見出し画像

移行対象としてのゆる言語学ラジオ

今日はあるラジオの話をします。
冒頭にもある、「ゆる言語学ラジオ」というyoutube、あるいはpodcastです。

自分がこのチャンネルを知ったのは、今年の初めのころ。
ちょうど車通勤中にpodcastを聞き初めたときです。

「何かいいチャンネルはないかなア」
と彼女に話してみたら、「こういうチャンネルがあるよ」と教えてもらいました。
初めて聞いたのは、忘れもしない「うんちくエウレカクイズ」の回。

初めて聞いたときに、とんでもない衝撃を受けました。
なぁんだこのクッソ面白いラジオは!?
まさに自分がずっと求めていたコンテンツ。
気付けば、関連番組含めてほとんど視聴し終わってしまった次第です。

ずっとこのラジオの感想を書きたいと思っていたので、重い筆を取ってようやく書き始めました。
「赤ちゃんの言語習得」など、個々に語りたい話もあるのですが、それはそのうち。
今日はゆる言語学フォーマットにのっとってこのラジオの魅力を話していきたいと思う。
即ち

ゆる言語学ラジオは、ライナスの毛布

である。



ゆる言語学ラジオとは何なのか

そもそもこのラジオは何なのか。
これはインターネット芸人の堀元氏とインプット狂い編集者水野氏による言語学的トーク
……という名の「知的おふざけ」を延々と繰り広げる、知的エンターテイメントである。

この「知的おふざけ」というのがこのラジオのキモである。
が、その点はのちほど話すこととして。
このラジオは二人が言語学にまつわる(あるいはまったく関係ないうんちく)トークが聞ける、素晴らしいラジオである。

最初こそ、個人趣味で学んでいた言語学(学部卒)の水野氏のトークを中心としていた。
だが、最近では言語学の最前線で活躍される先生方が後方支援や普通にゲストに出てきたり、
「ちょいガチ言語学ラジオ」なる、言語学にさらに迫るテーマ回もある。

この回、めちゃくちゃに面白いですが他のゆる言語学ラジオを聞いてから見ると、なお楽しめます。

言語というものを、いろんな視点から眺めるのがこのラジオの面白さです。

ゆる言語学ラジオの面白さ

このラジオの面白さの一つは、堀元氏と水野氏の脳内データベースから繰り出される引用合戦である。
本人たちが引っ張り出してくるうんちくは、「クリシェ(使い古されたの意)」などと自虐するが、普通に知らん知識でしたよ。
雑学詰め込みまくり過ぎた二人の、間髪入れない掛け合いは芸術の類です。

また、言語学という学問を身近に迫っていくのもこのラジオのたのしみです。
おそらく多くの方々にとって言語学は馴染みないものかもしれない。
けれど、このラジオでは様々な観点、例えば主語の話やオノマトペ、あるいは「~た」という「た」の使い方を巡る、いろいろな視点から言葉というものを見直させてくれます。

もともと自分も雑学好きではあったのですが、この二人を見て「なんてやつらだ」と驚嘆し、自分の知識の浅さを痛感しました。
言語学も、ちょっとだけ興味があったのですが、このラジオを聞いてさらに知ることができたのは、後に語るところもあるのですが本当に僥倖でした。

そして、このラジオから教えてもらったものの一つには、アカデミアと呼ばれる最新知を追いともめる領域の楽しさもあります。

ゆる言語学ラジオとアカデミア

ゆる言語学ラジオ、今や数万人の視聴者を誇る一大コンテンツとなっているけれど、決して順風満帆ではない。
過去、そして現在も本チャンネルには一定の批評がある。
その一つは
エンタメに振っていて、言語学的に正しくないことがある
というもの。

このチャンネルの本質は、アカデミアと一定の距離を置きながら「知的おふざけ」に徹底することにある。
アカデミアという徹底して真実を科学する領域に赴きながら、そこから掬い上げた源泉で水遊びをする。
彼らはこの批判に対して真摯に向き合っている。
だが決してエンタメの姿勢を崩さない。
だからこそ、ゆる言語学ラジオの良さは輝いているのである。

このチャンネルの良さは「知的おふざけ」であること。
アカデミアという真面目かつ真摯なものを扱うのになぜ、おふざけであることが大事なのか。
それは移行対象という言葉で説明できる。

移行対象というものについて

移行対象とは精神分析家のドナルド・ウィニコットの提唱した概念である。

赤ちゃんははじめ、万能感を抱いて生まれてくる。
母親という自らを世話してくれる存在を同一化し、万能感を自分の中に取り込み、不全感は外に出して成長する。
安心感の中で、赤ちゃんは大きくなっていく。

しかしながら成長とともに赤ちゃんは子供になり、自分は万能ではなくなっていく。
厳しい現実との摩擦から子供は傷付きを受けていく。
穏やかな揺り籠から嵐のような現実へ放り出されていく。
そのままでは子供は生きていけない。
だから、彼らはかつて取り込んでいた万能感をタオルやおもちゃに見出し、厳しい現実を生き延びていくための術とするのである。

巷ではスヌーピーのキャラ、「ライナス」のもっている毛布がそれとして例に上がる。

彼のもっている「安心毛布」はまさに、ウィニコットの移行対象である。
のちにウィニコットはこれを遊びの中にも見出していく
現実と理想の間で揺れ動く子供は、遊びを使って少しずつ現実と向き合い始めていくのではないか、という考えである。

移行対象としてのゆる言語学ラジオ

ゆる言語学ラジオは知的おふざけでなくてはならない
それはアカデミアと理想との橋渡し的な存在だからだ。

私たちは昔、ただ知ること、学ぶことだけが楽しかった。
何時しかそれは勉強にとって代わり、辛さが際立つようになっていく。
「嗚呼、学ぶことはなんと辛いことか」
気付けば私たちはアカデミアと対立する。
厳しいアカデミアに向き合うことなどできず、別の生活へと逃れていく。

ゆる言語学ラジオはその中間にいる。
interestingな楽しさではない、心からのfannyな楽しさ
アカデミアという現実と楽しいという理想の緩衝材
例えアカデミアが辛くても、「楽しい」という安心毛布の存在があれば、立ち向かっていける。
進んでいける。
ゆる言語学ラジオは、アカデミアに臨む人たちの安心毛布なのである。

ゆる言語学ラジオからもらったもの

かつて、ひたすらにことわざ辞典を覚え、ひけらかしていたことを思い出した。
小6でDNAの塩基を暗唱していたことを思い出した。
そういった「ただ知ること」の楽しみ、遊びがここにはある。

自分はいま、大学院2年生である。
研究室のボスはあまり協力的ではなく、どうやって進めていいかわからない研究を、ただ一人で進めている。
孤独で、正直挫けかけていた。
そんな中で「知ること」の楽しさをこのラジオは思い出させてくれた。
今、自分が大学院でアカデミアに進もうと思えるのは、このラジオのおかげである。

様々な批判はあるが、ホモ・ルーデンスとしてのゆる言語学ラジオの取り組みを私は応援していきたい。

まとめ

ゆる言語学ラジオは放課後のクラスルームだ。
今日受けた授業の内容をふざけ合う、そんな雰囲気のラジオだ。
ちょっと賢く振舞い、ふざける楽しさがここにある。
勉強という現実に立ち向かう、そんな楽しさをこのラジオは教えてくれる。

ただ面白だけではなく、様々な知的な刺激を与えてくれるラジオ。
今度はどこかの回を取り上げて、いろいろ書いてみたいです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
面白かったらブックマークなどをお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?