谷さん_写真

26歳になりました。

早いもので26歳の誕生日を迎えました。

26歳は20代後半への入り口。

大学を卒業して、北海道に移住し、地域おこし協力隊を経てなんとか小さな会社を経営することができているのも、たすけてくれる方達のおかげです。

そんな自分が学生の頃は、就職で北海道に移住しているということも、まさか自分が起業するなんて考えてもいませんでした。今思い返せば、18歳までは野球ばかりの少年で、大学受験に失敗し、仮面浪人までも考えて過ごした大学1回生の夏休み、初めて登った富士山での体験が今につなげているのだなと思う。

2012年の夏、大学も面白くなく、自動車学校とアルバイト先への往復をしていた時期、かなりの単位も落とした。そんな時に、ちょっとした興味関心で東日本大震災のボランティアに行こうと、格安の夜行バスを乗り継いで、岩手県の釜石市や大船渡市などの瓦礫撤収の作業を一週間していた。ボランティアの期間ももうすぐ終わり迎える頃に海外から来たボランティアの人と宿舎で仲良くなって、出発前に初めて登録したFacebookの交換をし、「岩手県からの帰り道一人暮らしの自宅までの帰り道、富士山があるので山頂からの写真を載せるんで見てくださいね!!」と言って、その場ではお別れをした。

岩手からの夜行バスで、東京に行き、富士山に登るためにと、秋葉原で明るめの懐中電灯を買って、上野のアメ横の激安店で、ジャンバーとまではいかないくらの作業用の上下のシャカシャカする服を買った。そして、夜10時、新宿西口発、富士5合目のバスに乗りこんだ。これまで野球しかしてこなかった自分にとっては、初めての一人旅の高揚感や、日本一の山、富士山を初めて見ることができる楽しみで溢れていた。

もう、9月の上旬頃とありお客さんの数はまばらだった。富士5合目吉田口ルートに着くと、お土産物屋さんや駐車場が整備されていた。とりあえず飲み水をと1Lの水を購入して、ご来光を見ようと登り始めた。

野球をやめたばかりの自分は、体力もあまりにあまっており、予想以上のスピードで富士山を登ることができており、約3時間ほどで山頂も近づいてきた時に、雨が降り出した。山頂付近の気温は0度に近く、今では禁止されている弾丸登山だったため、装備も野球用のアンダーシャツに、ジャージ。その上からアメ横で買った上下のシャカシャカ。靴はすり減ったランニングシューズ。カバンは斜め掛けのショルダーバックというもので、雨がみるみる体温を奪っていったのを覚えている。

このままではいけないと思い、とりあえず上を目指そうと山頂まで一気に登った。時間はすでに3時に近く、シーズンが終わったのか山小屋は閉まっていた。閉まった山小屋の前に、雨宿りをしている一人で登っている大学生の方を見つけた。なんとかしようと、その方に声をかけて、暖がとれる場所を探すと、無人トイレがあった。その中に入ると、彼女さんが高山病気味で動けなくなっていたカップルが中にいた。そこで、挨拶をすると4人でトイレの床に座った。疲れと眠さがピークにはなったものの、初めて寒さで体が勝手に震えるということを体験し、今となってはおおげさではあるが「あ、これって寝たら死ぬぞ」のやつかなと思い、お互いに話をしながら、心のどこかで励ましあっていたのだと思う。

今となってもあれほど、朝が待ち遠しい時間はこれまでに経験してはいない。

お互い肩を寄せながら、トイレの中にいると外が賑やかになってきた。外に出てみると、あたりは薄明かるくなってきており、8合目付近に宿泊していた人が、ご来光のために山頂に登って来ている声が聞こえた。ようやく、朝日が登ると、4人で外に出て、ご来光に備えた。1時間くらいが経って、朝日が出てくると、今まで何気なく過ごしていたが太陽の暖かさや、これまでは暗くてよく見えなかったが、山々の緑に感動した覚えがある。

その時の写真は今でも、Facebookのカバー写真にしている。


あの時に、これまで野球しかしてこなかったけど、自分の知らない世界があること、そして人と人が繫ればそれは暖かさになり、力になることを知った瞬間でもあったと思う。

そこから、一気に自分の価値観が変わり、これまで腐っていた大学生活。結局、全ては自分次第であることに気づいた。そこで、この大学生活は、日本各地の様々な場所に行き、様々な人に会って、様々な経験をしてみたいと考え、そこからは、日本各地の都会から地方、山間部から離島まで、たくさんのところを一人で渡り歩いた。

そんなことをしていると、ひょんなご縁から浦幌町の地域おこし協力隊として、お誘いをいただき、今に至る。


長々と昔話を思い出したが、あの時の経験が今の自分のルーツになっていることは間違いないと思う。

そして26歳になった今、世間一般的に見ても、あらゆる場面で責任が生じる立場にもなった。

今、現在北海道十勝郡浦幌町にいるが、4年前から人口は約1,000人減少している。そんな場所で、小さいながらも会社を立ち上げ、地元で栽培する日本原種のバラ「ハマナス」を主原料にしたオーガニックスキンケアシリーズ「rosa rugosa-ロサ・ルゴサ」の販売を行い、現在は国内約60社・海外3ヵ国4社とのお取引をしており、来年度には、シリーズ合計出荷本数も1万本を超えるよう来年度国内100社への展開も目指していきたいと考えている。

そんな町で、たくさんのことを教えられ、たくさんの人にご迷惑をおかけしながら、失敗を積ませてもらっている。そして、ようやく人とは少し違った道ではあるけれど、社会の一員にようやくなれているじゃないかなと思う。

これからは、地方は今まで以上に人が減り、今まで以上に厳しい現状が来ることは避けては通れない道であると考えている。

今では「SDGs」少し前までは「地方創生」「まちづくり」「LOHAS」といわれるように、現場不在の言葉がトレンドになり、それを目論んでお金を引っ張る当事者とは関係のない企業が稼ぐことに憤りを感じることがある。

だからこそ、地域発で地元が潤う仕組み作り、地元に還元をしながら、しっかりと未来に繋いでいくことを今後はしていきたい。

地方ではより早いスピードで、【人口減少のその先】を見ることができる。

かつて、日本全国様々な場所に行った中で、どんなに山奥の集落でも、フェリーでしかいけない離島でも、その町には人が営みをつくり、暮らしていた。けれども、今後はそんな状況もなくなってしまう可能性もある。

だからと言って、絶望を感じるのでなく、今そこにいる人の意識次第では希望を生み出すことができるとも信じている。

幸い自分はまだ26歳。

2040年問題を迎える時にも、まだ46歳。

そんな遠くない未来に、いったい地方はどういう風になっているのか。

そんな景色を地方の現場から、見ていきたいと思う。

(photo by tani shogo @fuloba






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