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【小説】帳がおりる 第5話(都築群青編④)

 その日もまた空は灰色、天気は朝から雨だった。

「今から会えませんか、都築さん」

 遠藤さんから連絡があったのが、今から三十分前のこと。

「調査は終わりました」遠藤さんは、電話でそう言った。「この先は、直接会ってお話します」と。

 僕は仕事を早めに切り上げて、探偵事務所へ急いで向かった。

「座ってください」と遠藤さんは僕をソファへ促した。

「調査は終わったって、本当ですか?」

 遠藤さんは頷いた。テーブルを挟んだ僕の対面、彼は太腿の上で指を組む。「結論から言います。八木ちはなさんは、警察の言うとおり、事故死です」

「そんなバカな!」僕は腰を浮かせた。

「都築さん、落ちついて」

「ちゃんと調べたんですか? だって、そんなわけが……!」

「事故死です」と、遠藤さんは繰り返す。「概ねは、前回話したとおりです。彼女は日没前に帰宅して、その後は誰とも連絡をとっていなかった。そして、深夜、自らの意志で外にでた」

「だったら……、それは自殺じゃないか……」

 遠藤さんは首の動きで否定した。「都築さんは、双極性障害、という言葉をきいたことがありますか?」

 知らない言葉だった。

「ちはなさんは、長年、病院に通っていました。薬の手帳が残っていて、かかりつけの病院には通院の記録も残っていました。トバリ絡みのストレスで通院する人は珍しくない時代です。ちはなさんの場合、婚約者との一件も原因の一つになったのでしょう。双極性障害は、簡単ではない障害です。躁と鬱を繰り返す。周囲が自分へ敵意を持っているように感じたり、逆に、周囲へ攻撃的になったりする例も、ときにある。ちはなさんは、薬で波を抑えながら日常生活を送っていたようです。このことは警察も知っていました。ここからが、重要な話です。ちはなさんは、亡くなる一ヶ月前から、薬の服用をやめていました。手持ちの薬も切れたまま、病院にも行っていなかった」

「どうして、そんなことを……」

「これは、ちょうど夏休みに入った時期の話です。つまり、あなたと映画を観た時期と一致します。あなたからの告白で、ちはなさんは自分を変えようと思ったんじゃないですか? あなたの言葉に心を動かされ、ちゃんと前を向こうとしていたんです。薬を断って、早く、心の問題を克服しようと戦っていた。双極性障害は、ひどいケースでは、幻覚を見たり幻聴を聞いたりするケースもあるそうです。薬を断っていた彼女は、おそらくあの夜、そういった感覚の状態になってしまっていた。当時のちはなさんには、外が昼か夜かもわかっていなかった可能性があります。あるいは、外にでたあとになって我に返って、夜であることに気づいたかもしれません。ですが、もうどこにも逃げることが叶わなかった」

 何故そんなふうに言い切れるのか、僕には、さっぱりわからなかった。何を根拠に……?

 僕の疑問に答えるように、遠藤さんは話し続ける。「ちはなさんのご遺体は、ちゃんと検死を受けていました。警察内部の知り合いに頼んで、そのときの記録を見させてもらいました。ご存知のとおり、トバリの被害者には、ときに、急スピードで腫瘍ができる。彼女の場合、その場所がマズかった。脳の下垂体に当たる場所です。鼻の付け根に近いこの場所は、腫瘍ができると視神経が圧迫されて、失明することがある。ちはなさんは急激に視力を失った。目が見えていなかったんだと思います。もう、帰る方向がわからなかった。助けを求めても、夜中で人は歩いていません」一呼吸置いてから、これが真相です、と遠藤さんは話を締め括った。

 僕の頭は混乱していた。話が飲みこめない。だけど、と思った。「だけど、そんなの全部、遠藤さんの勝手な想像じゃないですか」

「そうです。現実の探偵は、マンガとは違います。決定的な証拠をみつけて、名推理で事件を解決したりはしません。だから、私の妄想と言われれば否定のしようもありません。ところで。知っていますか、この国では平均すると、三日に一回は雨が降っている確率になるそうです」

「え」

「人は主観でしか、物事を見られない。雨男の人が『雨が多い』と感じるのは、そう信じこんで、雨ばかりが印象に残るからです。都合の良い答えだけを信じれば良いんです。八木ちはなさんは、あなたが殺したんじゃない。不幸な事故です」

 僕は、「……信じられない」と呟いた。

「警察の報告にもあったとおり、ちはなさんの遺体が発見されたとき、彼女は何も所持していませんでした。財布も電話も……。パジャマ以外、何も身につけているものはなかったんです。何も身につけていなかった。何も……。最後の日、ちはなさんは、指輪をしていなかったんですよ」

 ああ……。
 捨てろ、と僕が言ったから……。
 目に、熱いものがこみ上げる。
 こらえきれず、嗚咽する。

「都築さん。初日から、ずっと引っかかっていたことがあります。それは、『何故、都築さんがこの依頼をしてきたか』です。あなたは、この部屋に来た最初の日、ちはなさんのことを話すときに、私にこう言いましたね。――僕が一生でたったひとり、好きになった人でした……。そこで、『でした』と過去形を使うのは、少し不自然な言い回しですよね。まるでそう、遺書の一文みたいだ。あなたは真実を知って、それで……、そのあと、どうするつもりだったんですか?」

 その質問には、僕は答えられない。

 静かな眼差しが、僕を見据える。「都築さん、バカな考えは捨ててください。生きてください。それが、八木ちはなさんがあなたに望むことだと思います」

 僕は――。
 僕は、小さく頷いた。
 掌で、目許を激しく拭う。

「雨、あがりましたね」と遠藤さんは優しく微笑んで、窓に目をやる。

 雨上がりの空の、雲の切れ間に、色鮮やかな虹が架かっていた。

(第5話・了)


※一部、YouTube朗読版とは内容が異なる場合があります。


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