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0102「ボディブラシ」



 アルタ前でその人と僕はすぐにお互いを認識した。その人は黒いキャップに黒いコートを着ていて、身体の線がもとから細いのか、簡素な身なりがそうさせるのかはわからなかったけれど、輪郭が心許ない人だな、というような印象を僕に与えた。背はそこそこ高そうに感じたけれど、僕の身長は190を超えているから、僕はその人を見下ろして話すことになった。行きましょうかと僕は言った。行きましょうかとその人も言った。僕とその人は区役所通りまで歩いて、小綺麗なうどん屋に入った。新宿で、マッチングアプリで人と会うときはいつもこのうどん屋を使う。高すぎず安すぎず、美味しすぎず不味すぎない。味も価格帯も中の中。僕は自分の傲慢さ臆病さをよくわかっていた。この店で相手がメニューをどう読み、どう選び、お酒をどれくらい飲み、どれくらい食べ、どういった所作でなにを話すのか、なにを訊いてくるのか、観察しすぎない程度になんとなく観察する。査定ではない。なんとはなしにこの場にいる相手のことをただ眺める。このルーティンを噛ませないと、僕は後々うまく立ち回れなくなる。その人はあまり迷わずに生ビールといくつかの小鉢を頼んで、僕はいつもの組み合わせである小盛りのざるうどんと白ワインのグラスを頼んだ。自分でも不思議な取り合わせだとは思う。けれど僕は、この組み合わせでないとこの店ではどうにも落ち着いて振る舞えないのだった。それに、これは誰も同意してくれないけれど、冷たいうどんと白ワインは案外合う。
 琥珀色のジュレと絡み合ったウニを箸でつまみながら、さっき言っていたことですけど、とその人は言った。こういう、シンプルな格好がすきなんです。おしゃれなのかどうかはわからないですけど、これが自分にとっての心地よい姿で。だからなんというか、そう、……。その人はざるうどんの中心に添えられた髪の毛みたいな刻み海苔のあたりを見つめて、数秒、固まった。アルタ前から歩いているとき、せっかくなりたい身体になれたのだから、女になれたのだから、もっと女の子っぽいおしゃれがしたいとは思わないの?と僕が素朴に訊いたことへの応答であることはすぐにわかったけど、僕はその人が言ったことをあまり理解できていなかったと思う。そういうものか、とは思った。そうなんだね、と声にも出した。その人はしばらくするとまた小鉢に箸を伸ばし、ビールを喉に流しこみ、そういうものなんです、と静かに言った。言葉少なに他愛もないことを話しながら、僕とその人はうどん屋を出た。通りに出るとどこかから人の言い争う声が聴こえた。あるいは酔っ払い同士が愉快にじゃれ合っている声だったかもしれない。それでもそのとき、僕の耳には人々が険悪に諍う声に聴こえた。その人の耳にはどんな声として届いていたのだろう、なんてことをそのときは考えていなかった。僕はその人の手を取り、先導する形で歩いた。いつも使っているラブホテルにはすぐに着いた。
 並んでベッドに座って、フロントサービスでもらったボトルワインの赤を開けて、改めて乾杯をした。いつの間にかその人はコートを脱いでいて、深緑色のタートルネックとやけに色白で細長い手指の対比が綺麗だった。綺麗な人なのかもしれない、とそのときようやく僕は思った。緊張していたのかもしれない。なにかが僕の調子を狂わせていた。僕はその人の髪に触れた。その人はこちらを見て、顔を近づけてきた。そうしてしばらく、お互いの身体に触れ合ったり、撫で合ったり、キスをしたりしていくうちに、僕は喘ぐのを我慢できなくなっていった。ごめんね、僕はこういう人なんだ。事前に言っているからその人もわかってここに来ている。わかっていても、拒絶されてきた経験の多さが、弁解の言葉を紡いでしまう。僕はスーツを脱いで雑に畳んで椅子に置き、ブリーフケースの中からボディブラシを取り出した。ひとにお尻をいじめてもらうとき、僕はいつもこのブラシでやってもらう。お風呂で背中を洗うときなんかに使うこの木製のボディブラシの、毛がついていない、しゃもじのような背面部分で、力いっぱいひっぱたいてもらう。僕がどれだけ泣き叫んでも、やめてと懇願しても、100回叩くまでやめないでほしい、と僕はその人に伝えた。ボディブラシを受け取りながら、その人は何度かうなずいた。
 全裸になって、ベッドの上で四つん這いになった僕のお尻を、その人は一回一回、力強く引っ叩いた。頼んでもいないのに、リズムの緩急や強弱のバリエーションをつけながら、いーち、にーい、さんっ!しーい……、……ご!ろく!なな!はち、きゅーう。声に出してカウントしながらその人は僕のお尻にブラシを振り抜いた。途中で何度かその人は笑って、ハッとした様子で、ごめんなさい、と言ってすぐにまたカウントを始めた。笑ったほうが興奮するから、そのまま楽しんでもらえるとうれしい。僕はそう思っていたけど、思いが言葉として生成されるのを快楽が邪魔していたからなにも言えなかった。100回叩かれて、花火みたいにイッて、乳首をこねくり回されて、またイッて、どれくらいそうしていただろう。結局その人は服を脱がなかった。僕は全裸のままその人と一緒にすこしだけ眠ってしまった。いや、その人は眠ってはいなかったのかもしれない。眼が覚めるとその人はベッドの端に座ってワインを飲んでいて、ボトルはほとんど空になっていた。エマさん、強いんですね、酒。横になったまま僕が声をかけると、その人は振り返らずにうなずいてから、むかし浴びるほど飲んだので、と言った。その人は、なにか大切なことを思い出したのかもしれなかった。口角がわずかに上がっているのが見えたから。
 ボディブラシをしまい、スーツを着て、帰り支度を整えた僕とその人はホテルを出た。部屋から出るとき、靴を履いて、玄関の鍵を開けようとした僕の手を制してその人は短いキスをしてきて、僕は不思議と自然に、これが最後ってわけではないのに、と言っていた。それが嘘であることは、その人もわかっていたと思う。その人はもう僕の眼を見なかった。
 靖国通りまで一緒に歩いて、お互い別々のタクシーに乗って別れた。

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