書評『交通死―命はあながえるか』二木雄策著 岩波新書

 新聞の地方面の片隅に、毎日のように交通死亡事故の記事が掲載されているよほどの「大きな」事故でない限りわずか数行で、その日のニュースの量によっては掲載されないこともある。

 著者は、成人式を目前に控えた愛娘を信号無視の自動車で「殺害」された。事故から五日後に僅か二〇年に満たない生命を閉じた彼女は、しかしながら統計上は「交通事故死者」としては扱われない。交通事故死者は、事故発生後二四時間以内の死者と定義されているからである。そして一人一人の死が、いとも軽々しく扱われているのが現実である。その軽さは、事故の「処理」の過程でも一貫している。あたかもマニュアルに基づいた流れ作業のように進められるなかで、被害者がどのような生活を営み、とのような希望を持つていたかは一顧だにされない。

 著者はまず加害者を刑事告訴する。刑事裁判でその望まない死の責任を問おうとしたのである。ところが、刑事裁判においては加害者側の情状の釈明はあっても、被害者側からの異議の申し立ては出来ないのである。まさに「死人に口なし」の状況下で下された判決は懲役二年執行猶予三年。これは、バイク四台(時価一〇万五千円)の窃盗事件と同じ程度の罪である。これはいわば「相場並」の判決であり、現在の日本では交通事故で人一人殺しても、社会生活上の不具合はほとんどないように出来ているのである。

 民事責任はさらに簡便である。保険会社には「自動車対人賠償保険支払基準」なるものがある。これは「レストランのメニユー」のように「死んだ人の年齢や立場によって慰謝料が前もって決まつている」ものである。そして、女性であるというだけで逸失利益は低く見積もられる。

 著者は、かけがえのない娘が一切の「個人性」を顧慮されぬままに金銭に換算されることを拒んだ。当然の如く示談は成立せず、調停も不調で、民事裁判で争うことになる。その過程で、現在のような民事賠償の骨組みが如何にしてできあがったかを追求していく。東京地区で発生した事故と大阪地区で発生した事故では、損害賠償額の算定係数が異なるといったことも明らかにされる。

 著者が一貫して求めていることは、かけがえのない愛娘を個人として処遇してほしいということである。これは、日本国憲法にかなった当然の権利といえる。と、いうことは、裏を返せばこのクルマ社会は日本国憲法を躁躍しているのである。民事裁判の一審は到底納得できるものではなかったが、高裁判決は完全ではないにしろ、全体的には「抽象的なヒトとしてではなく、一人の個性ある人間として扱うという姿勢を随所に示すものだった」。そこで、著者は娘に「語りかけた」上で、高裁判決を受け容れることとした。

「長い間の懸案だった民事裁判は終わつた。しかし、一つの難題に終止符を打ったとはいえ、今の私たちには事をなし終えたという充足感や安堵感はない。あるのは、娘が私たちの手許からまた一歩離れて行ってしまった、という空虚な寂蓼感だけである」。
(岩波書店六三〇円  https://www.iwanami.co.jp/book/b268337.html )

(初出 「ひろば」1997年11月号 ちば市民ひろば発行)

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