見出し画像

すべてのことは「運命」なのだろうか?

衝撃的なニュース

 元旦に起きた能登地震で、一度に家族皆を失った人のニュースを読んだ。Tさんの妻、子供四人、そして集まっていた親族が全員亡くなってしまった。安否不明の中、一週間後には全員の死亡が確認されたという。あまりに残酷というか、そんなことが現実にあるのかと思うほど、衝撃的なニュースだった。心から犠牲になって亡くなった方のご冥福を祈る。

 元日から一週間、Tさんが祈るような気持ちでいたことは想像に難くない。家族を失うにしても事件などであれば、怒りの矛先を犯人に向けることもできるだろうが、自然災害の場合、どこに気持ちをぶつければいいのかさえ、わからなくなってしまうのではないだろうか。自分だったら冷静でいられるだろうか?何でこんな目にあわなきゃいけないんだ?と思う他に何も考えられなくなってしまうのではないだろうか。

災害に遭うのも運命なのか?因縁なのか?

 こういった事例で、もし家族を一度に失ってしまった人が、宗教者に対して、「私はどうしてこのような目に遭うのですか?」と直接、尋ねられたら、どう答えるのだろう。「運命」とか「因縁」「因果応報」「罪と罰」?それぞれの教典や教理から、何らかの答えが出せるのだろうか?

 もし、自分が災害で家族を失い、自分一人が生き残ってしまった時、「どうしてこんな目に遭わなきゃいけないのか?」と自問自答もするだろうが、よほど悪い因縁を積んできたのかとも考えてしまうだろう。しかし、自分自身の悪い因縁だったのだと自覚はできても、ではその亡くなった家族はその悪い因縁の犠牲になったのだろうか?自分の運命について考えはできても、亡くなってしまった人々の運命や因縁など、どう考えても説明がつかないとも思える。
 
 先のニュースのTさんは亡くなった家族の分も生きていくと気丈に振舞っていたそうだが、心中を察するに、何も言えなくなってしまう。仮にお会いしても、どう声をかけていいのかさえ、考えられない。

 新興宗教と言われる教団に所属し、熱心に信仰していて、導く方の立場にいる方々に「あなた方の教義や信仰で、どうしてこのような災害に遭い、こんな目に遭うのか、心から納得のいく答えが出るのでしょうか?」と聞いてみたい。

 天理教的に考えれば、教祖が存命の時代には、神の社として、何でもお伺いができたのであろう。本当に神が存在するのなら、誰でも本当のことを知りたい、どうしてこうなったのかということを、直接、聞いてみたいと思うだろう。
 
 霊媒師とか、占い師とか、巫女とか、答えてくれる人がいるのなら、とにかく答えを知りたくなるのではないだろうか。しかし、私自身は全くそういった方々を信じていない。胡散臭さが先に立ってしまう・・・。
 遠藤周作の「沈黙」を思い出してしまう。どうして神はそんな時でも黙っているのか?

 災害だけではない。今、こうしている間もウクライナやガザでは一般人が犠牲になり、家族を失ったり、悲しい思いをしたりしている。直接、戦争に参加しているわけでも、戦うことに賛成しているわけでもないの、入ってくるニュースは、あまりに理不尽で、不幸なことが多い。

 宗教団体は震災などの場合、その組織力などで、ボランティア活動を行ったり、金銭的にも義援金を送るなどの活動をするであろう。精神的に苦しむ人たちのケアも活動としてはするであろう。素晴らし事だし、いいことだとは思う。しかし、それは「人」だからするのであって、上記の「私はどうしてこのような目に遭うのですか?」の答えは「人」にはできないものではないだろうか?
 
 「新型コロナ」、「ウクライナ侵攻」、「パレスチナ問題」、日本国内でも「元旦の能登震災」など、神は次々に試練を与えているようにも感じる。

どんなことが自分に起こっても、「運命」だと受け止めるしか、ないのだろうか?

信仰などしていても本当に意味があるのだろうか?

誰か明解に答えてほしい…。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?