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0115「ゴールデンバージニア」



 HUBってなんか、名前はちょいちょい聞くけど行ったことはないな。京都にはあったっけ。なんかあったような気もするし、なかったような気もするし、なんにせよ行くのははじめてだな。渋谷駅からHUBへと向かう短い道のりのあいだ考えていたことのほとんどそのままを、エマは短くまとめて独り言のようにして、すでにギネスビールをちびちび飲んでいたジョージに投げる。そうなんだ。まあ楽しもうよ。みたいなことをジョージは言って、持っていたパイントグラスを掲げて控えめに微笑んだ。それで一旦席を立って、カウンターで生ビールのパイントを注文して、こういうとき「いちパイント」と言えばいいのか「ワンパイント」と言えばいいのか、それとも「パイント」と言えば1パイントという理解が成されるのか、そういう微細な逡巡がある一定の人間をその場所から遠ざけることってあるよな、とエマは思う。まあでも「パイントで」って言えばいいんだよな、"ふつう"に。スタバのトール、グランデ、みたいな。そしてここ、生ビールはキリンなんだな。店員がボウリングのピンを逆さにしたような形のレバーを押したり引いたりして、エマのための生ビールが液体と泡で綺麗に分かれてパイントグラスに注がれていく。それを見ながらエマは思い出す。三条木屋町の交差点のあたりに、高瀬川を臨むような立地で、いつも外国人なのか日本人なのかわからないけれどなんか賑々しく酒が酌み交わされている空気が充満していたあそこ、HUBだったかもしれない。グラスを受け取りお金を渡してお釣りを受け取って、エマがジョージの座っている離れ小島のようなテーブルに戻る。ジョージは身体をねじって遠くの壁面のテレビ画面を眺めていて、テレビにはサッカーの中継が映っていた。サッカーは見る?とジョージはエマに訊いて、好き?でもなくやる?でもなくルールはわかる?でもなく見る?なのがいいな、と思いながらエマは見ないなあと応えた。やさしく乾杯をして、テンポよく飲みながらお互いのことを訊いたり応えたりした。「なんの仕事をしているの?」「貿易会社」「貿易会社」「そう。金ならあるふふふ」「そうですか」「エマはなんの仕事をしているの?」「シガレットバーで。狭い店内に8人も座ればぎゅうぎゅうになるし、バーっていうかコーヒースタンドみたいな感じでもあるし、ただの気の利いたタバコ屋でもある」「へえ、エマは働いていて楽しい?」「楽しいのかなあ。いつも出勤前はそれなりに新鮮に緊張するよ。ちょっとした気合いを入れないと玄関のドアを開けられないし、店についた直後からしばらくはドキドキしてるいまだに。ジョージはどうなのさ」「僕?」「うん、仕事は楽しい?」「どうかな、仕事は仕事だな。ところでそれは手巻きタバコだね」
 1本巻かせて、と言ってきたジョージに手巻きタバコ一式を渡す。OCBの巻き紙を取り出し、折り目を開いてカウンターに置き、巻き紙の上に盛り塩のようにシャグを乗せ、巻き紙の折り目に合わせてシャグの脇にフィルターを置き、シャグやフィルターごと掬うように巻き紙を持ち上げて、紙縒こよりを作る要領で捻り伸ばす。シャグを均しながら筒状に巻き、糊面を舌で濡らして接着する。そうして巻いたタバコを、ようやく取ることができたチェスの駒のようにジョージはしげしげと眺め、どうぞ、と言ってエマに差し出した。「ジョージは吸わないの?」「むかしおじいちゃんのタバコをよく巻いていたんだ」「そうなんだ」「うん、だからぼくは、巻くのだけはうまいんだ、そしてその葉っぱはイギリスのものだよ」「ああ、ゴールデンバージニアって、そういえばそっか、おじいちゃんもこの葉っぱを吸っていた?」「うん」「イギリスに帰りたいとか思うことは」「僕はイギリスには帰らない」ジョージが突然感情を消した声でそう言って、そうか、この人にもいろいろあるんだな、とエマは素朴に思った。そもそもエマは、ジョージという名前が本名なのかどうかすらわからない。エマはジョージの巻いたタバコを吸いながら、ジョージはエマを見たり壁面のテレビ付近で画面の展開を熱心に見ている白人の集団を見たりしながら、明日には忘れてしまいそうな話をたくさんした。
 HUBを出て、神泉駅の踏切前まで歩く。渋谷のHUBから新泉の駅へ行く途中にラブホの立ち並ぶエリアがあり、エマは動揺を悟られまいとジョージに話しかけようとしたが、なにを話しても動揺の裏返しになってしまうような気もして、結局ジョージの顔を見ないように、ラブホの看板や外観を見ないようにさっさと歩くことしかできないのだった。ラブホの連なりが途切れ、神泉駅の踏切が視界に入り、ホッとしたエマの隙を突いてジョージは素早くエマの頬にキスをした。なぁっ!と声が出たエマにジョージは前屈みになって笑う。「いや、ごめんごめん、はあ、ごめん、はー、いやあ、エマはかわいいね」「ジョージ、わざとあの道通っただろ」「いやあ、ごめんって」「はあ、もう、びっくりしたな」それでエマとジョージはハグをして、ハグをするふたりの横を通った京王井の頭線吉祥寺行きには仕事帰りの嵯峨見奈美と糸井恋吾れんごが乗っていたのだがエマとジョージにその姿は見えず、嵯峨見と糸井も路上のふたりには気づかない。エマとジョージは新泉駅南口の階段前で手を振り合って別れ、エマは南口の階段を上り切って、改札は通らずに西口の階段を降り、小道を何度か曲がって東京都道317号環状六号線・通称山手通りに出た。エマの住むアパートは幡ヶ谷と初台の境目あたりにある。新泉からだと電車の乗り換えがやや面倒で、加えてエマは電車が嫌いで、今日は歩いて帰りたい気分だった。どうして自転車で来なかったかな、と思いながら、エマはだだっぴろい山手通りをひたすら北上する。ジョージからLINEが来ていて、HUBで交換したジョージのLINEアカウントは「日本」という名前で、エマはそれをいまのところ面白がれているけれど数日後には怖くなってきて2ヶ月後にはブロックする。ヘーイジョージ、しごーとは決まったカーイ。ヘーイジョージ。ふふ。そしていま、エマはひとりで歩きながら、つぶやきながら笑っている。子供のころ、千葉のローカルテレビで繰り返し流れていた、地域密着型の求人情報サービスのCM。ヘーイ、ジョージ、仕事は決まったカーイ。オー、決まったよー、チバキャリでねー。不意にそのCMのことを思い出したエマは、あは、ははは、笑いながら、スキップしながら、マッチしてはじめて会った人がジョージでよかったかも、と思っている。

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