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「教祖ひながた」と「三年千日」私考

はじめに

 十年毎の教祖年祭ごとに「ひながた」「三年千日」という言葉が繰り返され、勇んでいこうということ言われる。それに合わせて「心定め」とか、三年千日に向かっての心構えなど、求められることもある。しかし、過去に心定めを完遂した人や、勇んで通った人もいれば、正直なところ「またか…」というような人も多いのではないかとも感じている。「笛吹けど誰も踊らず…」のような面も垣間見える。そんなことから、これらの言葉から再考する余地があるのではないかと思った。
 

「教祖のひながた」を通ることが信仰

 天理教では十年毎の教祖年祭前の3年間を成人の旬として年祭活動期間のように全教で進めている。この「三年千日」という言葉の元は飯降伊蔵本席の『おさしづ』である。明治22年11月7日午後10時40分の刻限御話であるが、要点だけ述べれば、教祖は五十年間、「ひながたの道」をお通り下さった。この「ひながたの道」を人間にも通るよう促しているが、親が通った五十年の苦労の道を子供も五十年通れというのではなく、ほんの「三年千日」通ったら良いと教えられている。さらに三年千日のしんぼう、三年しんぼうの道通れば誰に遠慮きがねはないということである。

 天理教では定命115歳と言われているが、仮に定命まで生きるとして11回は教祖年祭を経験することになる。しかし、物心がつくようになり、実際に年祭活動に参加できる年齢なども考慮にいれ、80歳くらいまでと考えれば、多い人でも6,7回は教祖年祭を経験することになる。入信が遅ければ、さらに減る。現在、高齢の方は教祖70年祭か80年祭の記憶がある方もいることだろう。筆者もすでに5回は経験しているが、100年祭というキリのいい数字の年祭をピークに、規模といい、帰参者数など衰退ばかりしているようにも感じる。そしてその原因を考えていけば、「何か違うのではないか?」という思いがしてくる。

教祖の「ひながた」は天保9年からなのだろうか

 天理教では天保9年の神懸かりから立教とされ、教祖中山みきが41歳の時からの御苦労が「50年のひながた」とされている。これは二代真柱が教義講習会で唱えたことが元になっているようだが、筆者は違和感がある。
 神懸る前は「神のやしろ」になる前であるが、常人では考えられないご苦労も多くされている。寛政十年に生まれ、文化七年に中山家へ嫁入り、善福寺で五重相伝を受けられ、近所の足達照之丞の黑疱瘡お助け祈願のため多くの神社仏閣を参ったり、次女、四女の出直したりと、やはり「ひながた」といえるような御苦労の道を通っている。そして常人では歩むことのできない道を通ってきて、神に選ばれ、「神のやしろ」に相応しいと認められ、親神が天下ったのではないだろうか。
 しかし、天理教では立教は神懸かりの天保9年からであり、それ以前の教祖みきのことはあまり重要視されていないようにも感じる。むしろ二代真柱の教義の邪魔になるようなものであるような扱いも受けてきたのではないだろうか。そう考えれば、立教前に由来のある三島神社、宮池などは邪魔な存在で、早く取り除きたかったのかと納得もいく。
「れんだいこ」氏「ひながた論、三年千日の理、四十九年前よりの道考」で「ひながた」について述べられているが、同意することばかりである。氏が述べるように、やはり「教祖のひながた」というのは寛政十年のお生まれから、現身をお隠しになるまでの間を「ひながた」とすべきではないのかと思う。

「ひながた」は簡単に通れる道ではない

 また、明治22年11月7日午後10時40分の刻限御話の中では「ひながたの道を通れんようではどうもならん」というお言葉が繰り返されているが、教祖の五十年のひながたというのは人間には到底通れるようなものではない。それは教典や教祖伝を読んできた者であれば、感じていることかとも思う。
 そこから、本席はわずか三年の間、通ればひながた同様の理に運ぶということである。そして三年の道通れば、不自由しようにも、難儀しようにもしられやせんと説かれた。

 では教祖の五十年のひながたの道というのは具体的にはどういう道なのかと言えば、貧のどん底から始まり、おびや許しをはじめとするお助けやおつとめの完成、そして明治の時代に入ってからの「おふでさき」の執筆、断食、山村御殿への御苦労、監獄への御苦労など、70歳を超えた老女がなかなかできるようなことではない。やはり「神のやしろ」としてのお役目や御苦労ばかりと言える。「ひながた」を辿れと大教会の神殿講話などで、昔からよく耳にしてきたが、それを話している講演者は、本当に少しでも通ってきたのかと思わざるを得ない。
 

本席の言う通り「ひながたの道を通れんようではどうもならん」

 大教会の月次祭で、子供の頃から感じていたのだが、大教会長や役員といわれる先生方は座り勤めが終わり、前半の下りが始まった頃に席を立ち、どこかへ消えていく。そして後半の下りが終わる前に何食わぬ顔で戻ってくる。トイレにでも行っていたのだろうかとか、冷たいものでも飲んで休んでいたのだろうかと、想像の域を出ないが、時間にしてけっこう長いと言わざるを得ない。本部の月次祭も似たようなものだが…。
 トイレも我慢して、できるだけ足を崩さずに広い神殿の中で「みかぐら歌」を唱和している信者さんの目にはどのように映っているのかとも思っていた。
 大事なおつとめを真剣に勤めているとは思えず、十二下り目も終わる頃、また戻ってきてはお社を背に演台のマイクに向かって、「教祖のひながたは…」などと、どの面下げて…の世界である。
 生まれた時から御曹司として大事に育てられ、学校にも通わせてもらい、立派な車に乗せてもらい、信仰は二の次で、遊ぶことに熱心な子弟を見てきたが、教祖の「ひながた」を研究し、感銘し、万分の一でも通ったのであろうか…?
 筆者の狭い交友関係では、そのような「ひながた」を真剣に通った人物に会ったことはない。哀れなものである。子供時代からの疑問の答えは時が流れて、令和の現在、神が答えてくれたようにも感じている。どこの大教会かはご想像にお任せするが…。案外、うちの大教会もそうだという返事が来そうでもあるが、どうでもいいことだ。むしろ天理教というピラミッド型の組織で下へ行くほど、まともな信仰をしている人が多いように感じるのは、間違いだろうか?本当に「どうもならん」。

三年千日は特別なことなのか

 冒頭に「三年千日」という言葉の元は飯降伊蔵本席明治22年11月7日午後10時40分の刻限御話であると書いたが、神道直轄天理教会として認可され、天理教が応法の道へ進み始めた頃とも言える。本席はこの応法の道に関しては「一寸許した道や」とか「応法世界の道、これは一寸の始めだし」と述べられていて、本来の道ではなく、一時的に許されたものと筆者は理解している。
 明治24年の教祖五年祭を控え、その前に出された刻限御話であると思うが、「難しい事は云わん。難しい事をせいとも、紋形なき事をせいと云わん。皆な一つ一つのひながたの道がある。ひながたの道を通れんというようなことではどうもならん。ひながたの道を通らねばひながた要らん。ひながたなおせばどうもなろうまい。これをよう聞き分けて、何処から見ても成程やというようにしたならば、それでよいのや」というように教祖の年祭についての心がけをお諭ししたものかとも思う。
 そうであれば大きい行事をしたり、派手なことをしたり、やたらとお金を集めたりせずに、教祖のひながたを思い出して、その心になって、日々を通ることで十分ではないのかと思う。紋形なき事をしろというのでもなく、誰が見てもなるほどと思うような年祭を勤めさせてもらえば、それでいいのではないかとも個人的には思っている。
 十年に一度の大行事のように「ひながた」や「三年千日」などの合言葉を掲げて特別にするようなことではないとも思う。むしろ日々の生活の中で「ひながた」に思いを馳せ、暮らしていくことの方が大事なのかとも思うが。十年毎にことあらためて言い出すのは、何か別な目的があるのかとも勘繰ってしまわないだろうか?

おわりに

 140年祭がどのような形になるのか、先のことなのでわからない。また150年祭のその3年前には同じように「ひながた」「三年千日」という言葉が教内の出版物にもあふれているのだろうか。
 
何度も年祭を経験した方々はどのような思いでいるのか気にもなる。10年ごとの年祭で更に勇んでがんばろうという方がいらっしゃったら、お会いして、その勇みの種を教えていただきたいとも思う。

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