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0125「妻」



 楓にはふたりの親友がいる。真緒と亜里アリ。社会人になってから知り合った三人だったし、銘々が時期によってはより親友と呼べそうな友人もいたが、親友が「いる」と現在完了の継続的な意味合いで断言できそうなのは、楓にとっての真緒と亜里であり、真緒にとっての楓と亜里であり、亜里にとっての真緒と楓だった。すくなくとも楓は、そう信じている。
 社会人2年目の冬に楓は亜里と知り合った。亜里は楓の夫が学生時代に所属していた劇団の元団員で、いまは別の劇団に移って細々と役者を続けている。楓の夫がまだ夫ではなく、恋人でもなく、親友だったころ、飲みの場で紹介され、仲良くなった。亜里は楓より3つほど年上だったが、ときどき少女のような純粋な頓狂さを発揮し、それはときに楓の周囲の大人が普段口にしないような素朴すぎる差別感情や偏見の露呈にも繋がっていたのだが、そのむき出しあやうさが亜里の人懐こさの源流でもあり、また魅力でもあった。楓は亜里のそんな人間性にはじめは面食らったが、何度か会って話をしていくうちに、亜里の暴力的な明るさに飲み込まれていくように、亜里と会っているときの楓は明るく奔放になっていった。深夜枠のテレビドラマや、ゴールデンタイムのバラエティ番組で流れる再現VTRでときおり溌剌と画面上を動き回り、ときおり見たことのないような神妙な表情でシリアスな場を演じる亜里を見かけると、楓はそのテレビ画面にスマホをかざし、夫のLINEに動画を送るのだった。
 楓が亜里と知り合って間もないころ、亜里の所属する劇団の舞台公演を観に行ったとき、楓の隣でたまたま観劇していたのが真緒だった。古典オペラに日本のお笑い要素を混ぜて現代風刺に落とし込んだ劇団オリジナルの戯曲で、亜里は一人三役の大活躍。カーテンコールでも明るい笑いをさりげなく演出した亜里は楓の脳裏で輝き続け、客席の照明がつき、アンケート用紙を記入する手にじっとりと興奮の汗がにじんだ。裏面までびっしり書きなぐったアンケート用紙から楓が顔を上げたとき、隣の席でさっきまでの楓と同じくらい背を丸めて用紙に感想を記入し続けていたのが真緒で、真緒は楓から一拍遅れてガバりと顔を上げ、もう誰も演じていない舞台上を見てからゆっくりと楓のほうを見た。最高でしたよね?楓は目を閉じてうなずいた。そうして楓と真緒はふたりで劇場の外に出て、すぐそばの鳥貴族で互いに自己紹介をしながら亜里が合流するのを待った。
 夫が青山のほうでヘンなたばこ屋をやっているんです。ハートの塩を齧りながら真緒は言った。コーヒースタンドみたいな、カフェバーみたいな、たばこ屋みたいな。名前もなんか、わ〜青山〜って感じで覚えづらくて。山芋の鉄板焼きを食べながら、楓は真緒の「わ〜」の言い方がとてもすきだなと思っていた。体温が低そうで、いつもうっすらと疲れていそうで、自立していて、こだわりがあって、やさしい。そこまでのことを楓が瞬間で悟ったかどうか。しかし楓はその些細な一瞬で、わたしはこの人と仲良くなる、という恋に近い脳の焦げつきを感じたのだった。ふたりでそれぞれの仕事や夫やまだ夫ではない親友のこと、生活のこと、10代のころのことを話しているうちに着替えや洗顔を済ませた亜里が合流して、亜里の到着と同時にとり釜飯がやってきた。わけもなく笑いが止まらなくなる三人。亜里の登場に特段恐縮することなく穏やかに振る舞う真緒を見て、やっぱりいいな真緒さん、と楓は思った。
 亜里は深夜ラジオに出た。楓はそれをソファに寝転んでまどろみながら聴き、真緒は後日ラジオアプリのアーカイブで聴いた。お笑いコンビのボケ担当、虎という芸名の男は亜里の高校の同級生らしく、お互いにしか通じない昔のささやかなエピソードをラジオブース内の全員でお笑いに昇華していた。このふたりは親友だったのだろうか。楓は寝返りを打ちつつ虎と亜里のツッコミ合う声を聴いて思う。真緒はそのころ「Municipality Humidor」のカウンターでハートランドを飲んでいて、店はとっくに閉まっていたが、その日の遅番であるエマと研修中の西崎、真緒の夫であり店主の滝友介は店にいて、それぞれカウンターに座ったりコールドテーブルの前に立ったりして、すきにお酒を飲み、この時間帯にアルコールをほどよく接種した人間特有の身振り手振りを交えて、人生に対しての諦念と悔恨と激しい情緒以外のだいたいすべて話していた。真緒がラジオのことを思い出したころにはエンディングトークの時間になっていて、亜里はブースの外に出て伸びをしていて、虎とその相方は最後の感想メールを駆け足で読んでいて、楓はソファで寝息を立てていて、楓の夫は真昼間のコスタリカで昼食のポークステーキにフォークを突き刺し、楓や亜里は元気にしているかな、と考えている。

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