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激動の明治30年頃 前橋事件と水屋敷事件について

 前回、播州のおやさま「井出クニ」についてまとめてみたが、大正期の話であり、それよりも古い明治30年頃も教内では大きな事件もあり、混沌としていたようだ。日清戦争で勝利し、日清講和条約を取り付け、日本帝国がアジアの近代国家として国際的な地位も上がった頃である。そんな頃にやはり国家にとって天理教は一大勢力を持った大きな存在であり、目障りで脅威でもあったのだろう。まだ一派独立もしていない頃であるが、官憲が目を光らせていたことも頷ける。
 
 話はそれるが、2022年5月の今もウクライナが自由のためにロシアと戦っている。言論の自由もあり、自分が調べたこと、調べて思ったことを自由に発言できる今の日本は素晴らしいと思う。嘗ての日本は軍部が力を持ち、力で抑えつけていた。ロシアではKGBがそうであったように都合が悪ければ交通事故に見せかけ暗殺、エージェントを送り毒殺など口封じのためには手段も選ばない。第二次大戦で敗戦する前までの大日本帝国も似たようなものだったのかもしれない。今の時代、インターネットを利用して研究したことをまとめ、自分の意見を言うことも自由にできる。ありがたいことだ。そう感じるなら、その自由に甘んじることなく、自分で調べて真実を追求しようとすることにも大きな意味があるのではないだろうか。そんなことも思いながら自分の経験をもとに述べていく。

 話を戻すが、明治30年頃といえば明治20年に教祖みきが現身を隠して10年、本席飯降伊蔵が教えの中心になっていた頃である。初代真柱真之亮は32歳、高弟と言われるような人々もすべて本席に伺いを立てて、そのおさしづに従い、信仰していた頃である。そんな頃に起こったのが「水屋敷事件」だが、その頃の『おさしづ』を調べてみると『おさしづ四』P2713からP2796にわたって「水屋敷事件」に関するおさしづが出ている。明治29年12月7日「飯田岩治郎身上願い」から明治30年8月2日「平安支教会長飯田岩治郎事情に付願」までの一連のおさしづがこの事件に関するもののようだ。
 
 この期間には前川菊太郎、橋本清(ともに本部理事)辞職に関するおさしづもある。『教史点描』(道友社編)にも出ているいわゆる「前橋事件」である。二人とも本部の理事であり、前川菊太郎といえば教祖みきの生家前川家で善兵衛さんの生まれ変わりとして、教祖から「控え柱」とされた人で、初代真柱真之亮と同い年の人である。どうしてそんな本部中枢にいる人が辞職するのか興味がわくが、政府の弾圧も激しくなり、本部の秘密訓令に対する本部の対応に納得がいかずやめてしまったようである。教内では大事件であっただろうが、どうもこの明治30年頃を詳しく調べていくと、教会本部の中も混乱していた時代だったようだ。
 
 一般的に教内では「水屋敷事件」といえば安堵の異端事件だと、まるで稿本天理教教祖伝にも出ている針ケ別所の「助造事件」と同じようなレベルだと考えている人も多いように思う。しかし、実際は全く違う。当時の教内背景も調べていくとそう感じる点が多い。
 
この辺の情報に関してまとめたものがインターネットにもあったので興味があればご一読願いたい。リンクを貼っておきます。

信仰黎明期のおたすけ『御水屋敷人足社略伝』を読む 飯田岩次郎の場合

 この事件に関して資料を集めるために安堵町にある大道教本部を訪ねたことがあるが、そこでいただいた資料を全部、読むと驚くことばかりであった。道友社から販売されている本とは違い、教会本部の検閲もかかっていないだけに驚く情報が載っている。しかし、「水屋敷事件」の全貌を知るためには教会本部側の資料だけでなく、大道教側の資料と全て合わせて、読む必要がある。大道教側の資料になるが「御水屋敷並人足社略伝」はインターネットにもあるので、紹介しておく。お屋敷の秀司さん・まつえさん夫婦の話や山本利三郎仲田儀三郎の話も出てくるが、教会本部公認の本ではないので驚くことも書かれている。高弟と言われる先人の本を読んできた方々には少々、きつく感じるかもしれない。

「御水屋敷並人足社略伝」

 教祖中山みきがかわいがっていた飯田岩治郎にあげた「犬のぬいぐるみ」が大道教にはあって、筆者も見てきたが、教祖中山みきからいただいた赤衣も飾ってあり、本当に教祖みきは安堵の飯田家にも足をよく運ばれていたのだとわかる。少し前の『天理時報』でも教祖が作った「犬のぬいぐるみ」が写真入りで紹介されていたが、生地の色は違うが、教祖が作ったものに間違いないと思わせるものである。その犬のぬいぐるみも見ていただきたいので、リンクを貼っておくことにする。

教祖みきが飯田岩治郎にあげた「犬のぬいぐるみ」

 天理教教会本部の重鎮であった松村吉太郎の自伝である『道の八十年』にも水屋敷事件のあった当時のことが書いてあったと思い、安堵事件に関する頁(P112―P115)も読み返してみた。しかし、大道教側の資料や『天理の霊能者』の詳細な記述を合わせて読むと、どうも納得がいかない点がたくさん出てくる。

『道の八十年』松村吉太郎 養徳社

 最近、若い信仰熱心な人がこの『道の八十年』を読んで感動したとか、松村吉太郎氏を尊敬して頑張りたいというようなブログなどの感想を目にしたことがあるが、私は危険だと思っている。松村吉太郎氏と言えば長生きし、本部の中枢で中山正善氏が二代真柱になるまで、ほぼ実権を握り、現在に至る天理教の組織のもとを築いた人物だと言える。その自伝であるから『道の八十年』は自分中心に書かれているのは当たり前として、書かれている個々の事例を別の資料と比べながら読んでいくと、どうも違うことが多いという印象を持ってしまう。自らも「埃のかたまり」だとか「道の精神を知らない」と述べ、天理教の政治活動と事業的活動とに生きたと語っている。晩年は豹変したようで神霊中心主義と言っていたようであるが、評価が分かれる人物のトップではないかとも思っている。
 
 話を「水屋敷事件(安堵事件)」に戻すが、水屋敷側の資料に書かれていることと全く違う。また教内でよく言われている「おぢばは火の屋敷で、安堵村は水の屋敷である…」といった説を聞くが、本部の重鎮であった松村氏の自伝だから、後世の教内信者も松村氏の言葉を信じてそう言い伝えられているのであろう。この辺のことについては前回紹介した『天理の霊能者』豊嶋泰國(インフォメーション出版局)のP129-145にも詳しく載っているので、参考にしていただきたい。教祖中山みきの寵愛を受け、「水のさずけ」までいただいた人物なのに何故、異端と言われ、本部から免職になってしまったのか興味深い。
 
 結局のところ、この当時の天理教教団はみきの遺訓を守っていこうとする正統派の人々と政府の厳しい弾圧から時の政府や国家神道に合わせていこうとする迎合派の人々の対立があり、前橋事件も水屋敷事件もそこに原因があったようだ。双方の意見にはそれぞれ一理あるのだとは思うが、歴史的に見れば迎合派が押し切り、現在の天理教の姿に続いているということである。

 『飯田岩次郎御伝記』を書いた一瀬幸三氏によれば「松村吉太郎は宗教家というより、むしろ企業家であり、策略家であり、その経営感覚は抜群なものであった。今日に見る巨大な天理教教団とその組織を築いたといえる」ということだが、筆者も全く同感である。金権主義に走る宗教団体に対して純粋な正統派の人々は耐えられなかったのであろう。
 百年祭以降、天理教が衰退していると言われているようだが、その元なる原因を探っていくと明治の頃から始まっているのだと気づかされる。

 自由な現代では資料を集め、天理教を俯瞰して見ることもできる。インターネットでは若い方が「批判派」とか「擁護派」のように立場を明らかにして、SNSで発信したりもしているようだが、大いに意見交換はするべきだと思う。真実を求めるために…。


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