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大きな「ふし」として

 天理教のことを知っているようで、実はわかっていないと勉強しなおしてから長い年月が経ってしまったが、資料を集めて読み、現地調査を繰り返し、ようやく自分の中で今の天理教の概要がつかめてきた気がする。

 短くまとめるなら現在の「天理教」というのは神ではなく人間の集まりに過ぎず、神不在のまま人間が儀式を整え、制度を作り、純粋な人々を取りこみ、肥大化した組織に過ぎないように感じている。人間思案の集団体質は「おふでさき」が書かれていた明治2年から15年の間でも起こっており、それを嘆く歌が詠まれてもいる。それを体制にいいように解釈して不都合な部分はぼかしてもいたが、ネットが発達し、情報があふれる今の時代では隠しきれないようになってきている。

 それでも多くの教会長や子弟は疑問や矛盾を感じながらも、悶々とした思いを持ちつつも衰退する教団から離れられずにいるようにも感じる。まるで新しい時代を迎える前の幕末の様相を呈しているようにも感じる。新型コロナやウクライナ侵攻と世の中は目まぐるしく動き、それに合わせて人々の考え方も変化しているように思うが、江戸時代末期の頃と今の混乱している状況が似ているようにも感じている。

 今の教会本部の在籍者も本部を拠り所としている教会長も、まるで幕末における徳川家の家臣と同じように見える。天理教という教団は制度的にも組織的にも江戸幕府と似ているように感じていたが、ちょうど幕末にも疫病が流行り、海の向こうでは西洋の列強が弱い国に侵攻し、植民地を広げようとしていた頃で、今の時代と似ているとも言える。

 歴史は繰り返すとも言われるが、親神は何を望み、人間世界にどうしろと訴えているのか思案するよう、大きな「ふし」として考えるように仕向けているようにも思う。

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