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私の「茨木基敬」考…その3

 前回では、『道の八十年』(松村吉太郎)も引用しながら、茨木事件についてまとめてみたが、今回は、他の情報から考えられることを、まとめていきたい。  

 松村吉太郎の「茨木父子免職の顛末」『道の友』大正7年2月号によれば茨木基敬の天啓を今後、信じないと、息子の基忠らに詫び状を提出させたこともあったようだ。しかし、そんなことで天啓は止むはずもなく、むしろ、松村吉太郎は、その詫び状を無視したという形で、免職させる根拠にしたのではないかとも、私は想像している。

 茨木基敬が本部員に登用されたのは明治44年であるから、ほぼ、本部員になって、すぐに神懸るようになっていたと言える。それ以前にも不思議な予知能力を持っているような事例はあったようだが…。
 「その2」でも書いたが、神懸って、罷免されるまでの8年間は本部員であり、それだけの長い期間であるから、本部の中でも茨木の天啓は認知されていたと思われる。

 結局、それを黙殺した初代真柱は、大正3年の大晦日に、茨木基敬の「この年の暮れは越せん」という予言通り、出直してしまう。松村吉太郎にとって中山家は姻戚関係にもあり、初代真柱とも、歳が一歳違いで近く、最も信頼していたであろうから、何としても、まだ子供である正善氏(二代真柱)を守らなければという思いも、あったのかと思われる。
 もちろん、新しく天啓者が現れて、認めてしまえば、自分が苦労し、教会制度を作り、一派独立も果たした教団の中で、思い通りに動けなくなるという思いもあったであろう。

『天理教事典』おやさと研究所編の「茨木基敬」の項目

 茨木事件に関して増野鼓雪は茨木基敬が本席の地位を得ようとした欲望があったと証言しているようだ。(『天理教事典』おやさと研究所)。

 増野鼓雪といえば、教内では大正期に多くの業績を残した人物として知られている。天理教校長「みちのとも」の編集主任道友社社長も勤め、教祖40年祭での教勢倍化運動など、大正後期に大活躍した人物と教内では認識されていると思う。求道精神も厚く、父親の増野正兵衛が、本席のおさしづを書き留めていたこともあり、「おふでさき」や「おさしづ」が公刊されていない時代であったが、早くから「おさしづ」も研究し、熱心に道を求めていた人物だと、私は認識している。

 しかし、上記の鼓雪の証言は、信憑性に欠けているのではないかと思っている。

 なぜなら、増野鼓雪は松村吉太郎の娘つると結婚し、つるが出直し後、妹の八重子と再婚している。松村吉太郎は義父に当たるわけであり、大正7年1月に茨木基敬父子が免職された後、同年、秋に本部員に29歳の若さで登用されている。そのような人物の証言では、「本席の地位を得ようとした欲望があった」と証言しても、義父である松村吉太郎に言われたのか、あるいは忖度したのかとも、十分に考えられる。また、あるいは、新たに天啓者が出ては、まずいことになると、本人も思ったのかもしれない。
真偽のほどは、謎だが、個人的な見解としては信じがたい。

 増野鼓雪に関しては以前、広池千九郎博士のことを、調べている時に、知ったのだが、酒を飲んで、泥酔して講演したり、正直なところ、あまりいい印象を持っていない。また、敷島大教会4代会長時代、教勢倍化運動の中で、次のような発言もしていたようだ。

「全教会はおぢばの為に存在しているのである。おぢばの御為に全敷島が亡んでしまったといえば、それで本懐ではないか。碌々瓦となって全うするよりも、玉となって散ろうではないか。」

『天理教事典』教会史編 おやさと研究所 「敷島大教会」の項より

 読んでみて、どう感じるあろうか。神風特攻隊のようにお国のために玉砕しようという雰囲気を感じる。(歴史的には神風特攻の方が後だが…)
 義父松村吉太郎を彷彿とさせる熱弁だったのではないかと思われるが、人々を熱狂させ、扇動する能力に関しては、かなり長けていたのかと感じてしまう。
「全教会はおぢばの為に存在している」と、言っているところを見ると、《おぢば=本部》というように聴衆は捉えるのではないだろうか?
 教会制度自体が、教祖も反対していて、本席も一時的に許すと、確か、指図したのではなかっただろうか。おぢばの為には玉砕しようなどと、敷島部内を扇動するという行為は、神の望むところだったのだろうか。私には、やはり、鼓雪も神の思いとは、すれ違う部分があったのではないかとも思えてくる。

 増野鼓雪は、この茨木事件のあと、大正期後半、教内で活躍した人物として知られているようだが、39歳という若さで出直したところを見ると、神の目から見ても過ちがあったのだろうかとしか思えない。
 以前、書いた仲田儀三郎「すっかりくさってしもうた」パターンなのだろうか。儀三郎のように「錦のキレ」と見立てられ、期待もかけられていたように思うが、すっかりくさってしまい、引き取られてしまったのだろうか。だとすれば、非常に残念な話である。人間である私には、本当のところはわからないが、謎めいた話であると感じる。
 結局、二代真柱が東大を出て、名実ともに管長に就任してからは、松村吉太郎増野鼓雪も、本部の重要なポストからは、外されて、新時代に入っていったようだが…。

 モラロジー側の資料になるが、酒を飲んで講演していたという一節も、ご一読いただきたい。
「大正時代末期の天理教団と広池千九郎」天理教団からの離脱 桜井良樹

『天理の霊能者』豊嶋泰國より

 北大教会は大正初期には部内も多く、規模の大きい大教会であったようだが、この茨木事件がきっかけで、部内も混乱したようだ。もし、茨木基敬についていけば、天理教教会本部から独立し、分派ということになるが、教団としても、それだけは避けたかったようだ。そこで、本部の方針に従えば、北大教会内の部内教会は本部の直属教会として認めるという案を出したようだ。(『天理の霊能者』豊嶋泰國)
 まるで「踏み絵」のような印象を受けるが、北大教教会に、たくさんあった部内教会も、それぞれ、かなり混乱したことは想像に難くない。
 結局、茨木父子を放逐後、大教会は山中彦七に引き継がれたが、北部内は群雄割拠の状態になったようだ。有力教会は分離を許すという本部の指令があったようで、大正14年に本部の許しを得て、本部直属になったようだ。
(『天理教事典』教会史編 「府内大教会」の項)

 今の本部直属の教会で、北大教会から分離した教会には、麹町大教会、豊岡大教会、生野大教会、岡山大教会、府内大教会、青野原分教会、細川分教会、栗太分教会、淀分教会、名張分教会、鐸姫分教会、尾道分教会などがあるようだ。

 ここで疑問が起こるのだが、本部側につかず、茨木基敬についていこうとした人々もいたはずだが、どうなったのだろうか?

 『天理の霊能者』豊嶋泰國によれば、茨木基敬は天理教と対立することは望まなかったようで、分派して、別の教団を設立するようなことはしなかったようだ。こういった事実は、朝日神社の「井出クニ」に似ているとも言える。教祖30年祭の時に教祖殿に現れて、引きずり出されて、播州へ帰ってから別教団も立てず、ひたすら人を助けることをしていたという。そのことは前の記事「播州のおやさま「井出クニ」について」でも書いたので、ご一読いただければと思う。
 結局のところ、認められずに分派して、別教団を立てた例としては、大西愛次郎の「ほんみち」などの例があるが、私は茨木基敬の事件は、他の異端話や分派教団の話とは別物ではないかと思っている。
 この茨木事件の後、茨木基敬は富雄の方へ移ったということだが、時代が変わった今でも、教団として活動はしていないが、「茨木一派」として活動はされているようだ。

『天理の霊能者』豊嶋泰國より

 私は「井出クニ」「茨木基敬」も、やはり本物だったのではないかという印象を持っている。神が遣わした人物で人間心ばかりになってしまった「天理教」の正統としての本部を、本来の形に戻そうと、遣わしたように思えてならない。

 現在の天理教では、異説・異端に関しては十把一絡げに「異端」として片づけ、個々の事例については、詳細を明らかにしない。私も自分でいろいろ調べるまでは、聞いたこともない話ばかりだった。つまり、こういった研究をしている人以外には、あまり知られていないように思う。
 『死の扉の前で』(芹沢光治良)を読んでいて、本部員や本部上層部で働いている人でも、歴史的な事件などは知らない人が多く芹沢から、天理教の歴史を勉強していないのかと、たしなめられる部分があったが、一般的な教会長や、信者であれば、よほど、研究熱心か、変わり者でない限り、知らないのが普通だ。(本部が、そう仕向けていたのだから、当然の帰結だが)

 二代真柱の時代に入り、「天理教教典」や「稿本教祖伝」などが、公刊されてからは、徐々に話題にも上らなくなっていったのかとも思う。
 以前の記事「異説や異端の毒やほこりを不幸にしてのみこんでしまった者の戯言」でも書いた「知らぬが仏」なのだろう。
 また、一般的に教会長信者も「異端」という言葉だけで、すぐに眉を顰め、詳細を知ろうともしない。比較的知られている教祖御在世時の「助造事件」が、異端の例として紹介されているからなのかと思う。

『天理の霊能者』豊嶋泰國より

 飯田岩治郎のことを調べていた時に「百年たてば明らかになる」と聞いたように思うが、そんな時期が来たのかとも感じている。天啓の問題で難しいのは、教祖と本席、また小寒茨木基敬も、そうだが、性別も違い、別人格であるから、言葉や思想にも、微妙な違いが、表われてくるところがある。それぞれを完全に分けて、考察していかなければならないのだろうが、天理教の教理として、まとめていくことは不可能に近いことでもある。そんなこともあり、本部としては天啓は本席伊蔵までで、終わりにして、その範囲の中で「教団」と「教理」の確立を図ろうとしたのかと思える。
 つまり、本席までの天啓で十分であり、それ以上は邪魔であり、黙殺するしかなかったのであろう。
 今回、茨木事件のことをまとめたが、この大正期が、まさにその時期だったのかと思う。前回のその2の最後で「そうまでして守らなければならないものとは一体何だろう」という問題提起をしたが、答えはそこにあったのかとも思える。


 噂話として友人から、教内の若い人たち(30代、40代)の中でも、熱心に真実を求めて、研究している方もいると聞いた。まったく頼もしい限りだ。
 ただ、私としては複雑な思いもする。読者の中には、天理教の歴史上、出てくる人物の姻戚関係にある人もいるであろう。Noteを書き始めてから、話の中の歴史上の人物が、友人のご先祖さんにあたるというようなケースも出てくる。
 おぢばの学校を出た人なら、そんなことばかりであろう。言うまでもないが、友人のご先祖さんを、悪く言うつもりなど毛頭ない。以前にも書いたが、私は「批判派」ではなく、「真実追及派」だ。本当のことが知りたい。そして本当のことから、未来を考え、よくしていきたいと思っている。そのためには過去を振り返ることも、必要であると考えている。
 天理教はもう何十年も、ずっと停滞したままだと感じている。同じことの繰り返しで、年祭ごとに衰退していように感じている。また、三年千日かと暗い気持ちになっている人も、かなり、いるように思う。

 これは教会本部だけの話でなく、地方の大教会でも、分教会でも、同じである。昔から、本部に倣えで、自教会内は皆、親戚関係というようなところもあるはずである。(うちの教会も似たようなものだが…)
 つまり、ミニ本部のような小規模の教会が、ピラミッド状に、何段にも積み重なっているような状態で、上位下達、何でも本部に倣えで、おかしいと思うことがあっても、親戚関係で固まっているだけに、異を唱えたいことがあっても、言えない。
 自教会の中でも、何か調べたことを言ったら、「お前は異端か?」とか、「素直じゃない」とか、「変わり者」のレッテルを、貼られるがオチである。
 時代が変わって、インターネットが普及しだすと、誰でも、心の内を、ストレートに、ぶちまけるようになったと感じる。それに伴い、天理教本部に対する批判や、自分の上級に対する不満も、どんどん、ネット上にあふれるようになったのではないだろうか。
 しかし、ただ批判を繰り返すだけでは、建設的には思えないし、先がないようにも思う。また、それが、神の望むところだとも思えない。
 だからこそ、以前の記事「車中八策」の4つ目に、縦割りの教会制度、及び実質的な世襲を廃止し、地域ごとのコミュニティが活発化する体制を作ることと述べたのである。

 がむしゃらに戸別訪問だ、街頭で路傍公演だと、若い人が、コロナ禍でやるのも、悪いとは言わないが、それより、時代に合ったやり方で、自分が勇み心でやれる「にをいがけ」を考え、人を助けて、人に助けられて、陽気に暮らせる社会を作っていければと、個人的には思っている。そのためには閉塞感でいっぱいの今の教団が「復元」できるように、皆が、声を上げていくべきではないかと考える。


 今、政治家が、統一教会とズブズブの関係だと、批判や追及がひどいことになっているが、それらのニュースも、「宗教」や「教団」というものに一石を投じているものなのかと思っている。これも神の計らいのように感じている。
 政治にしろ、教団運営にしろ、二世、三世問題もよく話題に上がっているように思う。信教の自由は、当然のことだと思う。しかし、政治と宗教団体が結びついて、社会を牛耳ろうとするようなことがあってはならないと思う。日本の政教分離についても、話し合う必要が、あるのではないか。

 長々と、3回にわたって書いて来た「茨木基敬」考であるが、いろいろな話が混ざり、話があっちこっちに飛んでしまったような思いもする。
 一個人が調べ、調べたことをもとに、思いを、つらつらと述べただけの拙い文章である。
最後まで読んでいただき、感謝する次第である。
 感想や間違いなどの御指摘、あるいは、ご意見などあれば、忌憚なく、お書き下されば幸いである。

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