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コトバと生命

私が イスラームにおける「貨幣」の存在について関心を持ちはじめた背景には、当時の私の恋愛の状況が大きな影響を与えていると、ここ最近になって思う。

留学先で恋に落ちた彼と、帰国後に別れたのか、別れていないのか「曖昧な状態」になった。
当時の私は「彼を好きな気持ち」に依存をしていたため、「名前のない関係性」に我慢ができなかった。

数ヶ月ごとにfacebookで連絡を取り合う関係が続き、彼を想像する時間ばかりが増え、幻想や期待を持つようになっていった。

彼の対応全てに、意味や優しさ、「善」を見出そうとして、最後は彼が私にしてくれることは全て善だと信じていた。

いつの日か、私が彼の「彼女」と認めてもらった時は、願いが叶った嬉しさのあまり泣いてしまった。


こんな風に、20代前半の、前半を、現実で会ったりすることでなく、想像の世界で意味づけをすることを中心に恋愛をしていた私は、物事や事象を「ありのまま」に見ることよりも、意味づけをすることに夢中だった。

「信じているものが全部、嘘でした」と言われた時には、恐らく絶望で死にたくなったかもしれない。

                                                         Vancouver, B.C, CANADA

「自分を支えてくれる絶対的な存在としての彼氏」、またそれは「相手を支えてあげる絶対的な存在としての私」という関係性を、当時は何よりも欲していた。

そんな生きている心地のしないまま、大学に復学し、たまたま雑誌の「エコノミスト」を読んだとき、「株の動き」と、私の彼に対する期待、そして期待を裏切られた時の怒りの気持ちの構造が、とても近いものに感じられた。

人の気持ちが数字やお金として「見てわかる状態」になる株価や為替の動きは、当時「気持ち」や「心理」について考えがちだった私の興味を、グワシィっと掴んだ。

そこから、貨幣、あるがままの価値に対して、ひとびとの期待や信仰によって意味付けされて価値が増えること、その面白さに取り憑かれた。


恋愛も、構造は似ている部分があると思う。

「想像上の彼」は、きっと「ありのままの彼」に私たちの期待が乗った、「別の彼」だろう。

叶わぬ愛が美化されるのも、私たちが想像して意味付けしているに他ならない。
神を偶像として崇拝することも、アイドルに幻想を抱くのも根底は似ている。



さて、私が「コトバ」について書いてみたら面白そうと思った背景には、現在 読み進めている著書:『東洋哲学覚書 意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学』(著:井筒 俊彦/中公文庫)の存在がある。

昔から、人は、「コトバ」にすること、「名」を授けることで、そこに存在を意識し、意味付けをし、認識してきた。

抽象的なところでいうと「愛」「自由」、具体的なところでいうと「椅子」「机」、これらの言葉 全てが、私が想像するものと、あなたが想像するそれとは異なっている。

コミュニケーションをとることが、どれほど難しいことで、お互いが理解できることが如何に奇跡に近いことか、想像できる。

特に育った背景や言語が異なる時(まさに、私が経験した韓国人の彼氏もそのパターン)、相手にこちらの当たり前を求めることが、どれほどナンセンスなことかも今になると、納得できる。

コトバは、ひとが勝手に切り取って意味:生命を吹き込んで:意味となって存在しているだけで、当たり前に使用している言葉も、それは「本名」ではなく、「仮の名前」にすぎないかもしれない。

特に「概念」や、感覚的で名前をつけられないような塊は、コトバにすればするほど、実体が微妙にずれた地点で切り取られてカタチどられていく、気持ち悪さのような、自分の語彙の低さに絶望する瞬間がある。

[ コトバ ] が、気持ち、感じたこと、存在、概念、思想の私が人に伝えたいそのイメージを、
広がる真っ白の紙に色を塗り、切り取って何かの形にしていくようなチカラを持っていると考えた時に、私のイメージするそれをどこまで相手に細かく伝えられるかは、語彙の多さや言葉以外のイメージで表すことが大切であると反省した。


コトバにすることで、そこに魂が宿ることがあるから、未来の姿を言語化していくことが重要と言われるところでもあるのだと思う。

頭の中には、コトバで分節できない もわっ とした塊のような空間もあって、語彙や映像的なイメージが多いほど、それらをより具体的に、そしてダイナミックに「視る」世界が創造できるのではないだろうか。

そして、まだ出来るか分からないようなことも、言語化することで、ひとつの未来の世界観が [ もわっ ] とした空間から [ にょきっ ] と生まれ、存在しうる未来となっていくのだと思った。

勿論、すべては無常であるため、一度 言語化した未来の世界へのイメージは、語彙が増えたり映像のイメージが増えることで変化していく。

コトバは人に、想像をカタチにする楽しさを与える半面で、そのコトバが人を不自由にさせるチカラを持っている。

そんなときは、「無常の世の中だから、コトバにできる世界観が大きくなるほど、気持ちが変わっていくことも仕方ないよね」と言い合えるような関係性を人と持ち合えると、いい。

貨幣にしても、恋愛にしても、人間関係にしても、人間は 物事を「あるがまま」にみることがしにくい生き物で、意味や存在価値をそこに見出そうとしてしまう。

なんとなく、私がずっと興味を持ち続けていることを書いてみました。
非常に抽象的でまとまりがなくて、意味がなくて、スミマセン。笑

やっぱり、言語化することは、とても難しい。
表現する力強い語彙力や、視覚・ヴィジュアル(ものづくりも含め)で伝えられる能力を伸ばしたいと思っている今日この頃です。

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noteという発信媒体を通じて…

言語化することは、未来を創造することです。
私は、ジュエリーをつくれるようになりたいです。
歴史、たとえばサンティアゴ巡礼と信仰、貨幣と人間の心理、水俣病の被害者・加害者の構造、関心を持って調べているテーマについて、ものづくりを通じて向き合えないだろうかと考えています。
面的なマテリアル、木、銀、金、鉄などを使ったジュエリーを学べる工房・学校・機会があったら、もし宜しければ 教えてください。
ジュエリー製作の物語を、フィールドワークを、写真や絵本、また参考にした本や現地の作り手の物語と一緒にパッケージ化できたらいいなと思っています。
▶︎ 連絡先:ohyummy@icloud.com  
よろしくお願いします。


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