見出し画像

自分は特別な存在と、意図的に勘違いをする私へ。


自分のことを大袈裟に嫌うヤツにまともな人間は居ないと思う。
思うけれども、私は自分のことをなかなか好きになれない。別に生きていなくても何の支障も無いし、生きていても何の役にも立たないと思う。

ここ数年「みんな生きているだけで偉い」と褒め称え合うのが常識みたいな風潮がある。
「生きること」って意外と苦労が共にあるからこの考え方は理解できるし、悩んでいたり怒られて落ち込んでいたり何らか自暴自棄みたいになっている友達がいれば、同じような言葉を軽率にかけることがある。
けれど私はその語尾に(私は除く)とつけたくなるほどに、自分のことが好きでは無い。



正直ここ数年、私は何故まだ生きているのかよく分からなくなっている。トイレで喉の奥に指を突っ込んでいる最中に「ああもう死ぬしかないんだな」と思ってから、高所から飛び降りようと地面を眺めたり、無心で身体を傷つけたりしたのに何故生きているのか。死んだ後のことなんてどうでも良いし、誰かがどれだけ苦労しようと関係ないはずなのに、私が死んだあと家族に強いる苦労や彼女らが免れられない出費とまたそれが引き起こす不幸を考えると踏み切れない。
死んで楽になりたいという思考と、死後を考える思考がごちゃ混ぜになって、私が生きておけば良いか。となるのが恒例で、それを数ヶ月おきに繰り返している。

生きていることに意味がない状態が最大の苦痛。
「生きているだけで良いんだよ。」と言われても、「私は良くありません。」となる。
私が生きていることなんて私にとっては何の価値も無いのに、ただ死に踏み切る勇気がなくて生きているだけという事実がまた私を腹立たせる。



今この生きている時間を死ぬまでの暇つぶしみたいに捉えて、好きなことには好きなだけ心をぶつけるようにして、必死に自分の人生の無意味さを忘却する。思い出しそうになったらまた心を強引に好きなことへ投げつけて押し付けて埋め込んで、頭が痛くなるまで忘れる。

だんだん享受するだけでは不満に感じて、自らが制作する側に移りたくなってくる。ただ天才達が作ったものを受け取ってワアワア喜んでいることに気持ち悪さを感じたから。私という人間が、素晴らしい作品達の供給を大人しく待って、与えられれば脳死で騒ぐだけ騒いで、飽きたらまた次の供給を大人しく待つ、を繰り返している構図、あまりにも「何の目的も使命もなくただ生きているだけ」を表していて吐き気がしそう。

けれども私には才能が無いからまずは努力するしかなくて、その努力が簡単に花開くほど器用でも無くて、長い間ただ無能さを噛み締めて我慢するだけの時間がある。
だから私は、自分はいつか花開く側の人間だと、自分は特別な人間だと思い込んでおかないと正気が保てない。お願いだから特別な人間であって欲しい。そういう願望が殆どなんだけれども、そうやって生きていられてる。

でもそう思わせておくには花開いていく様を実感させる必要もあって。特別な人間と勘違いさせ続けるために努力を怠ってはいけなくて。その筈なのに日常で疲れ果てて何も出来なくなっている時にふとその勘違いを思い出すと絶望する。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?