見出し画像

0111「枕カバー」



 街なかでブルーリボンのパネル展示が行われていて、それだけなら素通りするはずのエマの歩みを止めさせたのは、パネルの中に2枚、"多様な性、知っていますか"、"セクシュアルマイノリティって、どんな人たち?"と書かれたものがあったからだった。多様な性、知ってるよ。でも同じくらい、わかってないな。"オネェ系"か。その言葉は使わないでほしかったなって個人的には思うな。"からだの性"と"こころの性"かあ……。そんなわけではないことくらいわかっているのに、エマは自分自身が磔にされてここで展示されているような心地になり、この場に留まっているのが怖ろしくなり、また歩きはじめた。それでもエマの頭の中では、目に焼き付いてしまった先程のパネルの文言の数々がリフレインしていた。"30人に1人くらいいると言われています"、"これって、すごく身近なことだと思いませんか?"、"社会の偏見や無理解から、自分のことをなかなか言い出せずにいます"。ちがう。ちがう。ちがうちがうちがう。エマの歩みはだんだんと早まり、大通りの交差点を赤信号なのに渡りかけて直前でつんのめるように立ち止まるころには、ほとんど競歩のような速度になっていた。ちがう!と、パネルを背にして往来の人々に叫びたい気分でもあったし、いますぐ消えていなくなってしまいたいような気分でもあった。自分でもわからない、"身近なことだと思"わないと身近なことだと思えないようなやつらに、自分でもわからないあらゆることを、パネルにまとめて語られてたまるかとエマは思った。
 人類史上初めて性適合手術を行った人物を描いた海外映画を、日本での封切り直後に観に行ったときのことを、エマは思い出す。映画は最終的に主人公が手術によって死に、主人公のパートナーとして付き添っていた女性が別の男性と恋仲のような雰囲気になり、主人公の死後、シスジェンダーであるその女性と男性がふたりきりで抱き合うところで映画は終わった。史実に基づいた話だろうが、なんだろうが、これはトランスの話ではない、これは私に向けられた物語ではない、とエマは思った。客席からはエマ以外の客のすすり泣く音が聞こえていた。そうあれは声ではなく音だった。たとえばいま泣いているあなた、あなた、そこのあなたは、私に手を差し伸べてくれるのですか、私を見て同じだけ泣くんですか、と訊いてみたい気もした。ひとりひとり、おまえらをぶん殴ってやろうか。キリキリした気分で映画館を出て駅まで歩いていたあのときの速度と、さっきのパネルの前から立ち去ったときの速度は、似ていた。それは世界を、社会を、その他大勢を見放す速度でもあり、世界から、社会から、その他大勢からはみ出て濁流に飲まれ流され滝つぼに落ちていく速度でもあった。
 かわいそう、と泣かれ、悲劇として扱われ、お涙頂戴として描かれるくらいなら、トランスの物語なんて無くていい。配慮だとか、ジェンダーバランスだとか、多様性の社会だとか、そんな理由で恐る恐る、あるいはニコニコと差し出される物語もいらない。目配せなんて必要ない。私の物語なんて必要ない。用意してくれるな。
 そんな物語がなくても、私はまだ生きている。ここにいる。まだ死んでいない。完結していない。まだ物語になっていない。私は、自分は、おまえらに物語を用意されたいと思っていない。
 駅前で自転車に乗る。カッシュカッシュとペダルを漕いで、家の近くをゆっくり進む。そこまで考えて、エマは今度はしおらしい気分になってきた。あのときの、映画の帰り道の激しい気持ちが瞬間的に蘇って熱くなってしまったけれど、形はどうあれ、語られ方はどうあれ、ああいったパネルが展示されていること、それ自体はとてもいいことだと思う。とてもいいことだと思わなくちゃいけないとも思う。ただ、とエマはさらに思う。何度も、ただ、ただ、と。自分は、自分の気持ちの置き場がいつもわからない。うれしいことも、かなしいことも。くやしいことも、かなしいことも。さみしいことも、たのしいことも。気持ちの置き場がいつもどこにも見当たらなくて、周りの人がその重たい荷物を降ろして一息ついているとき、自分はただただ、自分の重たい気持ちを背負ったまま、身体の軋みを無視して立ち尽くすことしかできないのだった。
 曲がるべき道を何度か素通りし、通らなくてもいい道を通り、止まる必要のない場所で止まり、またペダルを漕いで、だらだらと家に帰ったエマは、リュックや鍵、財布や帽子、ポストから抜き取ったピザ屋のチラシをぼとぼと落としながら玄関からベッドまで項垂れつつ進み、枕めがけてうつ伏せに倒れ込んだ。大きく息を吸う。シャンプーと皮脂の残り香がフィフティ・フィフティ。いまから洗濯したら寝るまでには乾かないな。コインランドリーで乾燥すればいいか。はあ、クソ。クソクソクソだぜクソ。あーあっ。はあ。よし。エマは枕カバーを枕から引っこ抜いて、玄関とトイレの中間あたりにべしゃりと落ちているリュックに突っ込んで、財布を掴んで、また家を出る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?