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0127「信仰心」



「それで糸井くんは、なんて言ったわけ?」
「べつに。んーべつに、なんにも」
「はあ?」
「いやいや。とりあえず出よう」
 俺はアメスピを灰皿にしつこく押し当ててから捨て、菜蕗ふきより先に喫煙所の扉を開ける。ここで言えるかっちゅうの。
 喫煙所を出てすぐ右手にあるミニマムなセブンイレブンの棚をぼんやり眺めていると、すぐに菜蕗が出てきた。駅構内、新幹線の発着する小綺麗なプラットホームから降りてすぐの喫煙所には、昨晩の気だるさを持ち越したようなスーツ姿の男性がみな一様に首を傾け、それでも意識はちらちらと俺たちの会話に注いでいる気配があって、そんなところでこんな話はしたくない。
「あ。んだよー、外にも喫煙所あんのかよ。こっちで吸えばよかった」
「とりあえずなんか食べない? 糸井くんも朝食べないまま出たでしょ」
「まあ……、いや、先レンタカーかな。行きしなコンビニ寄ろうや」
 早朝の北陸の空は濃淡や境目のない雲一色で、距離感が狂うその遠景は、屋根から壁面にまで張り巡らされた格子状のアムミニウム合金、張弦材ハイブリッド立体トラス構造によって聳え、世界一美しい駅舎とも称される国内最大のアルミ建築の輪郭をくっきりと際立たせていた。
「はあ〜荷が重い。荷が重いんだよな」
 北陸の地を訪れるのは今回が初めてのことだった。俺は友達の菜蕗を半ば強引に誘って、仕事のリサーチとしてここに日帰りでやってきた。
「この地に。ここらへんの土地に、どれだけの建築家が関わっていると思う? メタボリズムぶりぶり、カプセルタワービルの黒川紀章から? プリツカー賞やら金獅子賞やらわんさと獲得しているSANAAから?」
「すごいね。なんでこんなにアスファルトが赤茶けてんのかな。雪と関係あんのかな」
「モダニズム建築にもの派的解釈を添えて敵なしの谷口吉生から? 屋内と屋外、光と影の攻めとバランスを品良くこなせる公共建築の優等生、シーラカンスK&Hから?」
「ねえあんまこっち見ないでよ。聞いてるから。前向け前」
「良くも悪くもみなさまご存知隈研吾。みんなのあこがれ村野藤吾。内井昭蔵なんかもいる。内井昭蔵は俺は諏訪のサンリツ服部美術館が個人的には好きだね。地味だけど。まあそれはともかく。はああ〜なんで、なんでかねえ。俺は、なんで……」
 岐阜に総本山を構える新興宗教(世教、と俗に言われているらしい)の、とある信者が、数年前に一定数の信者を囲い込んで分派した。分派というか、分裂というか。詳しくは知らないが教義のようなもの、信仰の対象なども元の新興宗教とはまるきり別物らしく、だから元の新興宗教は分派自体を認めておらず、ただ一定数の信者が宗教から脱退したということになっている。なっているというかほとんど話題にすらしていない。らしい。すべて最近、必要になって調べた結果知った間に合わせの知識だ。俺は大型建築の設計・施工を主に担う会社に勤めていて、その会社に、分派した新・新興宗教(って言い方は果たして合っているのか?)団体から総本山建設の依頼が来た。宗教施設、特に新興宗教の施設というものは往々にして予算も潤沢で工期も緩く、土地も広くてクライアントから提示される諸条件や注文も大概易しいもんだから、そういった依頼は駆け出しの新人が請け負うことが多い。つまり俺は駆け出しの新人というやつで、その建設予定地周辺をざっと見に行こうとしているってわけ。それにしてもほんと、俺の初めての大仕事が、新興宗教の本山施設とはね。
「はい、次の信号右折でぇす」
「聞いてねえだろ、がっ。あいよぉ」
「しばらく道なりでぇす」
「あっコンビニ」
「あ! うわ〜……」
「まあそんなに時間かからんし。近く着いたらコンビニ探そう」
 菜蕗が助手席の窓を開ける。
「風つよ!」
「あんま開けんな開けんな。もうちょい閉めて」
「日本海だぁ」
「閉めるぞ」
「で、糸井くんはなんて言ったのさ」
「あぁ?」菜蕗が一瞬なにを言っているのかわからなかった。「ああ、その話ね」
「どうなのよ実際。彼女さんとのセックスも、べつに不満とかないわけでしょう、糸井くんは」
「ああ、まあ、そうねえ」
「え、不満だったりする?」
「いやあ」俺はウィンカーを出して車線を移る。さっきまで俺たちの車が走っていた道が枝分かれしてカーブを描き、徐々に視界から消えていく。「不満?ないよ。ないから」
 もし糸井くんが、たとえば子供を作りたくなったり、あるいはもっとふつうに、ふつうの人と、ふつうのセックスがしたくなったら、いつだってわたしと別れてもいいし、浮気だってしてもいいからね。先週、浅草へふたりでどじょうを食べに行ったとき、俺は奈美ちゃんからそう言われたのだった。鯉のあらいをつまみながら。唐突に。
「ないから……、でも、ないからこそ、特に気の利いたことはなんにも言えなかったな」
「で、彼女さんと来るはずだったのを、急遽わたしに連絡したという」菜蕗はさっきからずっと海を見ている。
「うーん。うーん……。いや、だってさ、……うーん」思考が格子を編んで言葉がひっかかる。俺は車のスピードをすこしだけ落とした。
「まあ気持ちはわからなくもないけど、言葉にしてよかったことかどうかはまた別問題ではあるよね」
「なにが?」
「いや彼女さんのね。わたしは……、女だからさ。っていうか、わかるっていうか、たぶんちょっとねじれの位置からの理解っていうか」
 俺は前方の輸送トラックを追い抜くために車線を切り替え、再度スピードを上げ、菜蕗の言葉の続きを待ってみる。
「いくつかの言葉を、糸井くんにも伝わるって前提で使うけど、知らなかったら都度話止めていいから。わたしはさ、ご存知の通り、シスジェンダーでレズビアンでしょう」
「シスジェンダーってのはどういうこと?」
「ああ……、えーと、糸井くんの彼女さんはトランスジェンダーでしょ?」
「ああ」
「それの対義語、って言ったらいいのかな。トランスジェンダーはさ、ほんとばかみたいな説明だけど、言葉通り、トランスするわけじゃん。トランスフォーム。シスジェンダーは、……わたしもシスって言葉の意味はわかってないまま使ってるんだけど、つまりトランスする必要性がない人ってこと。要はこの場の我々。トランス以外のほとんどの人ってこと」
 古畑任三郎のように人差し指をピンと立てて菜蕗は言う。
「はいはい。なーるほどね」俺は握っているハンドルを親指以外の指でタラララッタラララッと叩く。
「だから、なんて言ったらいいのかな。つまり〜。うーん」
「おいおいおいあのばあちゃんスピード出しすぎだろ」
「わたしは、いま付き合ってる人が、もともと女性と付き合ったことなくて」
「ヘテロ」
「あ、それは知ってんのね。そうヘテロ。かなりヘテロ寄りの……バイかな。いや、わたしが勝手に言っちゃいけない気がするから置いといて。そう、そんな感じだったから、こう、かなり後ろめたさがあったというか。喜びもたくさんあったけど。でもなんか、ごめんみたいな気持ちも、ちょっとはあった」
 立てていた人差し指が菜蕗の顔の前でだんだんと張りを失い、鉤形になっていった。
「ほう。それはどういう?」
「もちろん本人には言ったことないし、こんな言葉ふだん使わないけど、いままでできてた普通のセックスができなくなっちゃってごめんねって。わたしが謝ることではないってわかってるよ。後ろめたくなる必要もない。わかっているけど、でも気持ちは裏腹だったりしてさ。なんかほんとふとしたときに、ああ、わたしがこの人を生きづらくさせてしまった。マジョリティの世界で幸せに生きていけたはずだったのが、マイノリティの世界に、わたしが引きずりこんでしまった。って」
「ふむ〜……。うーん」
「だからそういう側面では、わたしは彼女さんの気持ちがすこしわか、……る。うん。すくなくとも、ややクリアに想像することはできる。彼女さんが糸井くんに感じる後ろめたさみたいなものがね。でも同時に、わたしはトランスジェンダーではないし、ヘテロでもない。同じ女性とはいえ、おんなじではない。なんて言ったらいいのかな……違う、違うんだよ、排除したいとかじゃなくて、むしろ尊重したいんだけど。わたしは、わたしの女性性を道具にして、同じ女性ってだけで、彼女さんのトランスとしての女性性を、あまり語るべきじゃないって、思っている……」
 菜蕗の人差し指は完全に手のひらにしまわれ、握り拳に変わっていた。
「俺はさあ」長いトンネルに入ったあたりで、外の音にかき消されないよう、すこし大きな声で俺は言った。「なるほどねえっていま聞きながら思ったけどさ。でも俺は俺で、やっぱりムカついたんだよな」
「勝手にオレの気持ちを決めつけて、勝手に不貞を推奨してくんなって?」
「そうとも言えるし、いや、もっとしょうもないことでもあるし、俺はこれは真理でもあると思ってるんだけど」
「なに」
「お前と会っているときの俺の勃起を信じろよ、っていう」
 菜蕗は黙っている。
「俺バカだからよくわかんねえけどよぉ! っていう有名なセリフがあるだろ。ほんと、そんな感じで、俺バカだからよくわかんないんだけどさ。とにかく、お前と手を繋いだり会話したり電車や車で隣に座ったり、髪やおっぱいのかおりを感じたりしているときの、この俺の股間の勃起を、お前は信じてくれんのかと。なんなら浅草でさ、どぜう鍋突っついてるときも、奈美ちゃんに、もし糸井くんが〜って言われているときも、ああかわいいな、きれいだな、やっぱりかわいい、好きだな、って思っている俺の脳みそと、脳みそから伝達された情報によってばっきばきに勃った俺の身体反応が、なんというか、いやほんと菜蕗すまん、ほんとバカなんだが、バカなことは百も承知なんだが、それでも言わせてほしいんだが俺は、俺はなあ。……ふふ、っふふくふふふふくふ」
「なんだよ」
「いや、ほんとなに言ってるんだろうって、ふふ思って。俺はなあ。っはは。とにかく俺は、奈美ちゃんが俺の身体を芯から信じてくれてはいなかった、ってことが、ムカついたし悲しかったんだろうな。俺は奈美ちゃんの身体をめっちゃ信じているのに」
 車がトンネルを抜けて、分厚い山肌がすぐそばまで迫り、またトンネルに入る。
 それから20分ほど行った先の小さなパーキングエリアで俺たちはうどんを啜り、日本海を眺めながらタバコを吸った。スマホを見ても奈美ちゃんからのLINEは来ていなくて、ムカつくような、寂しいような、申し訳ないような、悲しいような、恥ずかしいような、いまなにか送ったらなにか間違ってしまいそう、という気持ちに襲われる。菜蕗もタバコを吸いながら、眉間に皺を寄せながらスマホをたぱたぱ触っていて、仕事のメールでも返しているのだろうか。俺がいまの会社に就職して間もないころ、先輩に連れられて行った二丁目のバーで働いていたのが菜蕗で、俺と知り合った直後くらいにバーを辞めて会社員として働いているらしいが、俺はいま菜蕗がどんな仕事をしているのか知らないし、なんなら年齢も知らない。
「わかんないけどわかったというか、アホっぽいけど、糸井くんが彼女さんをとにかく好きってことはわかった」
 スマホをジーパンのポケットにしまい、しかめっつらはそのままに菜蕗は言った。
「わかってくれてうれしいよ」
「わかったし、わかってたけど、キモいな。わかったけど」
「あのな菜蕗、僭越ながら俺は言うぞ」
「なんだ勃起人」
 今度は俺が古畑任三郎の番だ。
「愛とは本来、きもちのわるいものなんです……」
 俺たちはタバコの火を消し、車に乗り込む。
 そして愛とは、信じる心。の、はずだ。
「はあ。やったろうじゃねえの。総本山、建築設計」
 潮風でべたついた髪をガシガシと掻き、俺は菜蕗がシートベルトを閉めるのを待ってからエンジンをかける。

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