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寛政十年四月十八日のお生まれ

 今日は4月18日、天理教人であればすぐに誕生祭を思い浮かべるはずだ。教祖中山みきは寛政十年(1798年)4月18日に三昧田村でお生まれになった。明治20年に現身をお隠しになったが、天理教では「存命の教祖」として今も姿は見えないが、115歳の定命を25年縮めてご守護くださっている。間違いではないと思っているが、私は自ら25年寿命を縮めたのではなく、愚かな成人の遅い人間がそう仕向けてしまったと思っている。それは甘露台没収をした官憲だけが悪いのではなく、高弟と呼ばれる人々も教祖の思いに沿えなかった結果なのかとも思っている。


 今も存命であるのなら誕生日を祝われてお喜びかとも思うが、長引く今のコロナ禍、ウクライナ侵攻で大きく揺れ動く世界情勢などをどのように見ておられるのかとも思う。二代真柱から続く現在の天理教では教祖中山みき様は神であり、多くの信者もそう捉えているからこそ礼拝しているのかとも思う。もしくは習慣的に三殿遥拝ということを叩き込まれ、親神様、教祖様、御霊様を神として四拍手で拝むことを身につけてきたのかもしれない。
 
 天保9年10月に親神という天の将軍が教祖みきに降りてきて、「神の社」として貰い受けるとされ、天理教ではその10月26日を立教の日と定めている。また「神の社」として貰い受けられてからは既に神として考えられているようにも思うが、その時点から人間的な考えなどは一切なく生き神様として生きてこられたのだろうか。これに関しては様々な意見や研究もあるようなので、これ以上触れない。
 1838年 天保9年 「神の社」となり、口のない神の思いを「社」として人々に伝える。そこから現身を隠されるまでの約50年間を「教祖のひながた」として教団では尊いもの、守るべき教えというように講話などでもよくこの言葉が使われるようになったと思う。しかしながら、涙ながらに訴えるように神殿講話などで引用される「教祖のひながた」であるが、そのひながたを本当に理解し、実践し、手本として見せているような本部員、大教会、分教会の会長さんを見たことがないように思う。もちろんすべての人がそうだとも思ってはいないし、頭が下がるような信仰的に立派な人もいる。
 
 教祖みきが断食をし、「おふでさき」を執筆し始めたのは1869年明治2年のことである。「ひながた50年」というが、私は「ひながた50年」は天保9年から明治元年までの30年と明治元年以降、明治20年までの間と二期に分けて詳しく教祖のひながたを考えていくべきだと考える。「前期」は神の社となり、貧に落ちたこと、鏡池に身投げしようとしたこと、中山家の母屋の取り壊し、そこからおびや許しを始められたことなど、神に認められ「やしろ」として、神と人間の間でご苦労された時期。そして明治の世になり、「おふでさき」の執筆、「よろづよ八首」鳴り物、三曲の指導、甘露台の建立と実践をどんどんされていった「後期」というように分けて考えている。 このように「ひながた」は親神と対話しながら、教祖自らが神に近づき、何も知らない人々を神の道へ導いていたものと私は捉えている。
 
 前期は歴史的に日本が幕末の混沌としていた時期であり、黒船来航、日米修好通商条約、コレラの大流行、薩英戦争と時代が変わる前の大きく混乱していた時期と重なる。そんな中で教祖中山みきは親神の思いを言葉にし、人の道を説いていたのかとも思われる。後期はそういった混沌とした時代が過ぎ、新しくなった日本で親神の思いのまま、実践して神人和楽の陽気な世界を実現させるべく活動していた時期だとも感じる。
 
 そうだとすれば新型コロナの世界的な大流行、ロシアのウクライナ侵攻、西側諸国と東側諸国の対立、核戦争への不安など今の状況は先に書いた「前期」のようなものであるとも思えてくる。仮にそうなら新型コロナの終息、ロシアとウクライナの戦争終結の後には「後期」のような新しい秩序や新しい機構の中で人々が、愚かな戦争を繰り返すことをやめ、新時代を構築していく時期に入るのだろうかとも思えてくる。いや、そうなってほしいとも願っている。

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