではないかと思います。

そこでまた書き込みをいただくのは、「心配していました」や、「わかってはいたけど、安心しました」という書き込み。

動物全般が大好きで、特に猫写真家を名乗っているので、ネコが大好きです。ネコの身体能力的には全然平気であろう高さではあるけれど、写真を撮るために放り投げていると思われてしまっていることが、非常につらいなあと。

だったらそういう撮り方をしなければいい、見せ方をしなければいいと言われるかもしれないけれど、そうなると表現方法、手段、方策として撮影テクニック、手法や見せ方をしないということになってしまうんですよね。

全ての写真に対して、この写真はこのように撮影していますというエクスキューズをつけなくてはならないのか?

飲食店などでは、そういうものは秘伝のレシピ、伝統芸能などであれば門外不出の技術だったりするものなんだと思います。

作家の独自性、作家ではなくても、他への影響を鑑みて手法は公にしないということだったり。

何が言いたいのかというと、インスタグラムにも書き込んだのですが、見る側はすぐにこのやり方はおかしい、配慮がないということではなく、「この写真はどうやって撮ったんだろう」、「どんな見せ方をしているんだろう」と想像してもらいたいということです。

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高さという周辺情報を入れなくてはいけなくなるのか。

直接的な交流がある人たちではないけれど、写真を見てもらい、コメントを見ていただいている中で、被写体に対してどのように接しているのかを感じてもらいたいなと。
ただ、それでもそう感じてもらえないとしたら、こちら側にも問題はあるのだろうけど。

見る人たちの想像力の欠如もあるし、実際に悪い方法をとっている人たちがいるのか。見せる側にも問題があるのか。

写真は見てもらうことで、どう感じるかという部分にも評価は委ねられるけど、楽しい、おもしろいそういう部分を排除して、これは配慮がないという考え方、捉え方しかなくなるのは、写真に限らず絵画や美術、芸術全般が衰退してしまうのではないかなあ。

なんて思ったりするのでした。
見た人が楽しくなる、癒しを、笑顔になる写真をと思っていたけれど、なかなかむずかしいなあと思うのです。
なので、インスタグラムには衝動的にこういうった動きのある写真を一気にあげちゃいました。あげまくっていたらインスタグラムから「これはスパム」と言われて削除されるという、そんなオチまでついたのでした。

表現を見てもらうには簡単な時代だけど、目が肥えていないというと語弊があるけれど、想像の翼を広げて世界観を楽しんでもらいづらい、むずかしい時代にもなっているなと思うのでした。

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猫写真家・森永健一ホームページ


ブライダルカメラマン&猫写真家のモリケンこと森永健一。 ネコ写真集「あきらめニャければうまくいく」(電波社)より発売中!エキサイトニュース、えんウチ、しらべぇにも取りあげられました。 東京カメラ部写真展4回入選。 ネコフォトエッセイも連載していました。