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【小説】帳がおりる 第1話(さめちゃん編)

「まだ起きてた?」

「寝てた」と、パソコン画面のむこうのすばるが答える。

「起こしちゃったか。ゴメン」

「いや、ちょうど良かった。そろそろ起きようと思っていたから」

 今は、二十時。夜ごはんは済ませたけど、メイクは落としていないので寝るわけにはいかない、そんな時間だ。一日の終わりが近い私とは対極に、すばるの一日は、これから始まろうとしているようだ。夜行性の彼にとっての二十時は、まだラジオ体操が流れているくらいの時間らしい。

「また、これから朝まで仕事?」と私はきいた。

「ん。その予定」と彼は頷く。

「昼はなにしてたの?」

「本を読んだり?」

「自営業は時間が自由で良いね」と私は言った。

「こんな時代でも夜に働けることくらいが、数少ないメリットですからね」

「羨まし。実は、こっちは訳あって、今日はもう眠くて眠くて……。けど、こんな時間に寝たら、夜中に起きてリズムおかしくなっちゃうし。だからさ、悪いけど、ちょっとつきあって」

「もちろんいいけど、どうしたの? 何があった?」

「それがさー。きいて。昨日の夜、友達から電話があって、大学のときからの付き合いの。そのコね、一昨年結婚したんだけど。ひっさしぶりの電話で何かと思えば、なんだと思う?」

「わからない。ヒントが少ないよ」と彼は素っ気ない。

「旦那さんの愚痴」と答えて、私は顔をしかめた。

「ああね。そんなところだろうと思ったよ。友達が久しぶりに電話をかけてくるなんて、旦那の愚痴か、高い健康食品を売りつけられるかのどっちかだって昔から相場が決まっているんだ」

「そうなの?」

「そうだよ。まあ、僕は友達がいないから知らんケド」と、彼は肩をすくめるジェスチャをとった。

「続ききいて。ここからは、その友達の話――。旦那さんがお風呂に入っている間に、携帯が鳴ったんだって。で、なんとなく画面をみたら、知らない女の人の名前で……。どう思う、怪しくない? でさ、彼女、出てみたら、相手無言なの。無言のまま、しばらくしたら、そのままブツッて切れて。アウトでしょ、黒でしょ、これ? そのあと、旦那さんを問い詰めたら、すっごく動揺してて、間違い電話じゃないかなー、って答えたらしいの。ありえなくない? ありえないよね、そう思わない? なんで間違い電話の相手の名前がアドレス帳に登録してあるわけ? ねえ? ねえねえ、きいてる?」

「きいてるよ。まあ、一つ言えることは、人の携帯に勝手に出るべきではないとは思うね」

「それ! 彼女も同じことを言われたの。勝手におれの携帯を見るなって。彼女、それでめちゃくちゃキレちゃって。で、大ゲンカ。っていうか、そっちの肩を持つんだね。まさか、浮気してるんじゃないの、アナタも」

「僕が? まさか。ろくに外に出てもいないのに?」

「ああねー」と私は頷いた。 「でもさ、最近の浮気はネットで始まるらしいよ。時代だよね。いきなり会うよりもハードル低いしね。まあでも、そっか、すばるに限っては心配ないか。きみ、友達も少ないしね」

「余計なお世話。自分で言うのはいいけど、人に言われるのは傷つくよ。で、結局どうなったの、その友達は?」

「結局、バシバシ問い詰めまくったら、最終的には浮気を認めたの。ほんの出来心でした、って土下座。とりあえず、一週間は口きかないってさ」

「地獄だね」

「ちょっと前にも彼女のプリンを勝手に旦那さんが食べたとか、もう昨日は愚痴がすごくて……。その愚痴を夜通し聞かされた私の気持ちがわかります? 結婚したばかりの頃は、あんなに幸せそうだったのに……」

「結婚は人生の墓場だよ」

「そうなの?」

「さあ。誰かの受け売り。だって、僕、結婚したことないもの。けど、なるほどね。今日はそれで寝不足っていう……」

「そうそう、そうなの。今日の私は、寝不足な私なの。あぁ……ごめん、話長くなっちゃった。仕事前に邪魔してごめんね。もう切る?」

「別に。僕はどっちでも。焦らなくても夜は長いし」

「んー。じゃあ、もうちょっとだけ」

「うん、いいよ。さめちゃんがそうしたいなら」

 ん、と頷き、「ちょっと待ってて」と私は席を立つ。「その前に、コーヒー淹れてくる」

「じゃあ僕も」

 彼のキッチンの音がする。お互い、狭いワンルームだ。パソコンの前を離れても、スピーカーは充分に音を拾った。お湯が沸くまでの間、私はマグカップにスティックコーヒーの粉を開いた。
 お湯が沸いた。スプーンで混ぜて、マグカップの湯気をふぅふぅしながら机に戻る。ほとんど同じタイミングで、むこうもマグカップ片手に帰ってきた。

「さめちゃん、こんな時間にコーヒー飲んで大丈夫? 逆に今度は眠れなくなって困らない?」

「大丈夫。私、カフェインは効かない人だから」

「そ」と、彼はカップを口に運んだ。

「あのさ」

「ん?」

「私、すばるに話したいことがある」

「なに?」

「私、今の仕事やめようかと思ってる」

「それはまた、どうして?」

「ちゃんと夢に向かって、がんばりたいの」

「書けていないの、小説?」

「うん。やっぱり仕事しながらだと、私には、両立は難しくて……。考えたの……。時間をとって、ちゃんと思いどおりの小説を書き上げたい。このままだと後悔すると思うから。このまま中途半端にはしたくない」

「さめちゃんの好きにすれば?」事もなげに、あっさりと彼は言う。

「それだけ?」私はきいた。

「え?」

「ずいぶん簡単に言うんだね」

「さめちゃん……?」彼は戸惑った顔をした。

 今の私の声には棘があったことを自覚する。だけど、発した言葉は戻らない。「…………」私は黙った。

「さめちゃん? 怒ってる? ごめんて。怒ってるなら謝るよ」

「何に? 何に謝るの? そういうとこだよ……」私は手元のマグカップに視線を落とした。一度不満を口にしたら止まらなかった。堰を切ったように言葉が出てきた。「きみは、いつもそう……。ねえ、このマグカップを買ったときのことを覚えてる? 初めてのデートの日に、二人でお揃いで買ったよね。私のこのピンクのと、すばるのその青いのと。どれにしようか悩んでいた私に、すばるはそのときもそう言った。さめちゃんの好きなやつにすれば、って他人事みたいに」

「僕はただ……、」

「ただ、なに?」

「さめちゃんは、そんなにがんばらなくても良いよ」

「…………なにそれ、ひどくない?」

「えっ」

「ごめん。私、もう寝るね」と私はマウスに手を置いた。

「待って。切らないで」

 シャットダウンをクリックしかけた手を止める。画面から目を離し、私は無言で席を離れた。リモコンを止めた。少し暑くなってしまった。
 彼が私を呼んでいた。二度三度、返事を保留していると、そのうちに、おとなしくなった。
 お互いが喋るのをやめて、音が消えた。
 昼とは違って、外を車が走る通り雨のような音もしていない。
 外を出歩く人は当然いない。
 闇色の夜の重圧が、静かにのしかかる。
 夜が、こんなふうに変わってしまって今年で十年。
 夜、外にでた人間は死ぬ。例外はない。身を守る手段は、夜は外にでない、それしかない。
 ――トバリ、みんな、そう呼んでいる。
 私たちにできることは、夜に怯えて家に閉じこもることだけだ。ドアを閉め、窓を閉め、祈るように朝を待つだけ。

「さめちゃん」と、すばるが離れた場所から私を呼んだ。「結婚しよう」

「はぁ?」

「僕と、結婚してください」

「どうしたの、急に? 頭でも打った?」

「前から考えていたことだよ。本当は来月言おうと思ってたんだけど」

「来月?」私はパソコンの前に戻った。

「来月は、さめちゃんの誕生日でしょ」

「ねー……。本気で言ってる?」

「うん。さめちゃんとなら、一緒に墓場も悪くない。ちょっと待ってて」そう言って、画面の外に一旦消える。戻ってきた彼は、手に、小さな箱を持っていた。「ほら」

 箱を開けた。指輪だ。雪の結晶に似た石がついている。そんなもの、いつの間に用意したのだろう。

「仕事も、さめちゃんの好きにすれば良いよ。それで困ることなんて僕には一個もない。全部、さめちゃんの好きにして。……って、ダメ、かなぁ」彼は困ったように微笑んだ。

 呆れた。私は深い溜息をついた。なんという唐突さ。まったく、もう……。よくわからない人だなぁ、と私は頭を抱えた。本当、変な人……。

「私、きみのプリンを勝手に食べちゃうかもよ?」

「冷蔵庫に入れる前に、名前を書いてて」

「私、浮気だってしちゃうかも」

「そういうときには、こう言うんだよ。ほんの出来心でした――って」

「私、わがままだよ?」

「知ってるよ」

「気だって強いし」

「知ってる」

「…………。」私は黙った。

 じっと、彼がこっちをみている。瞬きもせずに、私の返事を待っている。
 あぁ、外にでられないことがもどかしい。こんな時代じゃなかったら、今すぐ家を飛びだして、一発殴ってやりたいところだ。
 徐々に笑いがこみ上げた。クスクス笑って、そして、私はこう言った。

「もぉ、きみの好きにすれば?」

(第1話・了)


※一部、YouTube朗読版とは内容が異なる場合があります。

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