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発達障害元年・1

 とりあえずつけたこのタイトルのままでいいのかな、とさっきから気にはなっている。

「元年」といってもこの「障害」と世間との関係を意味するものなのでは無論ない。単に私にとっての元年で、
(去年も押し迫った頃に起きた一連の出来事を機に、じつは、その当事者だったのではないかと考え出してやがて確信するに至った)
 そんな流れであったはずだと思い込み、一月程度の違いなら、とより威勢のいい「元年」とした。それだけの話なのだが、ふと不安を感じて確認してみれば、事の始めは去年の春もかなり早いうちのことなのだった。
 これもまた特性のうち。私の時間感覚は昔から相当甘く、なにがいつ頃起きたのかもそのあとさきも、ことの因果関係か、移転、その頃流行っていた映画や音楽、人の証言、メモ等々の他の指標なしでは靄の中でよくわかりにくい。
(一つ一つの出来事自体の記憶ならあんなに鮮明なのに……)
 というよりはむしろそのせい、時とともに記憶が適切には薄れていかず、ひしめきあう、同程度にクリアな記憶の遠近が感覚的には把握しにくいせいなのだろう。 
 まあ、この歳になれば、一年どころか四、五年ももうつい昨日。元年のままだってべつにいいのだが、残る「発達障害」はそれ以上にいいのかな、と気にかかる。「発達」の語がさほど意味をなさないケースも多々ある気はするし、マイナーなら障害か? おい、ともなんだか言ってやりたい。
 とはいえもっと好ましくは感じる「ニューロダイバーシティ」、またはその訳語の「神経多様性」にしても、脳機能の状態自体ではなく、ある考えかたを指す言葉だし、かといって「神経多様性におけるマイノリティー」ではいかにも長い。多くの誤解や差別に汚されつつではあるにしたって、認知度は明らかに遥かに高く、
(ああ、あの界隈のことね)
 と(肝心の当事者を含む)多くがとりあえずの反応はしてくれそうな「発達障害」としておく方がたぶん今はいい。なにしろ、「近い仲間と出会う機会をいくらかでも増やすこと」がこのnoteを始めた第一の理由なのだ。

 そんなわけでこのまんまでいくが、目下は、そうとはっきりわかっているのはADHD単体、それも自認に過ぎないもので、診断もまだ受けていず、この先受ける予定も当面はない。
 近隣の柔軟剤使用を機に発症したCS(化学物質過敏症)のせいで、この二年来、電車にもバスにも乗れていない。柔軟剤にまみれた人々が集まっていそうなところに行くのは極力避けたいし、じつは、現在の日々の生活の上では、少なくともADHD的な特性は、「電車に乗って病院に複数回通う」などという危険をおかしたいほどの困りごとになってはいない。
 悪夢だった体育の授業は人生から消えて久しく、年に一度の確定申告を除けば、避けられない事務的作業もほとんどない。引き出しや押入れ、その他の収納部分を開けさえしなければワンルームはそこそこ片づいて見え、困りごととしてよく言われる遅刻も滅多にはしていない。締め切りの何日も前に原稿を送るのと同様、早く着き過ぎる場合の方が多いし、Zoomの集まりにだって気がつけば真っ先に待機している(どれも、そうしないとたぶんする必要があること自体を忘れるのでは、と漠然とだが常に恐れているせいかもしれない)。そもそも、この禍々しい空気のせいで、人と待ち合わせるような機会自体が今では皆無に近いのだ。
 十年以上住んでいる街では今でも迷い、十分も家から離れれば、よくも悪くも旅行者に似た気分にはなる。
 行きたかった店になぜだかどうやっても行き着けず、
(あの店は、今日はない日だった……)
 と肩を落として帰る日は少なくないし、今すぐ使いたいさまざまのものが始終みつからずにいもするけれど、致命的なミスは、いつしでかすかと危惧するわりには案外していない。
 全般として、人の顔はなかなか憶えない(高校で非常勤の講師を務めていた時分、別々のクラスにいた、どちらもよく懐いてくれていた二人の女生徒が、じつは一卵性の双生児であることに半年間気がつかずにいたりした)わりにはスターの顔ならよく憶え、似顔絵は大得意でよく描きもしたとか、ほぼ壊滅状態だった粗大運動の中でも、足だけは結構速く、音楽がつくからか、ダンスもなぜか得意だった(ただし教師の動作を対面で真似るのは不可能だった)、手先にいたってはやたらと器用で、かなり長いこと絵を描くのを仕事にしようと思いもし、芸大への進学を教師にも勧められていた(ただし、少しサイズが大きくなるとフレームが認識できず、構図がおそろしく不得意だった)──などというように、その特質は概してまだらに出る傾向があり、全面展開はどれもしていない。もしかすると、他の要素によってかなり強引に補われていたせいかもしれない。
 なんにしても、今のように、得意な仕事だけを自分に合うペース(延々とぼんやりのあとの突然三倍速)でしていく分には問題はなく、それでもやはりしてしまうミスは、編集者がみつけ出して直してくれる。顔を憶えないことが問題となる状況も、在宅、一人仕事に加えての新型コロナ禍、CSとあっては生じようもなく、三倍速モードに巻き込んで気疲れさせる家族も今はなく、食器棚の引き出しからパンツが出てきたって気にする人はない。要は、困りごとというほどの問題にはどれもなっていないのだ。
 絶えずなにかしらに熱中をしていないと、「ただ死ぬのを待っている」ように思われてくること、気がつけば、あまりにも一人ぼっちになり過ぎていることをもし除外できればの話ではあるのだけれど。
 幸い、今のところは、一人遊びのアイディアが尽きたことはない。ふと熱中したアーティストの詳細なブログを作ってみては、本物のファンからコアなファンだと誤解されたり、満足して次のアーティストにまた移ったり、書いたり、鉱物を集めてみたり。飽きもせずにまあ、と我ながら感心するぐらいのことで、作業に熱中する間は、今のこのときが永遠の何分の一かででもあるように感じられもする。三倍速モードに耐えられる体力があるのももうあと少しだろうが、なくなったらそれはそのとき。
(なんとかでも遊べるうちは、せいぜい遊んでおかなくちゃ)
 というわけで、一昨年このかたは本作りごっこにはまり、業者への委託から近頃では手作りに移行していて、この遊びには当面飽きそうにない。

 でもまだ、「気がつけば一人ぼっち」になり過ぎの方の対策は思いついていない。その原因が自分でも今一納得できてはいない、だから──というような話なのかもしれないが、やはりよくはわかっていない。
 


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