【小説】帳がおりる 第3話(都築群青編②)
探偵の遠藤さんに調査を依頼して一週間が経った。
僕は今、知らない道を、昔、見聞きした記憶を頼りに歩いていた。僕は高二で学校を転校している。転校先の高校を卒業後、今の仕事に就いた。もう仕事も二年目だ。その間、こっちに戻ってくることはなかったし、こうして、この道を歩くのも初めてだった。
信号は、随分手前に一つあっただけ。車も通らない。風の音が鳴るだけだ。
足を止める。
この辺りのはずだった。
道は、なだらかに伸びている。先生は、僕が今来た駅からの道とは反対のほう、つまりは今僕が見ている視線の先からやってきて、そして、あの夜、この辺りで倒れた。遺体が発見されたのは翌朝だ。ほかの人にとっては、ここは何の変哲もない、ありふれた道路――かもしれない。だけど、とても淋しい景色に、僕にはみえた。街灯はあるが、夜間に出歩く人はいないから、この十年の間、フィラメントが灯ったことは一度もないはずだ。月はでていただろうか。想像して、指先が冷たくなった。誰も通らない真っ暗な夜道を歩く先生の姿が頭に浮かんで、ぞっとした。
先生は、最後の瞬間に何を思い、逝ったのだろう。
僕は目眩に似た感覚を覚えて、まぶたを閉じた。
先生のことを思いださなかった日はない。
忘れない。
忘れることなんて、できやしない。
僕は、今でも、あの日々のことを繰り返し思いだす。昨日のことのように鮮明に――。
――三年前。春が来て、僕は高二になった。
一学期が始まってまもなく、僕は、ささいで深刻な、ある問題に直面した。別にクラスに友達がいなかったわけではなかったが、僕は大勢で食事をするのが苦手だった。だから、一年のときは、体育館裏をお昼ごはんの場所にしていた。それなのに、春休みが明けたら、僕に断りもなく、勝手に、体育館の改修工事が始まっていた。その結果、体育館裏も立ち入り禁止。最悪だった。一体どこへ移れというのか……。なかなかコレと言った新しいセーブポイントが見出せず、なかば途方に暮れていた頃に妙案が。屋上へと続く階段だ。屋上は開放されていない。ドアは施錠されている。それ故に、偶然人が通りかかることもない、僕にとっては好都合なデッドスペースだ。
と意気揚々、向かってみれば――予想外の先客がいた。
階段の四段めに座ったその人は、黒いストッキングの膝をこちらに向けていた。踊り場の窓から陽が差していて、見上げる角度の僕には眩しく感じた。
「都築くん、どうしてこんなところに?」と先生はポカンとなったが、自分の発言のおかしさに気がついて、口許を歪ませた。「どうしてこんなところに……はお互い様か」と。「あ。座る?」
断る理由がみつからなくて、隣にお邪魔して、僕は購買で買ったパンの封を破いた。
スカートの太腿に載ったお弁当箱には、世界的に有名な黄色い熊のキャラクターがプリントされていた。赤いシャツの、ぽっちゃり体型のあの彼だ。
「お弁当、中身は蜂蜜じゃないんですね」
「え」
「なんでもないです」
フルネームは、八木ちはな。漢数字の八に、木曜日の木。ちはな、はひらがなだ。初日に、新しく担任になった先生が黒板に書いた名前を僕は記憶していた。もっとも、ちゃんと言葉を交わしたのは、このときが初めてだったけど。
僕が二個めのパンに取りかかろうとしたタイミングで、「おいしそうだね、それ」と先生が口を開いた。
「これ、売店で一番人気だから。すぐに売り切れるから、スタートダッシュに遅れると買えないんだ」
「へぇ。すごいね。今度、私も食べてみたい」
まだ口をつける前だったし、僕は開けたばかりのメンチカツサンドを均等にサクッと割って、片方を無言で差しだした。
「あ。ごめん。そういうつもりじゃあ、」
「いいから」
「ありがとう。……じゃあ交換ね」先生はお弁当の卵焼きを箸でつまんで、僕の口の近くに運んだ。
「…………。」
「どうしたの。早く。ほら。手ぇ、疲れるから。あっ箸、嫌か。だったら素手で」
「別に。どっちでも」僕は目を瞑り、あごを突きだす。「……甘いね」
「甘い卵焼き、嫌いだった?」
僕は首を右、左に往復させた。なんだか、すぐには言葉がでてこなかった。口の中の卵焼きを飲みこむのがもったいなくて、いつまでも、この甘さが消えなければ良いのに、と思った気がする。
思い出は魔物だ。僕の腕をがんじがらめにして離さない。
思い出は麻薬だ。甘く……脳を焼く。
僕の名前を呼ぶあの声が、街中でも、夜寝る前でも、音楽を聴いているときも、気を抜くと、炭酸みたいに蘇る。
「――都築くん」「ねえ、都築くん」と僕の名前を呼んでいる。白球を打つ金属音が、夏の灼けたグラウンドに響いていた。「ねえ、都築くん。ほかの教科は成績良いのに、どうして、私の授業だけ赤点とるかなぁ。そんなに数学嫌い?」先生が呆れ顔で僕をみる。
「別に嫌いじゃないし、どっちかっていうと、得意なほうです」と僕は答えた。
「補習になっておいてよく言えるよ、きみは……」
期末試験の結果が返ってきた週の土曜日だった。数学で赤点をとったのは僕だけで、教室には、僕と先生の二人きり。
「僕が補習になった理由、わかりませんか?」
「理由?」先生は首をほとんど真横に倒した。「理由って?」
「先生って案外鈍いんですね」
「え」
「なんでもない」
僕は答案用紙に視線を落とした。しばらくの間、HBのシャーペンで数式を分解していった。
「わからないところがあったら、ちゃんときいてね」
「はい」と僕は挙手をした。「先生は、どういう人がタイプなんですか?」
「チョット、そういう質問じゃなくて」
「良いじゃないですか、言って減る物でもないし」
「きみねぇ……」
「大丈夫大丈夫。教えてくれたら、次のテストでは百点とりますよ」
「またぁ、そんなこと言って……。……え」と先生は目を丸くした。「もしかして、わざと赤点とったの? なんで?」
「……はぁ。ホント鈍い」僕は頬杖をつき、そっぽを向いた。
肘が当たって、消しゴムがポロッと落ちた。
「いいよ。私が拾うから」
それと同時に、僕も屈んだ。
指先が、ぶつかった。
「……ごめん」と、先生が腕を引く。
目の前に顔があった。
先生は、ほつれた髪を指ですくった。そこには、細いシルバーの指輪。左手の、薬指だ。
「ねえ。先生って、まつ毛長いですね」
「もぉなに。きみって、ときどき変だよねぇ」
「変かな、僕」
「変だよ。変。ソートー変」
電話のベルが鳴っていた。目覚ましで夢から醒めたみたいに、急にその音が意識の外側から乱暴に飛びこんできた。「もしもし?」
「都築さん、今、お時間大丈夫ですか?」探偵の遠藤さんの声だった。「今日で依頼を受けて、ちょうど一週間です。一度、途中経過の報告をと思って、」
「どうも、わざわざありがとうございます」
「どうかしましたか? なんだか声に元気がない。それに今、外ですか? 時間をおいて、かけ直します」
「や、大丈夫です。続けてください」
調査報告の内容は、ざっくり分けて、四点だった。
一、あの日、先生の姿が最後に確認されたのは、十八時過ぎである。職員室と廊下で、何人かの教員が先生と顔を合わせていた。先生は、その後、まっすぐ帰宅したと思われる。当日の日没は十九時四分。寄り道をする時間的余裕はなかったと見るのが妥当なところだ。
二、帰宅後、先生は誰とも連絡をとっていない。それは残された携帯電話の履歴から判断された。
三、死亡時刻は、推定、二三時からゼロ時の間。
四、遺体が発見されたのは、マンションから、わずか二百メートルの距離である。
正直、目新しい情報はなかった。肩透かしに力が抜けた。
不意に、長い沈黙があった。電波が不安定になったかと思ったが、数秒経って声が戻った。「都築さんは、本当に、真実が知りたいですか?」
「そんなの……、当たり前じゃないですか」
「もしも、その真実が、都築さんが考えるよりも残酷な現実だったとしても……?」
「何かわかったんですか?」と僕は尋ねた。
「これは探偵のジレンマです」と前置きされた。「事実を知れば、この人は不幸せになると予感する仕事が、たまにある。それでも本当のことを話すべきかと……。八木ちはなさんは、都築さんが思っているような人ではないかもしれません」
「先生の、婚約者のことですか?」
「知っていたんですね」電話の声に、深い息が混じった。
「僕も、話すべきか悩んでいました。今まで、誰にも話したことはありません」息苦しくて目を瞑る。喘ぐように僕は、秘密を打ち明けた。「先生を殺したのは、僕なんです」
(続く)
(第3話・了)
※一部、YouTube朗読版とは内容が異なる場合があります。
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