ノート_Developer用

ディベロッパー・ジェネシス/インターフェロン04(後)

ザパダの階級を、中尉→少尉に。部下の軍曹を、曹長に変更しました。軍隊組織的には無茶苦茶だと思いますが大目に見て下さい。あと今回のこのチーム、正式じゃないので……。いわば私用で集められた人達なので……;
今回も流血三昧&結構重い展開なのでそういうもんだと思って御覧下さい。

† † † † †

 ――階段の踊り場に降り立つ。ガラス破片を撒き散らしながら、素早く手摺に身を寄せる。デザート・イーグルを手に階下を伺う。
 気配はある。だが意外にも〝敵〟は、すぐに攻めて来なかった。彼らもまた、キリの様子を伺っている。その気配を感取し、――キリは慄然とした。
 フォーメーションが取れている。
 映画でよく見る〝ゾンビ〟――ただ闇雲に群がり、襲い掛かって来るだけの(それでも充分以上に厄介だが)〝モブ〟モンスターではなくなっている。彼らは〝戦士〟だ。指揮官――ジマ(あるいはもっと上か)の指示の下、一斉に動くようになっている。それでいて自分の意思はない。命令に逆らう事は絶対にない。これに鬼族のパワー、回復力、感覚が備わったとしたら――最強だ。最凶、かも知れない。キリは軽く息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。心をカラにする。殺気を捨てる。――そろそろ来る、
 ヒュッ、と軽い音がした。
 宙空を飛んでくる、筒状のものが見えた。
 キリは慌てなかった。手摺に飛び上がるや、軽くそれを蹴り返す。――一瞬後、
 閃光が廊下を駆けた。
 キリは階段を駆け下りた。手にはナイフがある。弾丸は出来るだけ、温存しておきたかった。
 ――自分達が投げた閃光弾を逆に食らって、先頭の隊は立ち往生していた。先刻のキリと全く反対だ。キリはためらわなかった。ナイフが横一文字に走る。頸動脈を断たれ、先頭の兵が倒れた。その時には既に、二人目が延髄を断たれている。血が噴き出す。完全な死人と化した兵を投げ付けながら、三人目の顳に肘を打ち込む。頭蓋が完全に潰れて壁にめり込む。凄惨に過ぎる光景だったが、(人造)鬼族相手に〝手加減〟という選択肢はなかった。一撃で完全に殺さなければ、兵力を削ぐ事にならない。
 足音が複数起こる。――視力を取り戻し、他の感覚も使い、フォーメーションを立て直そうとしている。キリもすぐに切り換える。横手の廊下に飛び込む。
 追って来る。振り向きもせずに銃を抜く。今し方殺した兵から、奪ったものだ。フルオートで全弾撃ち尽くす。先頭から二人ばかり倒れたが、それだけである。それを踏み潰して、後続が迫る。キリは既に、廊下の角を曲がっている。兵も様子を伺いながら、身を低くして追う、
 頸部から血が噴き出した。
 ワイヤが張ってあったのだ。追跡姿勢まで考えた高さだった。だらりとぶら下がった後、首と胴が別々に落ちる。それを横目に、他の兵が駆け抜ける。銃を構え、逃げていくコートの後ろ姿へ引鉄を絞る。
 銃声と同時、キリの足が床を刻むように動く。コースと速度が微妙に変わり、銃弾は逸れて壁へと跳ねた。コートが翻る。再び別の廊下へと飛び込む。
『第二隊、先回り』
 ジマの〝指示〟が飛ぶ。兵士の一部がコースを違える。先頭はそのままキリを追う。迎撃を警戒し、慎重に様子を伺う。
 ドッ!
 一直線に飛来した鉄の棒が、先頭の兵の頭部を串刺しにした。先端が後頭部から突き出し、半ばまでめり込む程の威力である。しかしその犠牲の隙に、後続が飛び出す。二人目も同様に、心臓をぶち抜かれる。その横を後続が駆ける。――切り込み兵を犠牲にする事で前進する。怖ろしく冷酷な手段だった。軍隊において〝なし〟はない、とは云え。
 ――その命令を出しているジマ・コンジェラーレは、サロンにいた。上座のソファに座し、目を閉じて、ステッキに両手を置いている。沈思黙考する棋士のように。――その眉が、神経質に寄った。
 捕えられない。
 後ろ姿は見えている。が、追い付けない。多少銃弾が当たっても死にはしないから、発砲許可も出している。そして実際、撃ってもいるのだ。しかし当たらない。まるで銃弾が、Dを避けているかのように。
(馬鹿馬鹿しい)
 銃弾に意思はない。銃弾が避けているのではなく、D――五十嵐キリが躱しているのだ。しかしそんな事が有り得るのか。幾ら亜種の超感覚があっても、音速を超える弾丸を躱せるものなのか――
 ジマは目を開けると、手袋の上から爪を噛んでいた。苛立ちが募る。その苛立ちのまま、プランを変更する。物量作戦へと。

 ――足音の圧力が高まった。
(いよいよか)
 キリは壁際で、一度ふうっと息を吐いた。
 ――人にはそれぞれ、タイミングがある。呼吸ともリズムとも云えるが、それは作戦の展開にも攻撃にも、銃撃にも表れる。この〝人造鬼族部隊〟のように、一人の指令で一斉に動く形なら猶更だ。キリは敵のそれを即座に飲み込み、そこから僅かにズレて行動する事で、攻撃から身を躱すのである。更に敵のタイミングを狂わせ、こちらのリズムに引き摺り込みさえする。キリが〝悪魔と契約している〟と評されていた所以はこれが大きい。確かに悪魔じみている。理屈が殆ど知られていない、となれば猶更だ。
 しかし無秩序に来られると、それも通用しなくなる。次の手が必要だった。
 ――指示を出しているジマは、実戦経験に乏しい。いや、あるだろうが、最前線からは遠ざかって久しい。筈だ。勝機があるとしたらそこか。
 キリはそろりと、ドアノブに手を掛けた。
 ――角を曲がって、一隊が出現する。キリは素早く、一室に飛び込んだ。ドアは閉めない。〝鬼族兵士〟達も部屋へと雪崩れ込む――
 ドアの蝶番が吹っ飛んだ。
 何が起きたのか、兵にもジマにもわからなかった。視界が混乱する。わかったのは、背中から板状のものに、巻き込まれるように押されている――それだけだった。そのまま壁に突進――
 激突した。
 壁が砕けた。
 押し出される。その先は空中だった。

「っ……!?」
 フリードが悲鳴を上げかけた。マラキアもブレーキを掛けていた。
 ――岩山の中途から。突然何かが飛び出し、落下したのだ。その一群が人間の形をしている事を、二人は見て取った。マラキアが尋く。
「人類か鬼族……わかるか、仲介屋殿」
「えっ、えっとっ……」
 フリードも慌てている。その時には既に、一群は森に落下していた。マラキアはブレーキを外し、アクセルを踏む。フリードは指先を顳に当てた。
「人類っ……じゃ、なかったと思う。そしたら鬼族って事になるけど、でも変よ。鬼族って感じでもなかったの。変な気配よ。さっきからずっとしてるんだけど――強いて云うなら患者に近いような」
「うおっ!?」
 珍しくマラキアが、声を上げていた。第二陣が放り出されたのだ。フリードが唸った。
「ね、あれってどう考えても、人間業じゃないわよね。やってるのは、きっとディベロッパーよね? 状況全くわかんないけど」
「だろうな」
「壁ごと敵を外に押し出すって、何考えてんの? 貴方の友達は」
「いや――」マラキアは真顔で答えた。「多分何も考えていない」

 キリは舞うようにコートを翻した。盾代わりに使っていたドアを、今度は隣室との壁にぶつける。空いた大穴から隣室に逃げ出す。そのまま突っ走ってドアを蹴り破る。その向こうにいた兵が、ドアに押し潰された。銃口が一斉に向く、キリは勢いのまま床を蹴っていた。目標消失――と思った時には、彼らは既に引鉄を引いていた。
 銃声が複数響き渡り、壮絶な同士討ちになった彼らの上を、キリは跳躍していた。一度壁に着地、更に跳ぶ。一隊を飛び越したキリは廊下に一転、再び走り出す。
 それを追おうとした兵が二人程、ぐらりとよろけて倒れた。着地したキリに、一番近い場所にいた二人だ。他の兵はそれに目もくれず、キリを追う。――倒れた兵が静かに白化して、崩れ落ちる。それに気が付いた者は誰もいなかった。

 ヘッドライトに浮かび上がったそれに、マラキアは三度目のブレーキを踏んだ。
「あ、さっきの……」
 フリードが指差す。改めて指摘するまでもない。(おそらく)キリが城から放り出した、人造鬼族だ。が。
「あれ? でも、距離が変よね。それに……」
 マラキアは頷いた。云われずとも明らかだった。彼らの首は異様な角度に折れ曲がっていた。ある者は心臓部分に、穴が空いている。巨大な爪で抉られたように。――マラキアはピンと来た。
「熊殿か」
 ――窓から放り出され、城内に戻ろうとした生き残り兵を、グロムは薙ぎ倒したのだろう。しかし肝腎のグロムはどこに行ったのか、既にこの場を離れたか――とマラキアが視線を巡らした時。
「動くな!」
 突如として飛び出して来た兵士数名が、銃を運転席に向けて突き付けた。フリードは咄嗟に両手を上げていた。(人造)鬼族ではない、という事だけは、瞬時で把握したのだ。かと云って味方とも限らないが。
 ――ライトの円の中に、一人の青年が入って来た。やはり銃を構えている。だがその顔を見て、マラキアは僅かに目を大きくしていた。
「ザパダ准尉」
「――マラキア軍曹!」
 城から降りた、ザパダ達だった。

 マラキアは、場所を少し移動した。人造鬼族の死体がある場所で、話をする気にはなれなかった。うっかり触れて感染したら、目も当てられない。
「久し振りだな、ザパダ准尉。少尉になったんだったか」
「ええ、マラキア軍曹。よく御存知で」
 下士官から士官に対しての言葉使いではないが、双方気に留めなかった。どう見ても、マラキアの方が貫禄がある。年齢も上だ。
 ――彼らは忙しく、情報交換した。と云うよりマラキアが質問し、ザパダがそれに答えるという形だった。何しろ、マラキア側から出せる情報が、殆どない。その片寄りに、ザパダも気付いたのだろう。一通り問答が終わったところで、ザパダの方から切り出した。
「軍曹。こちらからも質問が」
「俺に答えられる事なら」
「【アレ】は一体、【何】なんです」
 ザパダは親指で、背後を指した。――その先は暗がりで見えないが、人造鬼族の死骸が転がっている筈である。
「レウフリカでバイオハザードが起きた。いや、起こされた。中尉はウイルスに感染し、奇跡的に生き残った。その代わり【あんな】姿になった――そのぐらいまでは理解出来ます。ですが」
 イアルナの遺体に起きた変化。人類では有り得ない膂力。
「【アレ】が城から放り出されるところは、我々も見ました。が、あの死骸の位置だと、落下地点から移動している事になる。あの高さから落ちて生きていられる筈がないのに。――彼らの外見は、中尉と似通っています。中尉自身、自分と同じ、と云っていました。中尉が感染したウイルスとは、何なんです」
 ――フリードはハラハラした表情で、マラキアを見上げた。マラキアは無表情にザパダを眺めると、おもむろに告げた。
「では云おう。時間がないから列挙するぞ。――天地には人類以外にも、知的生命体が存在する。中に鬼族というのがいる。超人類と云ってもいい種族だが、この血は人類には毒だ。感染すると、怪物化する。アウストルは鬼族だ。鬼族の掟を破って、鬼族ウイルスの研究をしている。レウフリカでばら撒かれたウイルスはこれだ。アウストルは中尉の血を奪って、更に研究を進めている。あの連中はその成果だろう。以上だ。納得しろ。出来なくてもしろ。わかったか」
 ザパダ達も、そしてフリードも、ポカン……と口を開けてしまった。我に返ったのは、フリードの方が先だった。慌てて手を振る。
「ちょ、ちょっと、ロックバイター!」
「と、いう訳だ。我々はこれから中尉のバックアップをしに行くので、准尉……じゃない、少尉。協力して貰いたい。出来ないなら逃げろ」
 マラキアはどんどん、話を進める。ザパダは額を押さえた。
「待って下さい。何が何だか」
「待てない」一刀両断の一言。「奴らに気付かれず、こっそり忍び込みたい。そういう出入口があれば教えてくれ。一緒に行ってくれればありがたいが、出来ないなら逃げろ」
 もう一度繰り返す。――部下達が、ザパダを見つめる。ザパダが決断する局面だった。彼は拳を握り締めると、部下を返り見た。
「――曹長」
「はい!」
「一等兵と二等兵を連れて、先に湖へ。ボートの準備をして待機」
「隊長!」
「拒否は認めない。逃げ道の確保は必須だ。任せると云っている。重要な任務だ、必ず果たせ」
「……アイ、サー」
「残りの者はついて来い。――マラキア軍曹。案内します、が、具体的に何をしますか」
 マラキアは一つ頷くと、今一度確認した。
「中尉は上に向かっていると云ったな」
「間違いなく。我々から、目を逸らすためでしょうが――」
「なので」巨体の軍曹は、事もなげに云った。「低層に爆弾を仕掛ける」

 ――キリは部屋に飛び込んだ。窓の格子を引きちぎり、追って来た兵を叩き伏せる。兵の頭蓋が西瓜のように潰れた。だがその隙に、扉口から二人目が発砲する。
「っ!」
 飛びすさって躱す。完全にはいかなかった。肩と足首に、衝撃と灼熱。構っていられない。窓ガラスを叩き割る。窓枠に足を掛けて身を乗り出し、鉄棒を壁に突き刺す。それを足掛かりに、あっと云う間に上階へよじ登る。不用意に顔を出した兵にマグナム弾をお見舞いしてから、室内に転がり込む。
「くっそ。日本刀が欲しいぜ」
 息をつく暇もない。すぐに兵が駆け付けるだろう。ドアを蹴り破って、部屋から飛び出す。同時に、床に身を投げ出すように一転。――襲いかかった兵が空振りし、踏鞴≪たたら≫を踏んで倒れる。背後から心臓に踵落としを食らわせ、そのまま踏み付けて走る。――前方に一隊が展開する。キリは横手の部屋に飛び込む。一隊がそれを追って突入する、
 ボンッ!
 火炎が部屋から噴き出した。――窓の外にぶら下がっていたキリは、頭上を黒煙が噴き過ぎるのを待って壁を蹴り、再び部屋に降り立つ。部屋中黒焦げだった。素早く離脱する。走りながら舌打ちする。
「あー、くそ。取っておきだったのに」
 キリにももう、口調程の余裕はなかった。先回りされ、次第に追い詰められている。エネルギーは接触するたびに補給しているが、幾ら亜種でも疲れ〝ない〟訳ではない。永遠に動き続けてはいられない。キリが動けなくなるのが早いか、ジマが逆上するのが先か。その前にアヴァランサ達が間に合うか――
 ――前方の角から足音。
 キリは咄嗟に膝を折る。コンマ一秒前まで頭があった空間を、銃弾が抜けた。飛び出して来た兵を、ナイフの一撃で仕留める。それが農夫の装いをしている事は、心臓を貫いてから知った。キリの表情は変わらない。兵の肩を掴み、そのまま後続へと突っ込む。ブルドーザーのように薙ぎ倒し、蹴り倒して、その廊下を駆け抜けて離脱する。
「……ダッドの抑えが効かなくなって来たか?」
 今の兵は、キリの【頭部】を狙った。手許が狂ったせいかも知れないが、それこそ有り得まい。ジマの命令で動いているのだから。ジマが遂に、頭に血を昇らせたか。それとも――
 ――ちらりと後方を振り返る。赤い目が追って来る。その毒々しさが、増したように感じる。キリは息を飲み込むと、階段を駆け上がった。

 ジマ・コンジェラーレは、ゴツ、とステッキで床を突いた。思わず立ち上がる。
「何をしているのだ……」
 完璧――ではない事は、ジマも承知していた。まだ試験段階の、人造鬼族だ。それにしても、これだけの人数を投入して、一人を捕まえきれないとは。
 しかし、ドクター・アウストルが何と云うか、ジマには容易に想像が付いた。彼はきっとこう云うだろう――貴方の指揮に不備があったのでは?
「そんな事が……」
 あってたまるか。必ず捕まえてやる。【リミットが来る前に】、
 ――不意にジマは、凍り付いた。
 わからない。何が起きたのかわからない。だが全身が、硬直していた。呼吸すら難しい。何かがジマを、圧迫している。ジマの周囲だけが、粘土に変わったかのように。
 何か居る。
 何かが居る。この部屋に。ジマの背後に。とても、とても怖ろしいものが。怖ろしい――
 鬼が。
 ひた……と、不気味な程静かな足音がした。
 闇の中から表れたのは、小柄な老人だった。目が爛々と、赤く光っている。微かに口端がつり上がる。尖った犬歯が、ちらりと覗いた。
 アヴァランサ。
 勿論ジマには、何一つ見えない。

「ジマ・コンジェラーレだね」
 低い声。水を通したように、どこかユラユラとして輪郭がハッキリしない。それでいて意味は取れる。ジマは喘いだ。かろうじて唸る。
「何者だ」
「あんたに教える義理はない」アヴァランサは素っ気なく拒絶した。「いいから今すぐ兵隊を止めな。このまま、全身の骨を折られたいかい」
 ジマは即答しなかった。ぜえぜえと息をしながら、――それでも彼は、にやりと笑った。そして。
 奥歯を強く噛んだ。
 目に赤光が点った。
 オーラが燃え上がり、アヴァランサの金縛りを押し返した。

「へえ」
 これにはアヴァランサも、軽く目を瞠った。完全に跳ね返されはしなかったが、半分程威力を削がれたのだ。ジマはぎくしゃくとした動きながらも、体を反転させた。アヴァランサと対峙する。
「そうか。お前が鬼族の長老か」
「あの馬鹿が。そんな事まで喋ったのか」
「丁度いい。Dともども、お前も研究所に連行してやる」
 ジマの瞳孔が針のように窄まり、口が横に裂けた。――キリが見たら、結局あんたら、割れ鍋に綴じ蓋だったんだね――と感想を述べた事だろう。それぐらいその表情は、イアルナと似通っていた。無論そんな事を、アヴァランサが知る由もない。彼女もまた――
 笑った。
「思い上がるんじゃないよ。下衆」
 ドッ!
 ジマは床に叩き付けられた。見えないブロックが押し潰したかのようだった。

「ぐ、ぐおっ……」
「勘違いするんじゃないよ」
 アヴァランサは凄惨な目付きで、ジマを見下ろした。――ジマなど及びも付かない、〝化物〟の表情だった。
「どれだけ鬼族の能力を与えられたか知らないがね。所詮コピーはコピーさ。本当に人類を超えたいなら、一度死んで出直しな。――あいつみたいにな」
「ぐ、ぐっ……」
「さあ、さっさと兵を止めるんだ。それとも、その皺首、ねじ切った方が早いかい」
 冗談の響きはなかった。完全に本気である。だがジマもしぶとかった。口の端から血が流れ落ちる、それでも降参せずに云い返す。
「やるならやればいい。だが無駄だ。命令を解除しない内は、彼らは任務を遂行し続ける。私が死んでもな。それに……」
 思わせぶりに言葉を切る。アヴァランサは促さなかった。代わりにジマの指を踏んだ。軽く力を込める。ジマは悲鳴を上げた。
「あ、あいつらは、まだ試験段階だ。タイムリミットがある。それを越えれば、もう私のコントロールは効かない。患者と化して、標的に群がるだけになる」
「だからその前に止めろと云ってるんだよ。わからん馬鹿だね」
 くい、と靴先をにじる。関節が潰れる音がした。ジマは絶叫した後、何故か勝ち誇ったように告げた――
「ところがそれももう無理だ」
「……【何】だって」
「云ったろう、試験段階だと。予定より早く、患者化が始まっている。奴め、今頃患者に埋もれて、引き裂かれているだろう。それでも死にはしないさ。何しろ人類でも亜種でもない、化物だからな――」
「その薄汚い舌を止めな馬鹿」
 アヴァランサの手が、軽くジマの頭をはたいた。途端にジマは、白目を剥いて気絶した。アヴァランサが大量に、血気を吸い上げたのだ。
 ふうっ、とアヴァランサは息を吐いた。
「まったく。手間掛けさせて」
 金縛りも、それなりの条件と労力を必要とするのだ。とっとと吐けばいいものを。
 ――城に着くのに、若干手間取ってしまった。マラキア達とは違う移動手段、別のルートを使ったからである。選択ミスとは思っていないが、アバタールに負荷が掛かっているのは間違いない。借りが出来てしまった。
 フリードからメールで、〝岩男達≪じぶんたち≫が何をするか〟と、〝アヴァランサにして欲しい事〟を伝えられた。それが〝ジマの確保〟だったのである。アバタールに加勢する方が優先ではないかと思ったが、〝ジマの確保〟には〝兵隊の停止〟も含まれる――という事で納得した。しかしまさか、そんな仕掛けになっているとは。
 今からでもアバタールの加勢に行くか、と一瞬考える。だがジマを放っておく訳にもいかない。貴重な情報源だ。爆発するとわかっている城に置いてはいけまい。
「くそ、もうちょい辛抱してんだよ、アバタール」
 アヴァランサはジマの首根っ子を掴むと、ずるずる引き摺って歩き出した。

 ――扉を引きちぎってバリケード代わりにし、その影で、キリは息をついた。
 様子が変化している。
 フォーメーションが崩れつつあり、銃撃が減った。〝モブ〟ゾンビに近くなり始めている。どうやら〝兵士〟でいられる時間に、限りがあるようだった。それはそれで、厄介ではあるが。
「ゾンビに銃は使えないか」
 人形もそうだった。引鉄を引くだけなら出来るのだろうが、狙いを付けたり弾丸を入れ替えたりするのは、〝操り人形〟では難しいのだろう。銃撃が減るなら、正直助かる。そこを狙い目にするか。
 動こうとしてふと、視界の端に何かが引っかかった。
 素早く壁に身を寄せる。改めて、今〝見た〟ものを反芻する。――窓の外だ。小さな光だった。光?
 外を窺う。――チカリと、何か光った。湖の岸辺りだ。
 ピンと来た。
 光はまたたきを繰り返す。一定のリズムで。一通り光った後消える。数秒の後、再び光る。全て見て取ってから、キリはポケットを探った。拝借して来た装備の中に、確か――
「あった」
 マグライト。キリはライトを窓外に向け、点滅させた。すぐに消す。これで伝わった筈だ。
「……さて、」
 キリは改めて、全身に力を行き渡らせた。ナイフを抜く。敵から奪ったものだ。自前のものはとっくに、鈍≪なまくら≫と化してしまった。
 闇の中からじりじりと、赤目の群が迫って来る。――バリケードを投げ付け、一気に飛び込む。血飛沫が噴き上がった。

 ――鼻をつままれてもわかるかどうか、という程の暗闇の中。マラキアは通信端末をつけた。着信があったのだ。メールの文面を一瞥する。
「よし。伝わったぞ」
 マラキア達の工作を、湖で待機している曹長達に伝え、曹長達がモールスで、城内のキリに送る。まどろっこしくはあったが、ともかくリレー出来た。瓢箪から駒である。後はグロムだが、
「熊殿に連絡はついたか」
「メールはしといたわ。最悪でも、爆発が起きれば逃げるでしょ。自力で何とか出来るわよ」
 薄情と云えば薄情極まりない。しかし亜種にとっては、これが当然なのだろう。そこは亜種の常識に任せる事にして、マラキアはザパダ達を返り見た。――マラキアの手には、ライアットガンがある。
「作業は」
「終わり……ました」
 爆弾を仕掛けていた上等兵が、蓋を閉めて額を拭った。伍長がマグライトで、城の見取り図を照らす。その場で描いた簡易なものだ。
「あと二箇所です、隊長」と伍長。
「よし。急ごう」
 その時フリードが、ガシャッとライフルを揺らした。マラキアが尋く。
「尋かなくても想像は付くが確認する。どうした仲介屋殿」
「来たわ」
 ――闇の奥にポツリと、赤光が浮かんだ。マラキアは重々しく告げた。
「逃げるぞ」

 キリに向けて、〝患者〟が押し寄せる。おそらく最後の一隊だろう。――実は一部が、地下のマラキア達の方へ向かったのだが、キリにもそこまでは察しようがない。
 窓の格子を次々と投げ付ける。心臓、首、頭部へと突き刺さる。かいくぐって肉迫する患者にナイフを突き立て、銃を奪い取って後続へと銃爪を引く。しかし殺し切れなかった患者が、再び起き上がって向かって来る。この光景は【来】る。キリは迎撃しながらも後退し、現れた階段を駆け登った。――先は跳ね上げ戸だった。鍵が掛かっている。力を込めて跳ね上げる。鍵ごと扉は吹っ飛んだ。
 ゴウ、と風が吹き付けた。
 城塞の屋上、つまり岩山の上だった。

 ――山としての高度は、さしたるものではない。トレッキングなら、〝低山ハイク、初心者向け〟に分類されるだろう。しかし剥き出しの岩山で、平らな場所はごく僅かだ。ハイキングには全く向いていない。落ちれば勿論死ぬ。通常の人類ならば。
 階段から、患者が躍り上がる。キリは銃爪を引いた。銃声とマズルフラッシュ。頭部を木っ端微塵にされ、患者が落ちる。それに隠れるようにして、二番目が飛び出して来る。
「そろそろ打ち止めに願えないかねっ……」
 唸りながら銃爪を引く――ガチン! 空振りの音がした。弾切れだ。
「打ち止めは俺か」
 後は素手しかない。銃をホルスターに戻し、ふっと息を吐く。するり、と身を低くする。患者は四つん這いのまま、キリに突撃――
 出来なかった。
 ガクッと膝が折れた。手だけで一歩分進む。だが次には肘も折れた。岩に倒れ伏す。
 起き上がろうとする。体は起きた。しかし進むだけの力はないようだった。キリは動かなかった。気を抜くには早い。完全に死ぬまでは、
 みし、と妙な音が聞こえた。
「?」
 眉を寄せる。目の前の患者から?
 みし、ともう一度。そして。
 ぶくりと患者の体が膨れた。ように見えた。
「……!」
 咄嗟にキリは、飛びすさっていた。同時。
 ばしゃあっ――!
 患者の体が爆発していた。血と肉を大量に撒き散らして。

「……」
 その凄惨な光景に、キリは声もなく立ち尽くした。これは――何なのだ。〝タイムリミット〟の果てか。それとも――
「やれやれ」
 唐突に声がした。背後から。キリはパッと飛び退いた。声の発生源からも、患者からも、素早く距離を取る。――そこに、いきなり立っていたのは。
「折角貸し出してやったのに、中将も口程にもない」
 キリは眉根を険しくした。
 人形だった。アウストルの手先≪リンガーウ≫。

「……クライマックスで御登場か。どこから湧いて出た?」
 口端を上げて尋く。だが口調に棘が乗るのを、抑える事が出来なかった。人形はぐるりと首を回した。キリを見る。カパ、と口があいた。
「湧いて出たとは失敬な。勿論登ったのさ」
「それはそれで目茶苦茶面白い絵面だな。間が抜けてて」
 悪意たっぷりに笑ってやる。爪先に静かに力を込める。いつでもどちらへでも、動けるように。――どう来る。いや、その前に。
「で、せっせと岩山登って、何しに来たんだ。俺にはもう用なしだろ」
「そうでもない」
 人形は、カタリ、と首を傾けた。患者の、皮ばかりの死骸を見やる。
「ここまでは来た。あと一歩だ。そのためにはやはり、サンプルが多い方がいい」
「とか云って」キリは嘲笑った。「そのあと一歩が、詰め切れてないんだろ。だから打開策を、探りたいんじゃないのか」
 半分は当てずっぽうだったが、図星ではあったらしい。人形の表情――はないので判断材料にはならないが、その首を振る動きが、妙に嫌そうだったのだ。そして実際、アウストルが続けた言葉は。
「つくづく、嫌な男だな。君は」
「お誉めに預かって恐縮だ」
 誉めてない、とグロムなら突っ込むところだな――キリは頭の片隅でそう思う。
「確かに【このまま】じゃ、幾ら金で人を買いあさっても、先が見えないもんな。スポンサーにだって、無尽蔵に資金がある訳じゃない。そろそろ結果出せって、せっつかれ始めたか? マッド・ドクター」
 ――〝人造鬼族〟部隊が、一様ではなかった理由。それをキリは、こう踏んだのだった。軍人は志願か、あるいは素行不良の者を〝救済〟する形。一般人は金銭。貧困層に話を持ちかければ入れ食いだろう。家族がいる者なら猶更だ。それにホームレス。勿論本当の目的を告げる筈はない。ホームレスに至っては、金すら払ったかどうか。しかしそれでも、限界はある。
「タイムリミットがあるんじゃな。どれだけ人を狩っても足りやしない。しかも最後には崩壊しちまうんじゃ――」
 キリは不意に、言葉を切った。
 違う。【そうではない】。
「くくくっ……」
 笑っていた。人形≪アウストル≫が。喉の奥で、木の関節を鳴らしながら。
「本当に、そう思うかね。これが、【やむを得ない結果】だと」
 キリは慄然と立ち尽くす。ちらりと患者の死体に目をやる。蛙が潰れたような、残骸としか云いようのない死体。
「……まさか。【わざと】か」
 人形は手を叩いた。
「正解。だが気付くのが遅い。減点1」
 講義でもするように、アウストルは続けた。
「〝兵士〟でいられる時間に限界がある。これは確かに君の云う通り、〝詰め切れていない点〟だ。ここは認める。科学者として、欠陥は無視していいものではない」
「科学者……ね」
 どこがだ、と言外に滲ませる。アウストルは気にも留めない。淀みなく続ける。
「しかし欠陥は逆転させる事も可能だ。――彼らはまず兵士として戦う。次に患者として敵を殺す。最後は敵の中に分け入って自爆する」
 キリは眉を寄せた。
「……【何】?」
 アウストルは、キリのその〝引っかかり〟に、【気付かなかった】。
「敵は血肉を浴びて患者化し、感染は連鎖し、最後には戦域丸ごと崩壊する。それを考えれば、実験体を買うコストなど、安いものだ」
「……」
「君達が相手では意味がなかったが、しかし兵器として有効な事は証明出来た。次のテストは、クヴァルツヴィにしてみようか。セフィエロの首都でどれだけの【戦果】を出せるか、なかなかの見ものだろう」
「……」
 キリは黙ってそれを聞いていたが、大きく息を吐き出した。低い声で呻く。
「お前……」
 いつも飄々として崩れる事のないキリが、嫌悪に満ちている。アウストルの言はキリの、普段は見えにくい部分を抉ったのだった。無意識の内に二の腕をさすりながら、キリは吐き捨てていた。
「お前本当に、婆さんの孫か」
「――祖母か」
 硝子玉の筈の人形の目が、輝いたようにも見えた。
「祖母は実に素晴らしい人物だ。尊敬に値する。実際尊敬しているよ。これは嘘ではない。だが祖母にしても特に、人類を愛している訳ではない。彼女は人類の味方ではない」
「知ってるよ」
 キリは苦々しく返す。――知っている。承知している、それくらいの事は。だがそれでも改めて言葉にされると、ぐさりと突き刺さった。何を甘い事を、と心中で思っても猶。アウストルは更に追い討つ。
「亜種は人類と敵対しない。それが亜種の総意だ。だが亜種なら、誰でも思っている。人類など滅びてくれないかと」
「……」
「それは祖母とて例外ではない。祖母や、そのまた親や、彼らと同世代の祖達が、どれだけ人類に苦しめられたか――語り始めたら何日かかっても終わらない。亜種は誰しも、その記憶を継いでいる。多かれ少なかれ」
「……」
「彼らはそれを、理性で抑制している。実に気高い精神だ。それは認める。だが私は、その必要性を感じない」
 ――だろうな、と声に出さずに呟く。
「そもそも彼らにしても、人類を惜しんでの事ではないのだからね。人類と戦争になったら、亜種に勝ち目がないからだ。数の問題で。ならば人類同士で潰し合ってくれればいい。亜種は表に出ずに。――実際世界は、そういう流れになっている。嬉々として、共食いを競っている。まるで猿に戻ったかのようだ。悪知恵が働く分、猿よりもっとタチが悪い」
「共食いか」
 だとすればキリは、どれ程【食って】来た事か。アウストルのその言に、反論する気は起きなかった。紛れもなく事実だ。
「君達もこの星で生まれた生き物だ。同じように、この星の遺伝子を受け継いでいる筈なのに、何故こうまで愚かなのかね? そういう点では確かに、興味深いが」
 そいつは俺も知りたいね――と、思いはしたが口には出さなかった。
「放っておいても自滅するだろうが、少し手を貸せば確実に加速させられる。その方がこの星のためにもなる。私がやっている事は云わば――先祖孝行だよ」
 キリは反射的に笑ってしまった。あまりに馬鹿馬鹿し過ぎて。
「冗談にしちゃ全然面白くないな。座布団全部没収だ」
「冗談のつもりはない」
 アウストルも平然としている。
「実際私の研究には、どの国も大喜びしているぞ。ウイルスが拡散したらどんな事になるか、考えもしないらしい。実に度し難い種族だとは思わないか」
「思うけど、あんたに与しなきゃいけない義理もない」
 一言で跳ね返す。
「同族で人体実験したあんたに、云われたかないね。同じ穴の狢だろ」
 ――人形は額に手を当てた。まるで人間のように。
「これは一本取られた。どうやら私も、人類に毒されたようだ」
 ――そこで。新たな人形達が、ぞろりと這い上がって来た。それを眺め、キリは苦笑した。
「こいつらで、俺を連れてくつもりか」
「出来れば抵抗しないでくれるとありがたい」
「そう云われてハイわかりました、なんて、大人しく承伏すると思うか。あほう」
 アウストルは一瞬、ぽかんとした――ようだった。耳に馴染みのない罵倒だったらしい。キリは続けた。
「御託はいいんだよ。【俺はお前が嫌いだ】。わかったらくたばれ、タコ」
 足下で微かに、地響きのような音がした。

 ――時間はほんの少し、遡る。
「ロックバイター! 何で爆発させないの!?」
 ――トラックを必死で運転しながら、フリードは荷台≪コンテナ≫に向けて叫んだ。荷台ではマラキアとザパダ達が、細い窓から銃口を突き出し、患者への銃撃を続けている。応じたのは、弾倉≪マガジン≫交換のために部下と位置を交代したザパダだった。
「距離が足りません。城から充分に離れなくては、我々も瓦礫の下敷きです」
「アンサーありがと、ハンサムさん! でも、どうなの! 振り切れそう!?」
「難しい!」
 流石のマラキアも、声を大きくして答えた。
「追い付かれそうだ! 速度は上げられないか、仲介屋殿!?」
「無茶云わないでよー!」
 フリードとしても限界だった。幾ら夜目が利くと云っても、道も土地勘もない森の中で、トラックを走らせているのだ。横転させないようにするのが精一杯である。
 そしてマラキア達の射撃も、精度は低かった。標的は動いている上、彼ら自身も揺動している。更にこの患者達には、まだ知恵が残っているとみえ、木の陰に入ったりするのだ。殆ど無駄玉になってしまっている。だが撃たなければたちまち追い付かれる。歯軋りしたくなるような状況だった――
 視界の端を何かが掠め、マラキアはハッとした。
「仲介屋殿! 一人そっちに行った!」
「ええっ!? 何―― っ!」
 フリードはギョッとした。突然フロントガラスに、患者の顔が現れたのだ。逆様に。視界を遮られ、フリードは一瞬、地面の状況を見失った。タイヤが何かに乗り上げる感覚。傾く、
「ごめんロックバイター! 倒れる!」
「全員ショック体勢!」
 ザパダが叫んだ。
 ――木を薙ぎ倒し、草と土を跳ね飛ばしながら、トラックは横転した。

「……こっの……! やってくれたわね!」
 フリードは首を振って罵った。シートベルトのお陰で投げ出されずに済んだが、宙吊り状態だ。その体勢のまま、ライアットガンを掴む。フロントガラスにはまだ、患者が貼り付いている。
 ガウン!
 銃口が火を噴く。フロントと患者の頭部が、木っ端微塵に消失した。

「武器をありったけ携行!」
 ザパダが指示する。最早トラックは捨てるしかない。マラキアは後部扉にバズーカを向けて告げた。
「扉を吹き飛ばしたら、一斉掃射。後は各自、バラバラに逃げろ。上等兵、俺が撃つと同時に起爆だ。いいな」
「り、了解」
「仲介屋殿も! いいな!」
「わかってる!」シートベルトを引きちぎりながら、フリードが返す。
「ではいくぞ!」
 何のタメもなかった。マラキアは銃爪を引いた。轟音と共に扉が吹っ飛ぶ。バックファイアが残りの武器に吹き付ける、
「走れ!」
 銃を乱射しながら飛び出す。トラックが大爆発を起こした。
 ――同時に城の地下でも、爆弾が炸裂していた。

「……!?」
 足許の振動に、アウストルもギョッとしたようだった。キリに変化はない。薄い笑みを浮かべているだけだ。アウストルはキリを睨み付ける。
「お前……何をした」
「さあ? 俺は工兵隊じゃない」
 アウストルは舌打ち――らしき音を立てた。
「爆弾か!?」
「そうみたいだな」
 キリは肩を竦めて嘯き、ちらりと視線を流した。――もうもうと、土煙が上がり始めている。
「なかなかの腕だな。効率がいい。ここもあと、何分持つか」
「お前はまさか、わざと……!」
「いや。俺もここまでは考えてなかった」大層真面目な顔で、キリは答えた。「俺だって、【まさか】あんたが来るなんて思わなかったしな。わかってりゃ、もっと色々仕込んでおいたのに」
 人形≪アウストル≫は僅かに身構えた。前回、魔法陣で殺されかかった事が、かなりのトラウマになっているらしい。しかしキリにしても、これは本当の事だった。〝アウストルが憑依した人形〟を〝捕まえる〟あるいは〝殺す〟――そんな手段が、今のキリにある筈がない。勿論口には出さない。表情にも。
「あんたはいいよな。いざとなれば、【ソレ】から脱け出ればいいだけだもんな。それともあれか? そんなに簡単に、出たり入ったりは出来ないのかね? 結構焦ってるようにお見受けしますけど、マッド・ドクター」
「危ないのは君も同じだろう」アウストルは切り返した。
「随分と余裕があるようだが、何か手でも打ってあるのか。時間稼ぎに何の意味がある」
「いや。特に何も」
 打てば響くようにアッサリ答えたキリに、さしものアウストルも唖然とした(ようだった)。三秒間キリを凝視した後、我に返ったように首を振る。
「貴重なサンプルを、ここで失う訳にはいかないからな。崩れる前に、確保させて貰おう」
 人形の一体が、ジャッ! と爪を伸ばした。キリに襲いかかる。
 キリの袖口から、シュッと何かが伸びた。
 それは蛇のようにうねり、人形の首に巻き付いた。――ベルトだった。そのままもう片方の端を掴み、体を入れ替えて落とし折る。頸が外れて頭が転がる。殆ど一瞬だった。だがそれもまた、囮だった。
「っ!」
 最大限まで高めた五感で察知、背後からの一撃を数ミリで躱す。同時に足払いが人形を転倒させる。勢いよく倒れた人形の、四肢が外れて岩場に転がる。――その間に、距離を取っていた三体目と四体目が。
 自分の胸部を開けると、中から何か掴み出して投げた。
「……!?」
 今度はキリが呆気に取られる番だった。――投網だったのだ。慌てて飛びすさろうとする、その足首を。
 【死んだ】筈の人形が掴んだ。
 バサアッ――!
 二重の網が、キリを上から押し包んで絡め取った。

「あ……のな……俺はマグロか!」
 毒突きながらキリは、網に手を掛けた。全力で引きちぎる、
「――」
 ――千切れなかった。
「マグロならまだマシだ。君は煮ても焼いても食えない」アウストルの手に、スタンガンが現れた。
「鬼族を捕えるのに、鬼族の力を考慮しないと思うかね。君にそれは千切れない。それに――」
 ならばとキリは網をはね除けようとした。させじと人形が、端を掴んで押さえ込む。決して近付かない。学習させたようだった。
「もう限界だろう。今の君は」
「――」
「あれだけの数を相手に、よくもまあ一人で、ここまでやったものだ。恥じる事はない。もう楽になるといい」
「そのラク、高くつきそうだな。お断りするよ」
 反射的にそう返したものの。キリにももう、余裕はなかった。わざと捕まるという手もあるにはあるが、アウストル相手では通じまい。〝逃げる〟〝隠れる〟事に長けた吸血鬼だ。捕まったら多分もう、レスキューは期待出来ない。一ミリ単位に切り刻まれて終わる――いや。
 終わらない。【切り刻まれても】終わらないだろう。脳と心臓が残っていれば、鬼族は死なないのだから。モルモットにされ続ける。半永久的に。
(……マズいぞ、これは)
 流石のキリも、不遜さだけで事態を切り抜ける事は難しかった。かといって手はない。まさに絶体絶命だった。イアルナの拷問が可愛く思える程に。どうする――
「おっと」
 アウストルが一度、足を止めた。激しい崩落音がしたのだ。遂に崩壊が、近付いて来た。反対側の端から、崩れ始めている。
「時間がないな。急ごう」
 その時だった。

 ぬう、と。人形≪アウストル≫の背後に、黒影が出現した。

 あ――と、キリが思う間もなかった。

 グシャッ!

 人形は一瞬で、押し潰された。ぺしゃんこに。脳天から。
 缶をプレスにかけたように。

 キリは呆気に取られて、それを見ていた。
 トムとジェリーにこんなのなかったっけ、と馬鹿な事を思いながら。

 ――残りの人形が、黒影≪それ≫に標的を変更した。指令塔≪アウストル≫が不在となり、本能的な行動しか取れなくなったのである。一斉に新たな〝敵〟へ向かう。が。
 巨大な手と長い爪が、空を切り裂いて唸った。
 凄まじい破砕音と共に、それは人形を殴り倒した。頭部、胴体、腰部と次々に破壊する。残りの人形数体は、あっと云う間にスクラップと化して岩場に叩き付けられた。秒殺である。その間にキリは何とか、投網を外していた。少しよろけながら立ち上がる、
 ――人形を片付けたそれが、ぎろり、とキリを睨んだ。
「……何をやっているんだお前は!」
 キリが何か云う前に。それの方がキリを怒鳴り付けていた。
 巨大なヒグマ――グロムだった。

「……それは、俺の台詞なんですがね、クマオ君」
 落ちてしまったハンチングを拾い上げ、キリは尋いていた。
「何してんのお前、こんな所で」
 あまりと云えばあまりの台詞に、グロムは毛を逆立てた。
「お前が尋くか!? お前が登って来たからに決まってるだろう!」
「だって下る訳にいかないだろ」
「何でそうなる!? 拘束を解いたなら、逃げるだろう普通! 何で【上】に逃げるんだ! お前は飛べるのか!? 飛べるのか!」
「仕方ないだろ? 俺が逃げたら、鬼族兵団≪あいつら≫も付いて来るじゃないか。何とかしない事には」
 ぐっ、とグロムは詰まった。その一点において、キリは完全に正しい。だからと云って上に逃げる事はないだろう、と思うが。――いや、
「そんな事を云っている場合じゃなかった! 来いディベロッパー!」
 岩の城はどんどん崩れ落ちている。あと数分で、グロム達も巻き込まれてしまう。幾ら亜種でも、この崩落に飲み込まれたら助からない。だがキリは、首を傾げた。
「いや、クマオ、お前だって……」
「嫌じゃないだろう! 死にたいのか!?」
「いや、その〝嫌〟じゃなくて。――軍曹が」
「ロックバイターだってどうしようもないぞ、これは! ――ああもう、面倒だ!」
「!?」
 仰天したのはキリの方だった。グロムがいきなり、キリを抱え上げたのである。勿論〝姫抱き〟のような可愛らしいものではない。丸太を肩に担ぐような無造作さである。そのまま城の端へと走る。流石にキリの顔からも、血の気が引いた。青い顔が白くなる。
「おいクマオ! だからお前だって、飛べる訳じゃないだろ!?」
「いいから黙っていろ! 舌を噛むぞ!」
 グロムは屋上の端から――身を躍らせた。

「……!」
 キリは目をきつく瞑≪つぶ≫り、ヒグマの毛を強く掴んだ。

 ザアアッ――!
 岩の城も、全てが断崖絶壁ではない。急峻だが角度はあるし、岩棚もある。グロムはそこを、半ば落ちるようにして滑り降りた。岩棚に着地、次の岩棚へと跳ぶ。背後でその岩棚が崩壊し、横を石塊が転がり落ちていく。
 崩落の音がどんどん近付き、大きくなってくる。グロムにしても、生きた心地がしなかった。だが腕はしっかりとキリを抱えたまま、分厚い毛皮をクッション代わりに、崖を滑降していく。登る時に付けた匂いを指標にしながら。
(あと少し……!)
 目標の岩棚に着地、滑降へ移ろう――とした時。
 頭上で妙な音がした。
「……クマオ! 上、ヤバいぞ!」
 何が、と問い返す余裕はなかった。グロムは半瞬で決断した。
 跳ぶ。――宙空へ。

「――っ!?」
「掴まってろ!」
 足下に森が迫る。見る間に大きくなる――
 ――梢に突っ込む。耳許で枝と葉が、盛大な音を立てる。グロムは片腕を伸ばした。
 鉤爪が、幹に食い込んだ。
 幹が裂け、枝が折れる。グロムは必死で、降下スピードを緩めようと試みる。幹に爪が深く食い込む。木っ端が刺さる感触があったが、気にしていられない。
「ディベロッパー! 跳べるな!?」
「!?」
 キリは目を丸くした。グロムがキリを――放り上げたのだ。空中へと。
「お前なっ……!」
 だがキリの目は一瞬で、周囲の状況と地面への距離を測っていた。――手を伸ばす。眼前に現れた枝を掴み、スピードを相殺。更に落下、次の枝でもう一度スピードを殺し――地面へと飛び降りた。受身を取って衝撃を逃がす、
「……クマオ!」
 どすん――!
 身を起こしたキリの目に映ったのは、大量の枝葉と共に、地響きを立てて着地したヒグマの姿だった。

「クマオ! 生きてるな!?」
「〝熊〟を舐めるな! この程度で死ぬ我等では――」
 不意に影が差し、二人は同時に上を見た。
 張り出しの塔――イアルナが拷問に使っていた――が、一度崖に跳ねて、落ちて来るところだった。キリが中途で「ヤバい」と叫んだもの。
「逃げろクマオ! こっちだ――」
 だがそう叫んだキリ自身が、ガクッ、と膝を着いてしまった。自分でも愕然とする。エネルギー不足と滑降の衝撃と、両方だろう。流石にこんな事態は、キリも経験した事がなかったのだ。
 グロムが突進した。跳ね上げるように、自分の背中へとキリを乗せる。
「文句を云うなよ! しっかり掴まれ!」
 文句を云う間など、ある筈もなかった。必死で走るグロムの背後で――塔が落ち、粉々に砕け散った。瓦礫が猶も、二人へ落ちて来る。
 ズシィン! ガラガラガラガラッ――!
 遂に崩落音が止まり――グロムとキリも、転がるように地面に身を投げ出していた。

 ……しばらくの間、ぜえぜえと、粗い呼吸音だけが響いていた。
「……おい。ディベロッパー」
 グロムの方が先に、体を起こした。
「ディベロッパー。おい、どこだ。返事をしろ!」
「……生きてるよ」
 地面から、ぬう、と手が生えた。
 小さな窪みに落ち込んだのだった。丁度木の葉が吹き溜まっていて、クッション代わりになってくれた。コートは枯葉まみれになったが。
「あー……帽子はどっかいったか。そこら辺にないか、クマオ?」
「……お前は……」
 グロムは声を一オクターブ下げて唸った。
「ここに至ってまだそれか! どうでもいいだろう帽子なんて!」
「【なんて】はないだろ【なんて】は。折角軍曹が見繕ってくれた、コスプレコーデだぞ」
「そんなに気に入りならまた買え! と云うか包帯外してる時点で、もう〝ディベロッパー〟からは懸け離れてる!」
 息切れしつつ怒鳴るグロムを、キリはしげしげと眺めた後――不意に相好を崩した。腹を抱えて笑い始める。
「笑ってる場合か!? 何がおかしい!」
「わ、悪い、悪い。いい奴だな、お前って」
「は!?」
 グロムは一瞬、脳味噌が真っ白になった。何故そうなるのか理解出来ない。
「それに、結構、やるじゃないか。正直、パワーだけだと思ってた」
 どう反応していいかわからない。ボケッと立ち尽くすグロムに、キリは手を振った。
「何とかするつもりだったが、助かったよ。感謝してる。サンクス」
「……」
 グロムはかえって憮然とする。こういうところが、腹が立つ、と思う。いつもは煙に巻いてばかりなのに、こういう時は照れもなく礼を口にする。怒っていたこちらが阿呆のようだ。
「……何とかするつもりだった、とは?」
 ――変身を解き、ヒトの姿に戻ってから、グロムは尋いていた。キリは座ったまま、全然別のところに感心する。
「よく出来てるよなあ、服ごと変身出来るなんて。どうなってるんだ? 服も肌の一部なのか? でも着替えてるよな」
「これは呪糸で出来てるんだ。魔法が掛けられた糸だ。呪糸で織られた布が呪布で、それ以外の素材にも魔法が……って何で俺が答えてるんだ! 質問したのは俺だぞ!」
 カッカするグロムに、キリは無言で、彼の背後を指差した。グロムは振り向き――呆気に取られた。
 城壁が一枚、残ってそびえていた。屏風のように。

「ああやって首の皮一枚残るように、爆弾の量や仕掛け方を計算するんだ。実動隊は上へ上へと逃げて、敵を引き摺り込む。引き摺り上げる、って云った方がいいか。最上階まで逃げたところで起爆。敵をビル諸共落とす。そういう策≪て≫だ」
「……」
「何度かやった事があるからな。俺が【上】へ向かったと知れば、軍曹はこうするだろうと踏んだ」
「……」
「実際途中で連絡来たしな。あそこで孤立しちまったら、どっちにしても死ぬとこだが――まあ幸か不幸か、化物になっちまったし。何とかなるだろうと」
「……」
 グロムは額を押さえた。一瞬感心しかけたが、やはり呆れる他ない。不確定要素が多過ぎる。緻密なのか大雑把なのかさっぱりだ。
「けどまあ、軍曹自身は、工兵じゃなかったからな。仕掛ける奴が優秀じゃないと、成功しない作戦だ。腕が立つ奴がいたみたいでよかったよ。流石ザパダだ、よく部下を育ててる」
 グロムは最早言葉もない。結局、出たとこ勝負だったのではないか。呑気に拍手をしている場合か。大体、残った城壁とて、いつ崩れるか――
「「あ」」
 二人は同時に、口を開けていた。
 残っていた壁が、上から崩落を始めたのである。――グロムは怒鳴り付けていた。
「見ろ! やっぱりこうなったじゃないか、お前の作戦なんて当てにならん!」
「だから感謝してるって云ったろ!?」
 心外だ、とキリが目を丸くした時。
 遠くから銃声が聞こえた。

「――」
 〝熊〟とゾンビは、すぐに意識を切り換えた。声も掛けずに走り出す――出そうとして、キリが片膝を着いてしまった。それにグロムは、急いで足を止めた。
「大丈夫か。ディベロッパー」
「あんまり大丈夫でもないが、何とかする。三〇秒待て」
 キリは木の幹に手を触れた。――途端。
 豊かに茂っていた葉が見る見る茶色に変わり、次々に落ち始めた。あっと云う間に、地面に降り積もる。次には枝が。最後には完全に、立ち枯れてしまった。――回復した筈のキリが、がっくり肩を落とす。
「あー……ほんとヘコむわ、これ」
「変な奴だな。同族で殺し合うのは平気なのに」
 つい云ってしまってから、しまった、とグロムは眉をしかめた。弱っている(いた)相手に皮肉をぶつけるのは、あまりに狭量な気がした。だがキリは気に留めなかったらしく――
「俺達は所詮人非人だよ。仕事でやってるんだから同じ穴の狢だ。植物≪コレ≫は世界が違うだろ」
 ふうっ、と息を吐いて立ち上がる。それ程元気になったようには見えない。肌が青いからかも知れないが。
「本当に大丈夫なんだろうな」
「俺にもよくわからないよ、人類の時と勝手が違う。まあ、立って走るくらいの事は出来そうだ。行くぞ」
 云うなりキリは走り出した。グロムは慌てて、それに続く。

 ――ドンッ! ドン!
 追い縋る〝患者〟を撃ちながら、ザパダは、湖畔に向かうのを躊躇していた。このままでは彼らまで、連れて行ってしまう事になる。かと云って一人では、対処しきれない。ジリ貧だ、どうする――
 ガウン!
 背後に回り込んだ患者が、脳天を撃ち抜かれて沈んだ。ザパダは急いで、その場を離脱する。仲間か。誰だ?
「あと少しよ!」
 どこからか、〝仲介屋〟の声がした。続けて。
「右だ少尉!」
 マラキアの声。ザパダは脊髄反射的に、銃爪を引いていた。ドン! 腹に響く音と同時に、患者が胸に大穴を空けて倒れた。
 一瞬の静寂――だが。
「うわあっ……!」
 少し離れた場所から、叫び声が聞こえた。部下の兵長だ。ザパダは急いで、薬室に弾丸を込めた。走り出す。
「ハンサムさん!」
 フリードが、梢から飛び下りて来た。その後ろからマラキアが現れる。フリードが木に登って、〝目〟の役をしていたらしい。ザパダは軽く頭を下げたが、それ以上は云わずに足を速めた。フリードが行く手を指差す。
「あそこ!」
 ――兵長が上等兵を庇いながら、患者に向けて必死で枝を振り回していた。弾薬が尽きたのだ。ザパダは怒鳴った。
「下がれ兵長!」
 叫ぶと同時に引鉄を引いている。銃声二発が轟き、患者が一人倒れた。ザパダは一瞬、息が止まった。弾丸を装填している時間が――
「どいて!」
 フリードの声。ザパダは確認もせず、横っ飛びに倒れた。頭上を火線が飛び過ぎる。マラキアだ。二人目の患者が、頭部を吹き飛ばされた。フリードが声を高めた。
「駄目、まだもう一人――!」

「全員下がれ!」
 まったく新しい声が夜気を貫いた。

 何かが一直線に飛来した。木の枝だった。それは患者の胴体を串刺しに――する寸前、はたき落とされた。距離があり過ぎたのだ。しかしその隙に、何かが木々の奥から飛び出していた。戦闘には不似合いな、コートの裾が翻る。
 ドン!
 太い枝が今度こそ、患者の心臓を打ち抜いた。

 がさりと硬化した患者を、彼は突き放した。くるり、と振り向く。
 長身。ダークグレーのコート。
 キリだった。

「……」
 ゼエゼエと息を切らしている兵長と上等兵に、キリはちらりと目を投げた。
「大丈夫だな? 血には触れてないな?」
 がっくがっくと音がしそうな程、二人の軍人は頷いた。キリは頷き返すと、ザパダとマラキアに手を上げた。
「よう。軍曹、少尉」
 ――マラキアは無言で軽く、ザパダは「中尉!」という言葉と共に背筋を伸ばし、敬礼した。踏み出そうとするマラキアを、キリは急いで制した。
「近付くな! 俺も出血してる可能性がある」
「――了解」
 マラキアは足を止めると、あっさりと尋いた。
「で。無事か」
「無事じゃあないが、まあ生きてるよ」
「それは重畳だ。熊殿も」
 グロムが、キリに続いて現れたのだった。肩に太い枝を何本か、担いでいる。彼もまた、マラキア達に釘を刺した。
「俺にも近付くな。さっき手を怪我した」
「大丈夫なのか」
「大事ないが、念のためだ」
「了解した」
 ――ザパダが、誰にともなく尋いた。
「彼も、仲間なのですか。名前は、クマ、でいいのですか?」
 グロムは一瞬嫌そうな顔になったが、渋々頷いた。
「……通り名のようなものだ。それで構わない」
「あ、じゃあ、私もそう呼んだ方がいいわよね。やっほークマちゃん」
「殴られたいのか情報屋。――と云うか」グロムは拳を握り締めた。
「呑気に喋っている場合か! 患者がまだ、残っている可能性もあるんだぞ! 逃げる手段≪アシ≫は!」
「気持ちはわかるが怒鳴るな、クマオ」キリが宥めた。「少なくとも今この近くに、患者はいないよ。――さて」
 キリは一度考えた。くるり、と視線をザパダに向ける。
「少尉、【そっち】の船は」
「――向こうです。そう遠くはありません」
「了解。で――」次にフリードに目を転じる。「あんたか。婆さんの云ってた情報屋は」
「そうよ。よろしくね、ディベロッパー。ごめんなさいね、約束すっぽかしちゃって」
「ま、仕方ないさ。ザパダ≪こいつ≫の打った手の方が早かった。こっちこそよろしく、姉≪ねえ≫さん」
 サラリとそう呼び、帽子に手をやる仕種をする。
「で――こっちの足≪アシ≫は」
「私達が乗って来たトラックは、燃えちゃったのよ。ア――御婆様が別ルートで来てるから、そっちになるわね。今、メールの返信待ち」
「そうか」キリはすぐ、結論を出した。
「少尉。とにかくそっちのボートまでは、一緒に行こう。俺達から感染する危険性はあるが、患者が残ってた場合、俺達で何とか出来る。そこから先は別々だ。いいな」
「しかし」
「とにかくここと、俺達から離れろ。後の事はまたその時だ」
 淡々としていながら、有無を云わさぬ口調だった。ザパダはそれでも尋いていた。
「いいんですか」
「何が」
「我々が一緒で」
「状況が変わった」キリはあっさり云った。
「奴らはもう兵士じゃない。患者だ。俺とお前達の個体識別はしてくれない。戦力をバラすのは考えものだ。――先導を」
 キリに促され、ザパダは頷いた。拒むだけの理由もない。もう少し事情を聞きたかった、という事もある。だがキリ達は、ザパダ達と距離を取った。――確かに彼らの服はあちこち傷み、血に汚れていた。近付くべきではないのだろう。しかし。
「中尉」
 前方に注意しながら、横手へと声を掛ける。暗がりから声が返った。
「何だ。詳しい事情は説明出来ないぜ」
 先を制された。ザパダは食い下がった。
「難しい事はわかっています。しかしこのままでは我々も、どうすべきかわかりません。つまるところモルダニア軍は、どうなっているんです」
「……お前さんにしちゃ大雑把な質問だね」キリは苦笑したようだった。「そう云われても俺にもさっぱりだよ。まあ――クラウドに反感持ってる奴は、どっかしらに居る筈だ。そいつの許に駆け込むんだな」
「それが難しいんです」
「難しくてもやってくれ。と云うかやれ。俺もそこまで面倒見られない。アウストルを追うので精一杯だし、第一俺はもう死人だ。公的には何も出来ない」
 ザパダは言葉に詰まる。キリは静かに続けた。
「お前一人の問題じゃないだろ、ザパダ少尉。部下の命も預かってるんだ。死ぬ気で考えろよ。――お前さんなら出来るよ、俺とは違うんだから」
「何云ってるんですか。私は」
 ザパダが思わず、声を高めかけた時。
「シッ」
 キリが鋭く、制止をかけた。全員が素早く身構える。キリはゼスチャーだけで、下がれ、と指示した。マラキアがそれを実行する。ザパダ達の前に入り、自ら後退して彼らを下がらせる。
「軍曹。銃の弾倉≪マガジン≫あるか」
 キリが尋く。マラキアは無言で、マグナム弾が装填された弾倉を放った。キリはそれをキャッチ、デザート・イーグルの弾倉を入れ替える。いつもなら少し遣り取りがあるところだが、双方何も云わない。それが緊張感を物語っているようで、グロムは息を詰める。
 キリと反対側にいたフリードが、眉をひそめた。
「……血の匂いがする」
 ザパダが息を飲む。キリが歩を進めた。慎重に岩と茂みを回り、岸に出る――
 全員、愕然とした。
 船が舳先を上に、半ば沈んでいたのである。船腹に大穴を空けて。

「これ……は」
「近付くな少尉!」
 キリの鋭い声が、ザパダの足を地に縫い付けた。
 キリは無意識で、額の汗を拭っていた。もうキリにも人類にも、血の匂いは明らかだった。襲撃されたのだ、患者に。あるいは――
(人形か)
 キリは内心で呻くと、マラキア達を返り見た。
「見て来る。お前達は下がってろ」
「偵察なら俺が」
 グロムが云いかけたが、キリは首を振った。
「お前が乗ったら完全に沈む。――とにかく距離を取れ。クマオ、お前さんはそいつらを頼む」
 キリは返答を待たず、軽く桟橋を蹴った。ひらりと体が舞い、ボートに降り立つ。その動きに、ザパダ達は目を瞠る。そんな彼らを、マラキアが押しやった。
「下がるんだ。早く」

 ――ボート、と云っても、オールで漕ぐような代物ではない。モーターが着いただけのものでもない。小さくとも船室があり、船舶免許が必要な小型船だ。富裕層がよく、レジャーに使うタイプである。この船もその類だった。軍用の造りではない。イアルナの私物だろう。しかし贅に尽くされていた筈の船内は、今やひどい有様だった。壁のあちこちが引き裂かれ、銃弾の跡が線を描き、その上から血飛沫が飛んでいる。床と云わず壁と云わず天井と云わず――
「――」
 視線を上げたキリは、思わず一歩引いていた。
 天井に人が、磔になっていたのだ。二等兵だった。勿論事切れている。キリは務めて無表情を保とうとしたが、失敗した。僅かに顔を歪める。
「スーパーナチュラルかよ」
 そう呟いてみたものの、声にいつもの闊達さはなかった。吐き気を覚えながら、目線を延ばす。
 船尾にもう一人、倒れていた。船縁で身を折っている。生気は感じられなかった。彼も死んでいる。顔は見えないが、制服から、一等兵と思われた。キリは眉を寄せる。曹長はどこへ行った?
 ――【草】を持って来てくれ、と頼んだ時の、珍妙な表情が思い出された。
「生きててくれよ……」
 感染していなければ、の話だが。
 それにしても――二等兵も一等兵も、【死体になってここに残っている】、という事は。患者に襲われて、感染したのではないのか。とすると襲撃は人形か。ならば曹長は、逃げおおせたのか。しかし、【人形ならば】。
 感染させる事も、不可能ではないだろう。
「マンマに負けず劣らずドSだもんな、あのマッド」
 キリは呻きながら、斜めになった船室を出た。

 ――時間は少しだけ、遡る。
「もうあの船は使えまい。彼らをどうやって離脱させる」
 キリを待つ間。グロムがフリードに尋いていた。フリードは端末のボタンを押している。
「御婆様に問い合わせ中。断られるかも知れないけど、まあ、何が何でも駄目とは云わないわよ。何だかんだで、それなりに甘いから、御婆様は」
 グロムが思い切り、「どこがだ」という顔をした――時。
 かさりと、草を踏む音がした。
「誰だ!」
 誰何と共に、マラキアが銃を向ける。――木々の間に、人影らしきものが浮かんだ。ザパダはそれを凝視し、次の瞬間、安堵の叫びを上げていた。
「曹長!」
 部下を迎えようと踏み出しかける。だがそれを、マラキアが押し留めた。どころか銃口を、ぴたりと曹長に向ける。ザパダも部下達も、怒りの声を上げていた。
「何をするんです!」
「折角会えたのに――」
 それに行動で応じたのは、グロムだった。彼もまた、ザパダ達の前に出ると、身を低くして構えた。喉から唸りが漏れている。その迫力に、軍人達は口を噤んだ。――改めて曹長を見つめる。まさか――
「隊……長」
 一歩、曹長が木の間から出て来た。よろけるように。
「申し訳ありま……せん」
 顔が上がった。
 青い肌の中に、真っ赤な目があった。

「噛まれ……ました。変な……マネキンのような、奴らに」
 ザパダ達は凍り付いて声も出ない。グロムが唸り声と共に、マラキアに告げた。
「お前達は逃げろ、ロックバイター。人類≪こいつら≫を頼む」
「……すまんが、そうさせて貰う」
 マラキアはライアットガンを構えたまま、顎をしゃくった。行け、とザパダ達に告げる。だが肝腎の彼らが動けない。無理もなかった。その気持ちはマラキアにもよくわかった。とてもよくわかった、が、今は動いて貰わなければ困るのだ。薄情でも非情でも。
「少尉、しっかりしてくれ。動け! 今は!」
 その叱咤に、軍人達がぎくしゃくと動きかけた――
「隊長」
 曹長の目から一筋、赤い涙が流れ落ちた。血だったかも知れない。
「逃、げて、下さ――」
 語尾は咆哮に変わった。
 曹長は地面を蹴った。黒影が躍った。

「っ……!」
 グロムは完全に、目測を誤ってしまった。腕が空を切る。ザパダの頭上から、曹長が襲いかかる。マラキアがザパダを蹴り飛ばした。同時に自分も倒れながら、銃口を曹長に向ける。
 ドン!
 火線が曹長に炸裂した。だが急所を外してしまった。トン! と曹長が着地、マラキアに跳躍する。二度目の銃声。影が交錯した。
「ロックバイター!」
 グロムが飛び込み、横殴りに曹長を薙ぎ払う。曹長は吹っ飛んだ。だがこれもまた、致命傷ではなかった。曹長は地面に一転して跳ね起きる、
 岩を飛び越えて、何かが落ちて来た。
「ディ……!」
 グロムが名を呼ぶ間もなかった。
 それは曹長の背後に着地――するより早く、腕を曹長の首に回していた。一気に体重をかける。
 ――鈍い音が響いた。
 嫌な音だった。
 曹長の目から、
 赤光が消えた。
 力も抜ける。――首に回っていた腕が解けると、曹長は重力に従って膝を着き、そして、倒れた。
 曹長の命を断った男――キリは黙って、それを見ていた。
 青白い顔には、何の表情も浮かんでいなかった。

「ち……中尉――」
「少尉! 軍曹!」
 鞭打つように、キリが呼ばわった。グロムは驚いた。キリの、これ程腹の底から響く声を、グロムは初めて聞いたのだ。
「怪我は! 感染は? 報告!」
 ザパダは我に返った。急いで自分の体を見下ろす。土と草にまみれてはいたが、傷はないようだった。敬礼して報告する。
「異常、見当たりません」
「よし。軍曹?」
 その声が硬さを帯びた事に、グロムは気付いた。
 むくりとマラキアが、起き上がった。右、左、と首を回し、手を開閉させて――うむ、と彼は頷いた。
「大丈夫のようだ。今のところ」
「そうか」
 今度は少し、安堵が乗る。――この男でも、こういう感情はあるのか。そんな風に、グロムが感じた時。
「中尉」強張った声で、ザパダが問いかけた。
「一等兵と――二等兵は」
 キリは黙って、首を振った。ザパダは大きく喘いだ。万が一の時は、彼らだけでも――そう思って打った手だった。それが裏目に出たのだ。その衝撃と悔恨は計り知れない。キリは敢えて事務的に告げた。
「とにかく、もうここにいても仕方がない。移動する」
 ザパダの部下達が、非難がましい視線をキリに集中させた。キリは反応しなかった。フリードに目をやる。
「姉さん。婆さんと連絡は」
「待って、今……ああ、繋がった」
 フリードも動揺していたらしく、何度かボタンを押し間違え、やっとアヴァランサと通話を繋げた。状況を説明する。
「うん、だから、軍人さん達の船が沈められちゃって……うん。うん。ん? ――うん。わかった、尋いてみる」
 フリードは送話口を手で覆うと、ザパダに目を向けた。
「見ざる云わざる聞かざるを守れるなら、乗せてやってもいいって」
 ザパダは頷いた。最早、異議を唱える気力が残っていなかった。キリが無言で、〝行け〟とゼスチャーする。フリードが歩き出し、ザパダ達がそれに続く。グロムはそれに並びながら、殿≪しんがり≫のキリをちらりと見やった。
 キリは一度も、振り返らなかった。

「ア……長老殿も、船を使ったのか」
 湖岸に浮かぶシルエットを見て、グロムは呟いた。
 ――桟橋などない岸辺なので、船腹から縄梯子が下ろされている。更に云うなら、イアルナの船より、一回り大きい。まったく、どこから調達して来るのやら。
「さっさと乗りな」
 船縁から一同を見下ろし、しわがれた声でそう告げた後。アヴァランサは(それこそ)さっさと引っ込んだ。軍人達は顔を見合わせる。歓迎されていない事は明らかだった。躊躇する彼らを、フリードが「早く乗って」と促す。彼らはやや警戒しつつ、縄梯子を伝って船へ乗り込んだ。フリード、マラキア、グロム、キリと続く。マラキアとキリは、すぐに錨を引き上げた。操縦席のアヴァランサが、軍人達に〝命令〟する。
「あんたらは船室にいな。出るんじゃないよ。余計なお喋りをしたら殺す。いいな」
 軍人達は即座に頷いた。小柄な老人だが、眼光といい声音といい、彼らには到底抗えない迫力だった。しかしそれにしても、アヴァランサも相当に、虫の居所が悪い。疲れもあるだろう。無理もない。
 船が岸辺を離れる。――キリはふと、振り向いた。
 城は既に、崩れ去っている。瓦礫が大量の木を薙ぎ倒し、一部は湖にも達していた。随分な自然破壊をやったものである。朝には大騒ぎだろう。ならないか。こんなド辺境だ。
 ――船縁に手を着き、キリは、大きく息を吐き出した。いや、まだ、安心は出来ない。出来ないがキリにしても、もう限界ギリギリだった。眠ってしまいたい、
「ディベロッパー」
 グロムが船室から出て来た。水のペットボトルを手にしている。無言で差し出されたそれを、キリは小さく笑って受け取った。
「気が利くじゃないか。サンクス」
「……いや」
 グロムは首を振ると、一度船内に戻った。操縦席のアヴァランサに、亜種語で低く尋く。
「ジマとやらは」
「船倉」
 アヴァランサの答えは極端に短い。グロムは眉を寄せた。
「何を怒っているんだ」
「別に怒っちゃいないよ。機嫌が悪いだけさ」
 何が違うのかわからない。グロムはフリードに目を移す。フリードは黙って苦笑し、肩を竦めた。それだけだ。グロムは何となし、後部甲板に目をやった。

 ――水を一口飲んだキリは、それをマラキアに向けてみた。
「飲むか? ――あ、駄目か。口付けちまった」
 勝手に結論を出したキリに、マラキアは何故か反応しなかった。何やら腕を組んで、じっと考え込んでいる。そして。
「キリ」
 実に久々に、彼は友人の名を呼び――顔を上げた。
「すまん。報告に誤りがあった」
 キリは無言で、友人を見返した。
 マラキアの目が、赤く変じた。

「……!」
 グロムも、船室の軍人達も、フリードも。アヴァランサでさえ、愕然とした。
「ロックバイター……!」
 グロムは船室を突っ切り、後部へのドアに手を掛けた。だがその瞬間、キリの手が動いた。制止の形に。
 ――バン!
 グロムは開けかけたドアを、逆に閉じた。更に自分の体で、ドアを塞いでしまう。背後に集まる足音。彼らを外に出してはならない。
 ……マラキアの顔色が、青黒く変わっていくのが見える。グロムは心臓を絞られるような痛みを覚えた。感染していたのか。曹長とやりあった時だろうか。キリは――
 グロムの視界にあるのは、コートの背中だけだ。見えない。何一つ。

「……ご、っ……」
 マラキアは咳き込み、体を折りかけた。めき、と腕が変形しかける。膝が折れる――
 折れなかった。
 マラキアは膝を伸ばしたのだ。背筋も。自分の体を抱えるようにしていた腕を、ほどいて伸ばす。顔を上げる。胸を張る。まるで――
 ――フリードがしゃくり上げるように、喉を引き攣らせた。
 マラキアが、何か云った。
 声はなかった。ただ口が開閉しただけだった。

 キリが動いた。

 何の躊躇もなかった。彼は一挙動でデザート・イーグルを抜いた。一ミリも一秒も停滞する事なく――
 銃爪が引かれた。

 重い銃声が轟いた。

 マグナム弾は過たず、マラキアの心臓を撃ち抜いていた。

 ……誰もが。
 呼吸すら忘れて、それを見ていた。

「……」
 マラキアは一度、自分の胸を見下ろしたようだった。そして。
 一つ頷いた。ように見えた。

 キリは銃を構えたまま動かない。

 ぐらりとマラキアは、後ろに傾き――
 湖へと落下した。

 水飛沫と水音が上がった。

 それも見る間に、闇の中へと溶けていった。

 キリの手がゆっくりと下がり、
 銃をホルスターに収めた。

「中……!」
「駄目だ!」
 外に出ようとしたザパダを、グロムは吠えるように押し戻した。
「戻れ! 全員戻って座っていろ!」
 何故そんな事を云ったのか、グロム自身わからない。しかしとにかく、今、彼らとキリを接触させてはならない――ような気がした。軍人達が苛立たしげな表情になる。グロムもそれに呼応して、一瞬頭に血が昇りかけた。その時。
「戻んな」
 彼らの心臓を凍り付かせたのは、アヴァランサの一声だった。〝熊〟の若造などとは年季の違う、骨の髄まで恐怖に染めるような声音だった。軍人達はそろそろと下がり、今まで座っていた席に着いた。かたかたと、体が震えている。
「情報屋殿も」
「でも」
「いいから」
 再度促され、フリードもアヴァランサの許へと戻った。――涙を帯びた目が、グロムを見る。グロムは頷くと、そっとドアを開けた。するりと外に出る。

「ディ……ベロッパー、」
 グロムが声を掛けても、キリは振り返らなかった。
 不意にその体が屈んだ。グロムはギョッとしたが、キリが手を伸ばした先は、転がっていた水のペットボトルだった。拾い上げ、再び背筋を伸ばす。キャップを開け、一口飲む。
 顔は見えない。
 ふうっ……と息が吐かれた。
 彼はそのまま、船縁に近付いた。グロムは慌てて手を伸ばしたが、キリはそれをさらりと振り払った。一度船縁に手を着いてから、――どすん、と腰を下ろす。もう一度息を吐き、彼はそのまま、ごろりと横になってしまった。
「おい、ディベロッパー!?」
「……俺も限界だ。寝る」
「寝……それなら中に入れ! 体に悪い……!」
「馬鹿。吸い殺すぞ」
 低い声。何の抑揚もない。
「お前も中に入ってろ。着いたら起こしてくれ。じゃあな」
「ディ……!」
 もう反応はなかった。
 グロムは凝然と、その姿を見つめる他なかった。
 鉛のように重く、暗い背中を。

 ……それが。
 白の湖≪ラクル・デ・アル≫での戦いの、幕引きだった。
〈続〉


■えー……今回のエピに関して、私からのコメントはありません。
■コメント欄でのネタバレは御遠慮下さいまし。よろしくどうぞ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?