『ぼくらのSEX』を読んで(3)

「SEXは生きていくためのエネルギー」です。なので、「こどもも持っている」とこの本には書かれています。ただし大人の場合と違い、考えることがしっかりとできないので、体がストレートに動いてしまい感情や欲望にブレーキをかけることができません。エネルギーの使い方がよくわかっていない状態です。

また、「こどもの体も寂しさを感じている」とも言っています。この“寂しさ”をどう解釈するか悩みました。こどもの寂しさは、大人にあやしてもらったり友達と遊んだりしてまぎらわすことができるが、それらがうまくできないと自分の性器をさわったりすると書かれています。こどもと大人のオナニーの違いは、快感の存在をちゃんと理解できているかどうかです。大人は快感を目的としてオナニーをするが、こどもはそうではない。自分の体を持て余していて、その不安定さが寂しさの根っこで、それを埋めるためにするのがこどものオナニーです。

自分の体を持て余すということは、自分の体と頭と心が一致していない状態です。自分の体についての知識もないし、心が感じていることを考えることも出来ません。一方で、大人も自分の体を持て余すことがあります。大人は、自分の体を意識でコントロールしていると思うあまり、感じていることを否定したり、捻じ曲げて解釈したり、抑圧します。でもこれは勘違いで、体が感じていることがなくなるわけではなく、必ず何らかの形で表面化してきます。大人もこどもとは違った意味で、体と頭と心が一致していません。

この本が一貫して伝えようとしているのが、この一致をどう生み出していくかです。

人は肉体を持って生まれてきます。そこには本能が備わっており、次第に感情を持ち、言葉を覚えて思考を発達させていきます。思考は意識と言い換えてもいいです。成長していくにしたがって意識を働かせて、自分の体をと心をコントロールすることを学んでいきます。育っていく環境や文化によって変わる意味や価値を覚えていきます。例えば赤という言葉と色を覚えます。そしてそこに、女性、情熱、血、痛み、危険、といったような様々な意味を関連付けていきます。これらは絶対的ではないという点で、思い込みであり決めつけと言えます。しかし、ほとんどの人がそこを疑わずに生きていきます。

思考が本能や感情より優位な状態で生きていこうとする人は、コントロールできないものや、なんだか得体の知れない不可思議なものを嫌います。その筆頭が性です。性は思考が生まれ育つ前から体に備わっていたものなのに、簡単に解釈、処理できないので持て余してしまいます。思考よりも前にあったものなのだから、考えて意味を見出そうとするのではなく、そこに元々あったことに気づいていくだけでいいはずなのに、解釈しようとしてまうところがそもそもの間違いです。

性を考えることは、生きることと向き合うことになりますが、みんなに共通する唯一の正解があるわけではなく、各自が自分の中に見つけていくものです。その過程は、社会において生産性があることではないし、ゴールが明確になっていないので目的に設定しにくいです。でも、生きている限り避け続けることは出来ません。なぜか?それは人間が体を持っているからです。

人が生きているということは、肉体が存在しているということです。人間について考えていく時に絶対に欠かせないのが身体性です。内面が大切だとか、見た目に惑わされてはいけませんとか、ルッキズムを無くそうという考え方がありますが、それらを拡大解釈したり重要視し過ぎることで、体がおざなりになっている傾向が世の中全体にあると思います。

コロナ禍の社会を経験していく中で、改めて人の持つ身体性の大切さを考えるようになりました。リモートで出来る仕事が増え、オンラインで繋がれることにも慣れてきました。でもだからこそ、同じ空間に手の届く距離にいることで感じられるものの、そこで交わされるエネルギーの大きさに気づかされました。ミュージシャンのライブもそうですし、飲み会でもそうです。人は肉体を持つ限り、他者と身体的に関わることを求めるのです。

僕たちは、人の持つ身体性の重要性を知っています。一般論ではなく当事者の話に価値を見出すのは、当事者がその肉体をもって経験してきた出来事や感じてきたことだからです。どれだけ綺麗で精巧な写真や映像より、自分の目で見る景色に価値を感じます。どれだけ素晴らしいオナホールや大人のおもちゃがあっても、実際にセックスすることを諦めきれません。そこにはリスクがあるにもかかわらずです。

この本では、「人間のSEXの基本はオナニーである」と書かれています。これは、人間のSEXの本質が生殖ではなく快感にあるという意味です。快感だけを求めるのならオナニーを極めていけばいいのにそうならないのは、他者の存在が大切だし、他者と関わることで得られる快感は別物だからです。

他者を求めない生き方を選択する人もいます。他者と関わると面倒くさいとか、リスクが増えるだけ、お互いに傷つく可能性があるから一人の方がいいという考え方です。でもこれは、思考で生きている間は通用しますが、感情が優位になってしまった時には無理です。人は恋をする生き物です。他者を好きになる感情、この本では直感力と呼ばれていたものがあります。好きになると、その対象を求めることになります。つまり近づきたくなります。これが、思考でコントロールできない領域で起きるのです。

「なんで好きなのかわからない」と言いながら長いこと連れ添っているカップルがよくいます。彼ら彼女たちは照れているだけではなく、言語化できる理由が本当にないのです。思考で説明しきれないからこそ、本当の“好き”とも言えます。思考だけでなく、体だけでもなく、感情もあるから人は人を求めます。自分を持て余したときの寂しさとは別の、誰かを求めた時に感じる寂しさがあります。

性を考えていくことは、自分の寂しさと向き合うことになります。それは辛さも伴いますが、人として成熟していく上で必要な過程で、そこを経ないで他者と繋がろうとすると、愛という都合のいい言葉で自分にも相手にも嘘をつくことになります。僕たちが最初に学ぶ愛は親子愛で、それがどちらかだけに都合のいい愛だったりすると、どこかで学び直すまで支配や依存を愛だと思って生きていくことになります。なんだか性の話とずれてきているように思えるかもしれませんが、自分と繋がることが愛を知っていくことに欠かせないので、性を考えることは愛の前提だと思います。

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