動物ドキュメンタリーは死んでしまうのか?
プライバシー含めて色々なものにモザイクやぼかしが入る昨今。
人や動物がその土地でどのように生活しているのか。
そこに行ったことがなくても、取材して写真と言葉などでその土地の空気感や、人と動物との繋がりを伝えたいと思って撮影してきた数十年。
元々はかわいいネコの写真を撮るというよりも、前述した、その土地で生きる人とネコとの関わりを撮影していたので、風景の中にネコがいる写真が多かった。
エッセイという、写真だけでは伝わらない空気感を言葉で補完することで、いったことがない人にはその土地の空気感を感じてもらい、次の旅行のきっかけになってもらえたり、ネコというフィルターを通して見る世界を感じてもらえればと思ってずっと撮影し続けてきた。
ネコを探していると言えば、みんなで探してくれたり、どこにいるか教えてくれたり。ときには撮影の手伝いもしてもらえたりする。
そこには笑顔があった。
それがいつしか、人を撮ることもできなくなり、撮るとしてもパーツとしての切り抜きだったり、後ろ姿になってしまった。
人とのつながりを撮影していたけど、いつの間にかネコだけになっていった。
もちろん、時流の流れで、ネコのかわいさやおもしろさに特化していかなくてはという部分もあった。
それでも私は、撮影をしながらも風景や街並みのスナップも撮影して、こんな暮らしをしているというのを感じてもらえればと思いながら、今も撮影をしている。
今となっては、海外でネコの撮影をするのが一番楽しくなっている。
これまで通り人とネコとのつながりを撮影して、それを見てもらえるから。
撮影を嫌がる人はほとんどいなくて、逆に撮って撮ってと集まってくる。
ネコを探してるというと、「まずは俺を撮ってくれ」とみんながポーズ。
その後、ネコ情報を教えてもらったりすることが多い。
路地裏でネコを見つけて追いかけていくと、おばちゃんのご飯をもらっていた。「ネコ撮りに来たけど写真撮っていいですか」と聞くと、自由に撮ってていいと快諾。いきなり外国人が来ても動じないおばちゃんすごい!
もう何年もしないうちに、街中でカメラを向けたら逮捕されるときがくるのかもしれない。
スナップという写真文化も衰退していき、何気ない瞬間ではなく、すべて作られた世界の中でのさつえいになってしまのかもしれないなあ。
今後、動物のドキュメンタリーはこんな感じになっていってしまうのかもしれない。
生活感、命を知ることもなくなるのかなあ。
動物ドキュメンタリーは死んでしまうのか?
表現の自由というものもどうなっていくのか。
カメラを持つこと自体が、銃刀法と同じで資格制度になっていくのかもしれない。
ブライダルカメラマン&猫写真家のモリケンこと森永健一。 ネコ写真集「あきらめニャければうまくいく」(電波社)より発売中!エキサイトニュース、えんウチ、しらべぇにも取りあげられました。 東京カメラ部写真展4回入選。 ネコフォトエッセイも連載していました。