映画「明け方の若者たち」を観て、彼らに会えたことを懐かしく思った
「明け方の若者たち」を観てきました。
<僕>と<彼女>と「尚人」の3人に久しぶりに会えて、嬉しかったです。
人生のマジックアワー
カツセマサヒコ著の同名小説「明け方の若者たち」を読んでから1年半が経った。
この小説が伝えたいことは「人生のマジックアワーを大切にしろ」という一言に集約される。「マジックアワー」とは大学を卒業し、社会人になったばかりの人が過ごしている時間だ。年齢で言えば23、24歳くらい。学生のように自由過ぎることもなければ、社会人としての責任をしょい込みすぎることもない。自分のことだけを考えながら、手放しの自由を楽しめる時間。それが「マジックアワー」だ。
同小説ではこの「マジックアワー」に起こり得る変化について共感度の高い文章で綴られている。一生に一度の大恋愛、こんなハズじゃなかった社会人生活、親友と過ごした幾つもの夜など。誰もが経験したことがある時間や感情について、その時代を色付けた固有名詞や音楽を用いて丁寧に描写している点がこの小説の素晴らしい要素の一つだ。
社会人になる前の大学生が持つ「自分の夢を信じて疑わない青臭さ」や、いざ社会人になってみて自分の想像とはかけ離れた現実に直面し「こんなハズじゃなかったよなぁ」と燻る焦燥感。他に何も考えられなくなるくらい人を好きになってしまった時のこと。これらの感情が鮮明に言語化された文章が著者が放つメッセージとなり、マジックアワーを生きている若者へと届いている。
映画「明け方の若者たち」を観て
そして、これは本当に素晴らしいことなのだが、それらの感情は映画となった「明け方の若者たち」でも伝わってきた。小説で出てきた各登場人物は映像化によってよりクリアな共感を生んでくれる。北村匠海が演じる<僕>と、黒島結菜演じる<彼女>、そして井上祐貴が完ぺきにこなした親友の「尚人」。
正直キャスティングを知った時は「<僕>がイケメン過ぎだし<彼女>がイケ過ぎだし「尚人」が華奢すぎないか?」と思ったのだけれど、スクリーンで笑う3人を観て、あぁ彼らは本当に実在してくれていたんだなと、嬉しくなった。
高円寺の明け方を駆け出す彼らをかつての同士を懐かしむような目で見てしまったのは、自分だけだろうか。彼らと再会できたことで、これから先も生きていけると思えた。自分にとってはそれだけ救いのある映画だった。
※以下映画のネタバレを含みます
笑っている<彼女>を観れただけで、この映画を観て良かったと思えた
始まって10分で<彼女>のことを好きになってる自分がいた。「退屈な飲み会を二人で抜け出して、公園で飲み直す」なんてシチュエーションに憧れない24歳がいるのだろうか。
とにかく、本当に、<彼女>が可愛かった。
公園でハイボールを飲みつつ、笑いながら手を肩に触れるあざとさ。待ち合わせ場所をビレバンに指定するユーモア。高円寺に迫る太陽に向かって「登ってくんな!」と言い放つ清々しさ。
ホテルのスイートルームで散々はしゃいだ後に「死んでしまいたい」と笑う彼女。<僕>が「全部好き」と伝えた時の切なそうな表情。最後の海で「魔法みたいな時間だったな」とマジックアワーの終わりを実感している<彼女>。
<僕>が好きになった<彼女>が、たしかにそこにいた。<彼女>が持つ魅力が全部そこにあった。正直、笑っている<彼女>を観れただけで、この映画を観て良かったと思えた。
同時に<彼女>のことを嫌いな人も多くなってしまうんだろうなという予感がした。<彼女>が何を思って<僕>と過ごしていたのか判明する場面が小説でも映画でも無くて、そこの説明が無いことに納得しない人も一定数いる気がしている。
あの「よいお年を」の言い方はズルいよ尚人…
その他の登場人物についても納得のいくキャスティングばかりで、安心して観ることができた。カッコよすぎると心配していた北村匠海は<僕>のナヨナヨした感じが出てたし、リアリティというか、この映画を観て「彼らは本当に存在してくれてたんだな」と思えたのは北村匠海が<僕>になってくれていたからだ。
石田と黒澤と中山さんも良かった。石田は想像していたよりも悪い奴では無かったし、黒澤みたいな同期がいたら絶対楽しい。人種が違うと言われてた中山さんが、<僕>が復職した時に過剰に心配していたのには少しキュンとしてしまった。
あとは「尚人」に尽きる。小説を読みながら「この親友、良い奴だけどカッコつけすぎだな…」と笑っていたし、現実でこんなクサい台詞言う人いないでしょ…とずっと思っていたのだけど、訂正します。いました。確実にいましたわ。
バッティングセンターでバカスカ飛ばしながらあの言葉を言う尚人も、甘いものをぶち込めば元気になるように出来てんだよと言ってコーヒーを淹れてくれる尚人も最高だった。特に、〈僕〉が尚人の退職を知る年末の場面で、〈僕〉に伝える別れの言葉が「よいお年を!」じゃなくて「よいお年を」だったの本当に痺れた。あの言い方はズルいよ尚人…。カッコつけてもカッコいい人ってキムタク以外に存在するんだな…という気持ちでいっぱいです…。
小説の中で一番好きな場面がカットされていて寂しかった、という個人的な話
小説で醸し出されている感情や各登場人物が高い解像度で映像化していた一方で、原作準拠では無い個所が幾つかあった。例えば、<僕>と<彼女>がフジロックと同じ日程でノープランの旅行に行く場面。小説版だと第5章の「怠惰と楽園」がそれにあたる。
(※以下、「きのこ帝国「東京」が優勝してました」まで小説のネタバレを含みます)
映画では行き先と宿泊先を当日の朝に決め、トラブルも何もなくホテルに着いていたのだが、原作では違う。小説では、宿泊先に向かう途中で<僕>がレンタカーの鍵を無くしてしまうのだ。
夜の23時にスマホと財布しか手荷物が無い状況で、車の外に締め出されてしまった2人。〈僕〉と〈彼女〉はスマホからじゃらんを開き、今から泊まれるホテルを片っ端から探す。7軒目でようやく空きがあったホテルは、なんとロイヤル・スイートの部屋だった。
フジロックの通し券よりも高い金額の部屋に、さすがに他を探そうとする<僕>。それに対して「こんな携帯と財布しか持ってないペラッペラな男女2人が、ロイヤルスイートに泊まるのなんて、面白いに決まってる。絶対に忘れないよ、そんな日のこと」と予想を裏切る<彼女>の答えが返ってくる。
自分はこの場面にある以下の一節が「明け方の若者たち」の中で一番好きだ。
<僕>の<彼女>に対する愛の熱量は、この一文に詰まっていると思う。恋愛は盲目であることを知っていながらも、社会人2年目のふたりには高すぎる宿泊料だとしても、<彼女>の人生に忘れられない一日を作れるのであれば、それ以上のことは無い。<僕>にとっては、彼女の思い出に一生残ることが正義であり、すべてなのだ。これほどまでに高い温度で<彼女>を好きでいる<僕>のことを、誰が否定できるのだろうか。
そして、至極当たり前の話だが、小説は文章だ。ゼロから百までの感情を(直接的で無くとも)活字で説明してくれる。そのため、<僕>が<彼女>のことをどんな風に好きだったかを端から端まで理解することができる。
一方で映画はそうではない。<僕>がその言葉を発した意図や常々抱いていた感情の説明が明確にはされないため、観ている当事者への伝わり方が異なる。そのため、<僕>が<彼女>に抱く調節不可能な恋愛の熱量、病的な依存具合などは小説の方が分かりやすかったと思っている。
指が吹っ飛ばされる事故が起きる場面も、似たような理由が挙げられる。物語の途中、総務部に配属された<僕>が単調で同じような仕事を繰り返す中、「作業者の指が機械に巻き込まれて切断される」という事件が起きる。
原作でのここは、<僕>の仕事に対する意識が転換する重要な場面だ。同じことを繰り返す退屈な毎日に納得していない〈僕〉が、ワクワクした非日常に生きたいと思い出すあの日。小説だとここは、社会人になりたての「こんなハズじゃなかったんだけどなあ」と思いながら仕事をしている若者に刺さる場面だ。
しかし映画では、前後の感情の具体的な説明等が無いため、ただ急にトラブルが発生した場面のように映ってしまっていた。飛ばされた指がやたらグロテスクだったのも、指を見つけ出した彼の恍惚とした表情が写ってなかったのも、それに対する説明が足りなかったのも、あそこの場面が消化され切れていない理由だと思う。
きのこ帝国「東京」が優勝してました
とはいえ、小説では見られない映画の良さというのも勿論ある。前述した〈彼女〉の可愛さや尚人のカッコ良さが直接伝わるというのもそうだし、バッティングセンターや「エイリアンズ」などの名場面が映像化されていることで、自分をはじめとする原作ファンには堪らない映画になっていたと思う。
また、なんといっても、曲の強さが半端ない。特に、劇中の挿入歌として流れる「東京」と「ヤングアダルト」が本当に良かった。
「明け方の若者たち」をバックに流れる「東京」は、その歌詞と〈僕〉と〈彼女〉の毎日との親和性が高すぎるが故、あれこの曲ってこの話のために作られたんでしたっけ…?と思ってしまうほどだった。
また、マカロニえんぴつの「ヤングアダルト」。原作者のカツセマサヒコが小説の出版直後にTwitterで「この話にエンドロールか主題歌をつけるとしたら、マカロニえんぴつのヤングアダルト」みたいなことを呟いていた。まさか本当に映画になり、実際に劇中歌として流れてしまうとは。「夢を見失った若者たち」も「全てを捧げた大事な恋」も、全部<僕>のことを歌っている気がしてならない。
そして、この映画のために書き下ろされたマカロニえんぴつの「ハッピーエンドの期待は」。エンドロールで流れたこの曲が、若者だった<僕>に起きたすべての救いとなっていた。もしここまで読んでくれた中でまだ映画を観ていない方がいるのなら、ぜひ映画館に足を運んでほしい。一人でも多くの人が劇場でこの曲を聴いてくれることを願う。
上映後、ひとりハイボールを飲みながら
映画を観終わった後は、ふたりが飲んでいたハイボールをコンビニで買い、上記プレイリストを聴きながら帰りました。
この小説を読み終えてから1年半。あれから本当に色々なことがあったなぁと過ぎていった時間を懐かしく思いました。当時の自分のnoteや日記を読み返し、「こんなハズじゃなかった」と言いつつその現状を楽しんでいる自分に対して、青臭さへの鬱陶しさと無責任な生き方に対する嫉妬が入り混じった感情を抱いてしまいました。
今年、自分は24歳になりました。「マジックアワー」を過ごせるのもあと少しです。僕には幸いにも、「お前は俺にとっての尚人だから」とアホみたいなことを言う親友をはじめとした、大好きな友人たちが沢山います。彼らとくだらない話をしながらお酒を飲む夜を、あと何回過ごせるのでしょうか。何の足しにもならない無駄な時間を、どれだけ浪費できるのでしょうか。いつかこの時間が終わってしまうことを考えると、本当にしんどいものがあります。
ただ、今まさにマジックアワーを生きている年齢の時に、この時間が終わってしまうことを知れて良かったと思っています。カツセマサヒコが「明け方の若者たち」を読んだり、今回の映画を観た若者に期待していることは、今この時間が制限のあるものだと気付き、マジックアワーを思い切り楽しんでくれることだと思っています。いや、期待というか、後悔すんなよ!みたいな助言や激励に近いのかな。
ともかく、「明け方の若者たち」が「マジックアワーを大切に生きろよ」と教えてくれたお陰で、僕は友人たちと過ごせる夜を大切にしようと思えています。
なので2022年は、やりたいことを全部やる年にしたいです。「若いうちにしか出来ないから」という言い訳を振りかざしながら、なに下らないことしてんだ俺はと後悔しながら、どの夜のことを思い出しても悲しくならないように過ごしていきたいです。
これからも僕はハッピーエンドの期待は捨てず、生きていきます。
あなたも、どうか元気で。
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