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【小説】帳がおりる 第4話(都築群青編③)

「先生を殺したのは、僕なんです」


 その日の出来事は、一番鮮明に記憶している。何故ならば、その日のことを思いださなかったことは、一日たりともないからだ。
 高二の一学期が終わり、夏休みに入ると、バカみたいに暑い日が連日続いた。十七歳になりたての夏だった。
 その日、僕は偶然、ショッピングモールの最上階にある映画館の入口で、先生と出くわした。

「先生とデートなんて嬉しいな」

「たまたま会っただけをデートとは呼ばないんじゃないかなぁ」

「だって、観にきた映画まで同じなんて」

「先週封切りしたばかりの話題作だからね」

「先生って、ああ言えばこう言うね」

「その言葉そっくりそのままお返しします」

 正直言うと、僕はあの映画のストーリィを覚えていない。赤、青、緑……、スクリーンの色を投影して色づいた先生の横顔ばかりが脳に焼きついている。
 映画が終わって、フードコートへ二人で移った。

「映画、おもしろかったね」

「うん。最高だったよ 」と僕は無難に話を合わせていた。

 そのときだった。

「あれ? 八木さんじゃない? 久しぶりぃ」先生の肩にポンと手を置いたのは、僕の知らない男の人だった。前髪を真ん中でわけて、白いポロシャツ。先生と同じくらいの年格好の。「みんな、八木さんのこと、心配してたんだよ。色々大変だったみたいだから」男は口角を斜めに曲げた。気遣うふうの言葉とは裏腹に、目には好奇心に似た下品な光があった。

「……あ、うん」と歯切れ悪く応じて、先生は俯いた。きゅっと噛んだ下唇が震えていた。

「先生、もう行こう」僕はテーブルの下で腕を掴んだ。

 僕の声に反応したのは、男のほうだった。「……誰?」と僕を見下ろした。

「この子は、今の学校の……」

「あぁ、新しい学校の。へえぇ。八木さん、ちゃんと教師続けていたんだね。安心したよ」

 僕は無言で男を睨んだ。

 ふっと笑って、男は両手をパーにした。「ごめんごめん、おれ、邪魔だったかな。もう行くワ。そうだ。八木さん、連絡して。みんなで、また集まろうよ。ね?」と耳に手を当て、電話のジェスチャをとった。

 先生は、男が去ったあとも下を向いたままだった。膝の上で拳を握りしめて……。次第に、その呼吸が浅くなる。

「……先生?」僕は顔を覗きこんだ。

「私、ちょっと、お手洗いに……」先生は椅子を立ったが、三歩で、その場にしゃがみこむ。咄嗟に、口元に手を当てた。

 僕は慌てて駆け寄った。「先生、大丈夫?」

 注目が集まった。僕らを遠巻きにして、四方がざわつく。

「ごめんね、大丈夫、大丈夫だから」先生はうわ言のように、ごめん、を繰り返す。

「先生、僕の手を握って」

 指先が冷たかった。

「僕を見て。少しだけ歩ける? そこの椅子まで……。ゆっくりで良いから」

 先生は小さくあごを動かした。
 椅子まで導いて休ませる。僕は、そばに座っていることしかできなかった。こういうとき、大人だったら、どうする? もどかしくて、幼い自分を僕は呪った。

「……ありがとう」もう大丈夫、のその言葉のとおり、呼吸も整い、頬にも赤みが戻り始めた。

 ほっとした。よくわからない状態だったけれど、それを問い質す真似は違うと思った。だから僕は、ショッピングモールの景色が動いているのを静かに眺めた。

「私、教師失格なの」

 僕は先生に目を向けた。
 先生は、左手の薬指に触れていた。無意識の動作だったのかもしれない。先生は、ときどき、そうする癖があった。

「昔ね、私には結婚の約束をした人がいたの。同じ職場で、歳も同じで……。お互いの親にも挨拶をして、式も決まってた。でもね、初めてトバリがおりて、世界中で大勢の人が亡くなった日に、彼も……。私が知らない女の家で。彼は、浮気してた。二人で、ベランダにでて外を覗いたみたい。彼の浮気がいつからだったのか、私との結婚を決めるよりも前だったのか後だったのかもわからない。それを確かめる方法はもうなかったから……。みんなそれどころではなくなって、ようやく世の中が日常らしきものを取り戻すまでには、長い時間がかかった。私も職場に復帰した。だけど、うまくはいかなかった。彼と一緒に働いていた学校だったから。彼のことばかりを思いだして……。朝、学校に行くのがつらくなって。仕事にも集中できなくて。不安になったり、ときどき、パニックになることがあった。そのうちに、職員室で、彼の浮気の噂がたったの。噂の出所もわからないし、どうして今更……とも思ったよ。私は、職員室が怖かった。ちゃんと学校に行けなくなった。自分から休職を願い出て、休ませてもらったの。結局は、それでもダメで……。ほかの学校に移してもらうことになった。それで今年、こっちの学校に、」先生は顔を両手で覆う。「最悪でしょ? ね? 私、教師失格なんだ」

「そんなことない。だって、僕は、先生のことが好きだから。……て、もうバレバレだったよね」

「ヤ、」先生は否定しかけて、「あ、うん……」と素直に認めた。

「先生? 今ここで答えをきかせて。僕の生まれて初めての告白に、答えてください」

「きみは、私の、生徒だよ」

「だから何?」と僕は踏みこんだ。

「私みたいなおばさんじゃなくても、周りにかわいい女の子がいっぱいいるでしょう?」

「自分のこと、おばさんなんて言うなよな。先生、まだ三十二でしょ? うちの母親なんかよりも、ずっと若いし」

「それは複雑だなぁ。お母様には悪いけど」

「はっきり言ってください。じゃないと、僕、諦められないよ」

「……ごめんなさい。都築くんのことを、そういう対象には見れないよ」

 そっか、と僕は呟いた。「僕の家、最低なんです。父親が外に女を作ってて、かあさんもそのことを知っている。あいつはもうずっと家に帰ってこないし、かあさんも家にはほとんどいない。まるで、あいつに対抗するみたいに、かあさんも外で遊んでる。僕は毎日、家の鍵を自分で開けて、コンビニで買ったお弁当を、ひとりで食べてる。水槽みたいな冷たい家で……。先生の卵焼き、おいしかったよ。人がつくった卵焼きを食べたのは、久しぶりだった。多分、僕、もうすぐ転校します。うちは、もう本当に限界だから」

「…………。」

「ごめんなさい。やっぱ、転校しても、先生のこと、ずっと好きなままでいい?」

「……ダメ。私にはそんな資格はないから。私、今年で教師やめるつもりなの」

「逃げるんですか? やめて全部終わりにするつもり?」

「でももう、そうするしか」

「昔のことなんて、忘れてしまえば良い」

「簡単に、言うんだね」

「簡単ですよ。先生が、それをやろうとしてないだけだ」

「違う」

「違わない」僕は先生の手首を掴んだ。薬指の指輪を引っぱる。「こんなもの、捨ててよ」

 やめて、と先生は抵抗した。「痛い。離して。やめてってば」

「その人は先生のことを裏切ったんだ。先生のことを幸せにはしてくれない。先生を苦しめているだけだ。そんなふうにグジュグジュいつまでも引きずるのは、時間のムダだ。バカみたい!」

 先生は僕を平手でぶった。
 驚いて、僕は頬に手を当てた。

 先生は目に大粒の涙を溜めていた。「ごめん……。痛かったでしょ」

「痛くないです」と僕は答えた。

 日没が遅い夏だったとはいえ、終発まで、それほどにバスの本数が残っていない時間になっていた。エスカレーターを使い、僕たちはショッピングモールの外にでた。
 いつの間にか、激しい雨が降っていた。
 二人とも、傘は持っていなかった。
 もう、涙も止まってみえた。
 屋根つきのバス停に二人で入る。次のバスは、まもなく到着とデジタルの案内板がお知らせしていた。

「先生」と僕は口を開いた。「僕が代わりになれませんか? 僕が、先生を守ります。僕は先生を傷つけたりしないから。僕、卒業したら、先生を迎えに来ます」

 何も答えない先生を、バスが飲みこむ。炭酸が抜けるのに似た音がして、扉が閉まった。
 やがて、バスの背中が、雨のむこうにみえなくった。
 雨の矢が、立ち尽くす僕をいつまでも射っていた。


「あのときの返事をきくことは、ありませんでした。夏休みが明ける前に、先生は……。クラスメイトたちは葬式に参列したけど、僕は行きませんでした。先生に、さよならが言えなかった。言う資格はないと思った。少しして、僕は転校しました。僕が恨むべきは、トバリじゃない。僕自身だ。先生が亡くなったのは、僕のせいです。僕が、先生を追い詰めたから。先生は、あのとき泣いてた。僕が、僕の言葉が、先生を殺したんだ」

 ほつれていた糸が結び目がとれた瞬間にほどけるみたいに、一度開いた口が止まらなかった。僕は誰かにきいてほしかったんだと思う。後悔は薄れるどころか、日に日に影を濃くしていくばかりで……。僕の中で黒く渦巻いて……。ずっと誰にも話せずに、黙っているのは、つらかった。苦しかった。

「ねえ、遠藤さん。先生が死んでも、世界は何も変わっていなかったんです。そんなこと、まるで関係ないみたいな顔をして……。僕には、それが信じられなかった。先生はもういないのに……。先生の死はたくさんある中の、だだの何億分の一でしかなかったんですか?」

(続く)

(第4話・了)


※一部、YouTube朗読版とは内容が異なる場合があります。

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