“良薬は口に苦し”
かつて、ある不登校支援者はわたしに、
「いろいろな意見を受け入れなければダメでしょ!」
と叱った。
またかつての友人はわたしに、
「人からいろいろたくさん言われても、それを我慢して聞いて、自分のなかに受け入れるべき」
という意味のことを言った。
人から何か意見や忠告や助言や提案などを言われて、その人の言う通りにしたとする。
すると、それとはまた違う意見の人から、また別の忠告を言われる。
で、その人の言う通りにすると、さらにまた別の人から、別の忠告を言われたりする。
このように、人の意見を受け入れることには、際限がない。
世の中に溢れる「いろいろな意見」の中には、互いに相容れないもの、相反するもの、矛盾するものもある。
いっぽう、自分という器は一つである。
だからその中に、すべての意見を「受け入れる」など、一人の人間にはとうてい不可能だ。
だいいち、そのようなことをしていたら、自分としての【軸】を失ってしまう。
だから、いろいろな意見、さまざまな意見に直面したら、それをそのまま「受け入れる」のではなく、自分の中に関所をつくり、いったん「立ち止まる」ようにする。
そして、いろいろな意見同士を比較検討しながら、受け入れてもいいかどうか、自分で考え、判断する。
そのうえで、自分にとってもし納得できるもの、しっくりするものがあれば、自分の中に受け入れるものがあってもいいと思う。
他者の助言や意見を無批判に素直に受け入れることは、時として、とても有害なことがある。
例えばわたしはかつて、級友から、
「勉強のできる人は性格が悪い。だから性格を直すためには成績を下げることが必要だ」
と毎日のように言われ続け、それを真に受けた結果、その後の人生に多大で取り返しのつかない不利益を被ることになった。
あるいは、この国が、某国からの「日●構造協議」「年次改革要望書」なるものを受け入れ続けて、この国の制度をどんどん改革していった結果、この国は見ての通り、ボロボロになってしまった。
このように、助言や要望をを素直に受け入れることは、謙遜で望ましいこととされるが、必ずしも良いことばかりではないことを肝に銘じてほしいと思う。
「良薬は苦し」かもしれないが、苦いもの全てが良薬とは限らないのである。
(2024.9.24)
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