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神は本当にあるのか…?

 これを考え出すときりがないようにも思うし、なければないで今の宗教団体は全部、吹っ飛んでしまうようにも思う。結局のところ個々人の神の存在を信じる、信じないにかかっているようにも思う。今は漠然と「神」というのはこの大自然であり、自分を取り巻く全てのものが「神」ではないのかと思っている。仮にそうだとすれば今、人間は神が望むこととは反対のことばかりして、それではだめだと試練を与え続けているような状況にあるのかとも感じる。
 
 どの宗教でも教祖といわれる人がいて、神が降りてきてその人の口を通して神の思いを伝えたりして始まるものかとも思うのだが、天理教のいろいろな事例を調べていると、どうも神というのは人間の中でも、他の人間がふさわしいと思っている人には降りず、何かしら神の基準があって、人選して降りているようにも感じる。
 
 目の前の人間が急に神の声を語り始めたら、「気が狂った」か、「何か気持ち悪い」と思うだろう。見た目は人間で普通でも、まさか神が降りて話してるとなれば、俄かには信じられない。信じるに値する何か証明がなければ誰も信じないものだ。自分ならそれを確かめるためにどんなことをするだろうかとも思うが、見抜き見通しの神であれば、自分しか知りえないことを質問するだろうと思う。
 
 天啓者というのは親に降りたからといって子にも降りるわけではないようだ。それだけでなく降りて語る時は天啓を伝えているのかもしれないが、常時、神が乗り移っているわけではないとも思う。神の基準で選ばれ、天啓を伝えることがあっても、その後、神の基準から落ちこぼれるような行いばかりしたり、人間心でいいように暮らしていれば、やがて外されるのかとも考えている。ましてや世襲できるものでもなく、世襲させるものでもない
 
 元々、天理教は中山みき教祖、次の飯降伊蔵本席、上田ナライトまでは天啓者として、何をするにも神に伺いを立てていたのであろうが、「おさしず」でだめだと言われていたことも多々あるようだ。つまり人間を代表して真柱が神に伺いを立てて全てを行う体制があったわけだが、それでは物事が進まなかったり、思い通りにはできないわけで、教団という組織が出来上がってからは円滑に物事を進めていく上で初代真柱が本席に伺いを立てていくような体制から、後継指名されていたナライトさんを降ろし、教会本部で人間が決めたことを伺いを立てずに行う体制に変えていったのかと理解している。1918年(大正7年)の頃であると思われる。
 
 天理教では「おさづけ」というものが渡されるが、古くは教祖、本席、ナライトから「水の授け」「息の授け」「扇の授け」「御幣の授け」など天啓者から渡されていた。天啓者であるから授けをもらいに来た人のことも見抜き見通しだったのだろうか、渡せない人もいたようだ。現行では別席という話の席を9回聞いて、その後に真柱から受けるという形になっているが、単なる天理教の信者になる通過儀礼のようになっているようにも感じる。

 「さづけ」については思うところがあるので、またの機会に譲るが、本題にもどって、「神はあるのか」ということで、本物の天啓者に会ってみたいものだとも思う。

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