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【短編小説】僕は天使になれやしない

※グロテスクな描写が苦手な方は、ご注意ください。気分を害される可能性があります。

 女が感じているのは、文字どおりの恐怖だった。映画やマンガを見て感じるバーチャルな恐怖とは違うリアルな恐怖。恐怖以外にない恐怖。
 女は身動きがとれないよう、縄で拘束されている。一糸纏わぬ姿で、うつ伏せにされて、両腕は背中側で縛られた状態だ。足首と太股も、全部を一本の長い縄でがんじがらめに縛られて……。その結びかたは、随分デタラメだ。こどもが遊んだあやとりみたいに、取り返しのつかないもつれかたになっている。
 毛羽立ちがない、なめした滑らかな縄だった。その感触が、人を縛るために仕上げた証のような気がして尚更に不気味に感じる。
 女は、フローリングの床からあごを上げ、窮屈に首を伸ばして、頭上を確かめる。
 全裸の男が、そこに立っている。その右手には、大振りなカッターナイフ。
 泣きそうだった。が、涙もでないほどに、女は震えていた。
 男は鼻歌を歌っている。誰もが、どこかで聴いたことがあるかもしれないメロディだ。多分、小学校の音楽の授業か何かで。
 男は女を蹴飛ばした。
 蹴られた女は、蛙のように、仰向けに裏返る。痛みに、女は顔を大きくしかめた。
 その傍らに、男が屈む。そして、女の脇腹の形を指でなぞった。

「身長164cm。体重54kg。腰回りは66。ヒップは72。足のサイズは24。間違いないか?」と低い声。

 突然なにを質問されたのか、理解ができない。しかし、仮に理解できていたとしても返事をすることは叶わない。何故ならば、口に布を噛まされて喋ることができないからだ。女は、ただ、猿轡の隙間から喘ぐような過呼吸だけを繰り返す。

「騒ぐなよ。騒いだら、殺す」

 忠告をして、男は女の口を自由にしてやった。外した猿轡から糸のような涎が引いた。キチキチキチ……とカッターナイフの刃先を静かに伸ばして、女の鼻先に突きつける。
 女は、ひっ、と短い悲鳴を上げただけだった。

 助けを求めるようならば、また口を塞いでやろうと思っていたが、幸いにも、それは杞憂に終わった。言いつけを守った女の頭を、「良いコだね」と男はなでてやる。

 近所の小学校で、下校を促す牧歌的な音楽が鳴っている。
 西日が差して、部屋のなかは橙色だ。
 男は、しげしげと女を見定める。先ほど口にしたデータに間違いはない。胸、腰、足、じかに触って確かめて確信した。女の体型は自分に似ている。まるで自分自身の身体のように、しっくりくる感触だ。

「回りくどいのは嫌いだ。手短に話そう。僕の目的を」と男は告げた。

 女は返事もしないし、相槌さえも打たない。震えてしまって、会話は無理そうだ。これでは猿轡をとってあげた意味がない。

 仕方なく、男は喋り続ける。「今から、きみの中身をとりだして、皮だけを綺麗に剥ぎとる」キウイフルーツの実をスプーンですくうみたいにね、と一言付け足した。「そして、剥ぎとったそれを僕が着る。僕は今日からきみになる」

 男は女の腹をまたいで中腰になる。そして、女の胸のちょうど中心に、カッターナイフの刃先を押し当てた。
 女は、湧き上がってくる恐怖を押し殺すかのように、ゴクンと大きく音を立てて唾を飲みこんだ。精一杯の抵抗なのか、涙が一杯に溜まった目で、男を睨む。

「……その目だ。きみは、いつも、その目で僕をみる。講義中も、バイト先でも。軽蔑してるんだろ、僕のコト。きみが陰で僕をなんて呼んでいるか、知ってるよ」

 女の長い髪を鷲掴みにした。力任せに引っ張り上げて、顔と顔を近づける。

「僕は、きみを愛してる……。僕は、きみのすべてを知りたい。きみになりたい。できるわけない、と思うかい? 僕はきみになれないと思う? どうして? できるさ。見てみろよ」と、男は自らの性器を握ってみせた。

 女の顔面が、緞帳をおとしたみたいに、さーっと色を失った。女は、その目を疑ったことだろう。触らなくとも、目で見てわかるほどに、男の性器の感触はクニャクニャだ。およそ、人間の肉体のそれとは思えない。

「きみは、僕を男だと思っていたね? 僕は女さ。もっとも、今のこの身体は男だが……。この“着ぐるみ”は、高校時代の先輩さ。好きだったんだ、彼のこと。頭が良くて、指が綺麗で」そう言って、男は自分の頬を指でなぞった。「とはいえ、元々“ない”ものはどうしようもできない。そう、性器だけはね。ここだけは中に綿を詰めた偽物さ」

 途端に、女は全身をバタバタ揺すって暴れだす。声を上げかけた。助けを呼ぼうとした。ここはアパートの三階だ。ベランダの窓は開いている。全力の大声ならば、下の道にいる誰かに届くはず。
 そうはさせるか――。女が声をだすよりも先に、掌で、男は女の口を塞いだ。
 女は抵抗した。必死にもがき、長い爪で男の顔を引っ掻いた。ぎゃっ、と男の悲鳴。その隙に、床を這うように女は逃げた。
 カッターナイフの刃が、その背中にぶすっと突き刺さる。
 刃は、女の肌を少しずつ、上から下へ下へとおりていく。切ったラインがよれないように丁寧に。丁寧に。まっすぐと……。
 腰骨近くまで切って、男は、指先を、切り口に突っこんだ。めりめりと両手を突っこんで、左右に開く。
 ああ……もうすぐだ。もうすぐ、僕はきみになれる。今日からは、きみとして生きるんだ――。



 しかし、おかしい。



 その異様さに、男は気づく。
 切り口から血が噴きでない。いや、それどころか、一滴の血も零れていない。
 左右に開いた隙間から、なにかがみえる。
 中で、なにかが動いている。
 これは。
 なんだ。
 男は目を疑った。
 透明な、粘液に覆われた……。
 これは。
 ぬるり、と“それ”は垂直に立った。
 男の目の前で。
 扇状に大きく開く。

「……羽根?」

 バサリ、と音をたてた。
 男はのけぞった。カッターナイフが手から落ちた。
 ずるり、と剥ける。女のなかからでてくる。
 皮を脱ぎ捨て生まれでて。
 羽根を広げて。
 床から浮いて。
 窓に向かう。

「待って!」男は叫んだ。

 女は振り返らなかった。飛んで、アパートの三階の窓からでていった。
 男はベランダからそれをみていた。夕日に染まった町並みの遠くのほうに、その姿がみえなくなるまで。
 もう羽根の音もきこえない。

「好きだったのに……。僕を軽蔑するその冷たい視線が、堪らなく……。愛していたのに……こんなにも……」

 膝をつき、男は誰もいなくなった部屋のベランダで、夕陽が落ちて、夜が来て、朝が来て尚、ただ泣いた。

(了)


(YouTube未公開作品)

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