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【小説】帳がおりる 第6話(八木ちはな編)

 絵のような青空が広がっていた。
 体育館が改修工事で使えない期間のあいだ、月曜日の全校朝礼は、校庭を代わりの場所としていた。
 校長の話に馬耳東風な生徒の列を眺めていたら、列の中の一点で、ふらり、影が揺れ動くのがみえた。
 ――誰か倒れた。
 列が膨らみ、瞬間どよめく。校庭にざわめきが広がった。
 倒れた生徒は保健室に運ばれた。私はそれに同行した。
 体温と脈を診たあと、「ただの貧血」そう告げて、養護の先生は白いカーテンのむこうに消えた。私たちは、そちらの気配を気にして小声で話す。

「朝ごはんは、ちゃんと食べたの? 都築くん」

「僕、朝ごはんは食べないから」

 ――都築群青(つづきぐんじょう)。それが、きみの名前――。朝露に濡れた若葉を思わせるセンシティヴな目をした男のコ。
夏服の、白い開襟シャツが、背中に汗をかいている。

「横になって」とベッドに促す。

 きみは枕に頭を置いて、「なんか僕、かっこ悪っ……」と目許を腕で隠した。「夜、あんまり寝てなかったからさ」と言い訳するように口を尖らせる。

「何時に寝たの?」

「多分、四時……。ちゃんとは覚えてない」

「……もぅ。そんな時間まで何してたの?」

「先生のこと考えてたら眠れなくて」

「何か言った?」

「イイエ。言ッテマセン」

「……で? 本当は何してたわけ?」

「ゲーム?」

「もお……」

 叱られているはずのきみが、悪びれた様子なく、ニコニコしている。

「一時間めは遅れていいから、しばらくそこで寝てなさい」

「待って。先生、もう少しだけ、ここにいて」

「…………。」

「お願い」

 また溜息……。頷いて、私はベッドの隣の椅子に座った。
 窓は薄く開いていて、朝礼の声が続いていた。だけど、それはちょっと遠くて、不思議と少し、他人事な音で響いた。
 貧血のせいか、いつもは軽口を叩いてばかりのきみが、おとなしい。
 吹きこんだ風を孕んで、カーテンが丸く膨らんだ。

「あのさ、」「体育館」と二人、口を開くタイミングが重なった。

「ゴメン。なに?」

「いや」首を振り、きみは発言権を私に譲った。

「うん。朝礼、体育館が使えてたら良かったのにね」

「そうだね。そしたら僕、倒れなくて済んだかもね」

 体育館の工事は、生徒がいる時間を極力避けてスケジューリングされているから、竣工までには時間がかかる。全部終わるのは夏休み明けの話だときいていた。
 工事用の養生シートに覆われた体育館の姿を、窓から眺める。

「ねえ、都築くん。知ってる? あと何年かしたら、旧校舎も取り壊すんだって。どんどん景色が変わっていって、なんか、ここで過ごしたみんなの思い出がどっかに消えてなくなっちゃうみたい……。そんな気しない? それって……淋しいよね」と、私は呟いた。


 光がない。ここはどこだろう……、私の記憶は朧気だ。
 部屋で考えごとをしていたら、外で、赤ちゃんの泣き声がした。家のすぐ近くな気がした。泣きやまなくて不安になって、様子を見に行かなくちゃと……。そう思って家を飛びだしたのだった気がする。
 周りに人の気配を感じない。赤ちゃんの声も、今はもうきこえない。空耳だったのかな。今になって思ってみれば、猫の鳴き声だったのかも……。きっと、そうだろう。
 生ぬるい夜の風が、肌を撫でた。それは、長年忘れていた感触だった。
 足がすくむ。足許から這い上がる恐怖に、全身支配されそうになる。
 あごが震えて、声もでない。
 どうして、こんなことに……。が、頭を巡る。
 あぁ。私は、どこで間違えたんだっけ?
 十年前。最初におかしくなったのは、この国じゃなかった。ニュースに映った遠い国の映像は、それまでの常識では理解が及ばない混乱の様子で、なんというか、見たことがない見てはいけないものを見ているような不気味さ……一言では言い表せない、生々しい生理的な不快を感じた。映っているのは、どこも夜の光景だったが、こちらが朝であるコトとの時差を考えればそれは自然な話で、そのときにはまだ、危険の正体が夜だとは誰も考えていなかった。具体的な説明はないまま、「絶対に外にでないでください」とテレビはそれだけをひたすら訴えていた。同時に、公共交通機関も全国的に運休中であることを知る。
 婚約者の声がききたかったけど、電話回線はパンクしていたし、SNSも落ちていた。もしも……、もしも昼間のあいだに直接会いに行っていれば、あるいは……、そのあとの結果は違ったのかな。
 カレが、私の知らない女の家にいたことを、何かの偶然だと思いたがっている私がいた。そんな、自分に都合の良い話を本気で信じたがっていた。
 桜の木をみるたびに、カレの笑った顔を思いだす。一緒に満開の桜を見上げて、「来年も一緒にみようね」と約束したのに……。
 私の心には、隙間ができた。時間の経過とともに、どんどん隙間は広がっていく一方で……。
 こんな時代で、私は、未来が怖かったの。生徒たちの未来に、夢や希望が抱けない。未来は良くなるはずって思えない。致命的だと思った。教師にふさわしくない人間だと思った。
 隙間だらけの私……、そこに土足で踏みこんできたのが、きみだった。
 本当に、私、教師失格だね。
 だって、気づけば私、きみに救われてた。
 きみに救われる資格なんてないのにね。ね? 立場が反対だよ。
 ちょっと前までの私は、昔のことを引きずりながら一生悔やんでいくんだと思ってたの。
 だけど今、まぶたの裏に映るのは……。
 都築くん……。
 最期に浮かぶ顔が。
 きみで本当に良かった。


 最後のお願い。
 きみは、早く私を忘れて。
 そして。
 どうか。
 私のぶんまで長生きしてね。


 絵のような青空が広がっていた。朝礼の声が校庭に響いている。

「ねえ、都築くん。知ってる? あと何年かしたら、旧校舎も取り壊すんだって。どんどん景色が変わっていって、なんか、ここで過ごしたみんなの思い出がどっかに消えてなくなっちゃうみたい……。そんな気しない? それって……淋しいよね」と、私は呟いた。

「でも、悪いことばかりじゃないんじゃない?」と、あっけらかんと、きみが言う。「僕ね、前は、体育館裏でお昼ごはんを食べててね。それがさぁ、工事のせいで、体育館裏も立ち入り禁止になっちゃって……。でもね、それがあったから僕は先生と仲良くなれたし。覚えてる? 屋上の前の階段で一緒にごはん食べたのを。それにほら、今日だって、工事のおかげで、貧血で倒れて一時間めサボれるしね」

「コラ。今日からは早く寝て、朝ごはんもちゃんと食べなさい。ね、都築くん。わかった?」

(第6話・了)


※一部、YouTube朗読版とは内容が異なる場合があります。

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