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0104「井の頭」



 10代のころ、井の頭公園を「いのずこうえん」と読んでいた。「いのかしらこうえん」と読むのだと知ってからも、頭の中では井の頭公園はイノズ公園だった。井の頭公園にそこまで思い入れはないけれど、イノズ公園には特別な気持ちがある。そういうものってたくさんある。
「やっぱカレー飲むと牛乳食べたくなるんだよあひゃあひゃひゃ」
 金曜夜の下北沢は様子のおかしい人が多くて、あまりこの時間帯にはここらへんに来ないわたしにとってはそれが新鮮でもあり、怖くもあり。学生のころ、アルバイト先で知り合った人が代々木八幡のあたりに越してきて、久しぶりに会って、ごはんを食べた。お店は向こうが見繕ってくれて、代々木八幡の小さなヴィーガンレストランでわたしたちはパワーサラダやレンズ豆のコロッケを摘み、クラフトビールやナチュラルワインを飲んだ。
「なんか、いったいなにがどうなっているのかよくわかんないけど美味しいね、これ」
 サラダの上にかかっている、細かく砕かれたクラッカーのような鮮やかな赤紫色の欠片をフォークで掬って竹光さんはちいさく首を傾げた。肩にかかるかかからないかの黒髪が店の明かりを反射して艶っぽく光っていて、フォークを持つ右手の人差し指には大ぶりの真鍮でできた指輪がはめられていて、久しぶりに会ったけどやっぱりきれいな人だな、とわたしは思う。土色のサマードレスが地味すぎず派手すぎず、よく似合っていた。
「このパテも。美味しいな」
 なにやら説明を受けたけど忘れてしまった、マッシュルームとなにかのパテを摘みながらわたしは言った。わたしも今日は久しぶりにワンピースを着ていて、白黒ボールドストライプの厚手のコットンワンピースの質感を肌で感じたり視界の端に映ったりするたび、ほくほくとした気持ちになった。
 東京で一人暮らしをはじめて、まだ3年と数ヶ月。といっても、母方の祖父母の家が東京の飯田橋と市ヶ谷の中間あたりにあって、盆暮正月やそれ以外のなんてことのない休日にも母にときおり連れて来られていた土地だったから、出戻りのような感覚に近い。
「お互い、恋人同士だったときはね、滝くんがうちに来るときとか、逆にわたしが滝くんのうちに泊まりに行くときとか、なんか、わざわざ感があったんだよね」
「ふん、ふん」
 ワイングラスを傾けながら、わたしは竹光さんの話を聞いていた。
「来てくれる。会いに来てくれた。会いに行く。行きたい。でも、結婚して、一緒に暮らすようになって、それはそれで喜びだってちゃんとあるんだけど。でも、もう、わたしが」
 ワインの味についてぺらぺらと語れるようなうんちくはわたしにはないけれど、嫌味ったらしくない渋みと鼻の通りが良くなるような微かな甘さが奥にあって、ほどよくゴージャスで美味しい。竹光さんみたいなワインだな、とわたしは瞬間思ったが、竹光さんの話を遮るほどの強い感情として意識に乗っかってくるわけでもなく、言葉にされる前に想念は別の記憶や感情に洗い流されていく。
「わたしが滝くんに会いに行くことはもうなくて、会いに来ることももうないんだよね。すくなくとも、家っていう空間においては。毎日のように滝くんは帰ってくるけれど、わたしのもとに来るけれど、でもそれって、ただ、そこが自分の暮らす場所だから、っていうことでしかないんだよね。ん、このフムス美味しいね」
 しゃべりながら、聞きながら、わたしたちは自然、似たような所作でピタパンを手に取りフムスをつけ口に運んでいた。寂しそうに微笑んでいる竹光さんが可愛らしくて手を繋ぎたい。湯ですすがれたガーゼのようなピタパンのほの甘い風味。店内に流れる心の置き所のないボサノヴァ。強いウーハーで割れてしまいそうな幽けきワイングラス。友達みたいに心強い白磁の丸皿。感情を含んだ五感がドレッシングみたいに混ざり合いながら相反して、さざなみのようにそよそよとわたしのなかに入ってくる。それらすべてがいまわたしの目に映る竹光さんを竹光さんたらしめていた。
「美味しい。うん。ね。美味しいです」
「へへへ」
「へへへへ……」なにが恥ずかしいのか、わたしたちはちいさく笑い合う。
「……それが、わたしはたまに、すごくさみしい」


「なあーんで!なんでよ!行くよ!おまぜってえ明日行くからな」
「あそこの皮タレすげえうまくてさ」
「おれあいつのTwitterミュートしてるから」
「でもいつも正しいんですよ」
「まあ及川さんがそう言うんならっていうんで立ち上げたプロジェクトではあって」
「やーめーろ!やめろばか。もうばっ!ああもうっ、ん〜ばか!」
「ははっ!ははははははははははは!」
 ふらふらと下北沢の駅を降りて、人っていうより声、声っていうより音をいくつも追い越して、世田谷代田の方向へ歩く。結局、わたしと竹光さんはボトルワインを2本飲み干して、お互い平気な顔をして代々木八幡の踏切前で別れた。わたしも竹光さんもよく飲む。それでこうして連絡を取り合うようになった仲だった。
「奈美ちゃんは、それで、経堂だっけ」
「はい。だから、ここで」
 竹光さんはわたしを奈美ちゃんと呼ぶ。最初のころはサガミさん、と呼んでいて、バイト先で何度か会ううちにいつしか奈美ちゃんになった。奈美ちゃん。ナミちゃん。◯◯ちゃん。あたりまえのように呼ばれ、そして受け入れている名前。嵯峨見奈美さがみなみ。あるとき変わった、変えることにして事実変わった名前をもう不思議とすら思わないし、不思議とすら思わないことが却って不思議でもあって、いまのわたしはもっとアルコールを欲している。けれどどこかお店に入るような広やかな気分にはなれなくて、逡巡しつつデイリーヤマザキで缶ビールを買って、斜向かいの月極駐車場の奥まで進んで、隠れるようにブロック塀にもたれてプルタブを開ける。竹光さんは竹光さんだな。苗字が滝に変わっても、竹光さんは竹光さんのまま。わたし以外の友人知人大半には真緒さん、真緒ちゃん、真緒と呼ばれているらしい竹光さんは、でもわたしにとってはやっぱり竹光さんで、中途半端な敬語も抜けないのだけど、そういう好意、そういう線引き、そういう信頼がちゃんとあるってこと、竹光さんはちゃんとわかっているってわかる。って勝手に信じている。こうして数年ぶりに会って別れてもう二度と会わないかもしれないし一週間後にまたどこかで待ち合わせるかもしれないし、そのどちらでも構わない、でも会えば瞬間瞬間が大切。そういう。
 ビールをあおり、中途半端に存在することしかできない星を見て、手癖でスマホを取り出すと、糸井くんからのLINEが数件来ている。
−−もう一踏ん張りと思って、1本満足バー食べながらゆるキャン観てたら
−−もう踏ん張れなくなった
 糸井くんはまだ事務所にいるのだろう。
−−もう今日は帰りな
−−そうする……。お泊まりしてもいい?
−−お、いいよー
−−〈スタンプ〉
−−いま家?
−−ううん。下北。と世田谷代田の間くらい。ビール飲んでる
−−あ、今日京都の友達と飲む日か
−−そう、だったけど、もう解散して、ひとりで飲んでる
−−そうなんだ
−−でももう帰るよ。いつでもおいで
−−〈スタンプ〉
−−〈スタンプ〉
−−ありがとー。すき
−−ンギイイ
−−鳴かないで
−−〈スタンプ〉
 デイリーヤマザキのそばに車の停まる気配がして、誰かが車から降りる音がして、数泊置いてタクシーが視界に現れて道路の感触を味わっているような速度で通り過ぎていく。糸井くんは糸井くんだな。でも、竹光さんは竹光さんだな、と思うのとはまた違う心許なさがある。付き合いはじめてまだ日が浅いからでもあるだろうし、糸井くんの糸井くんらしさが性愛をまとってわたしに降りかかってくることの、快楽を伴った居心地の悪さがそう思わせるのかもしれなかった。糸井くんとわたしでは、わたしに対する性別の強度や確度のようなものが違うとしばしば思う。いまの状態で出会った糸井くんはわたしのことをものすごい強度や確度で女性だと思っている。思っている、というか、自明すぎて考えすらしない。わたし自身はそんな強度や確度では自分のことを女性とは思えない。その強度が欲しい、と思うことがある。
「その強度が欲しい、って思うことがあります」
 その強度が欲しい、羨ましい、と思うことがあるし、その強度の差がせつなさやさみしさ、かなしさを生んだりもする。もちろん救われたりもする。パテの残りをワインで流し込みながら、竹光さんにそう言ったとき、
「手、こっちに伸ばして」
 言われるがままグラスを置いて、手の甲を上にして伸ばしたわたしの左手を、竹光さんは上からそっと掴んだ。
「いまわたしには、奈美ちゃんに言いたいこと、言っちゃいたいことが、もわ〜って、あれこれ浮かんだんだけどね、なんかどれも、言っちゃいけないことでもある気がして。でも、言いながら思ったけど、言葉って全部そうなのかもね。必要な言葉は不必要な言葉でもあるし、不必要な言葉は必要な言葉でもあって、幸せだから寂しいし、辛いから楽しいし、痛いけど痛くなくて、痛くないけど痛いのかもね。あれ、なんだったっけ。ごめんね、怖いよね急に」
 竹光さんは手を離して、図ったようなタイミングで店員がそれぞれのグラスにワインを注ぎ足しにやって来た。
「竹光さん、わたしも、竹光さんの手、握っていいですか」
「えー、もちろん」
「わたしも。竹光さん。わたしもわからない。滝くんと竹光さんの間にある絶望とか、救いとか、全部くっきりとはわからないです。だから聞くことしかできない」
「聞いてくれるだけでわたしはうれしいよ」
「わたしも、わたしの話を聞いてくれてうれしい。わたしも、竹光さんに言いたいこと、言うべきって思ったこと、いっぱいあるんですけど。でも」
「うん」
「へへへ……。やっぱり言葉って、なんにもなんないですね。いまこの状況以上のもの、言葉では伝えられないです、わたしは」
「奈美ちゃん」
「なんですか」
「きっといつか、これは言葉になるよ」
 ビールを飲み干して、かるく握り潰してからトートバッグの底に捩じ込むようにしまう。来た道を引き返して、経堂に帰るため、糸井くんを迎え入れるため、駅に向かっていく。うるせえなクソ。お前になにがわかる。だれにどんな言葉を投げかけられてもそう思ってしまうことだって事実。人っていうより声、声っていうより音。この街の脇役にすらなっていない星。もう不思議とすら思わないし、不思議とすら思わないことが却って不思議でもある。ワンピースが足を動かすたび視界の端でちらちら揺れる。肌が布と触れ合ってゆるく擦れる。きっといつかこれらは言葉になる。茶沢通りの短い急坂を上りきったところで、京王イノズ線の最終電車が踏切を通過していくのが見えた。

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