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Tokyo Happy Coats『奥の細道』 【A-6】彼女たちの、芸能者としての出自は?


(本稿はアメリカのTokyo Happy Coats研究家Roy Baugher氏の許可を得て日本版サテライトコンテンツとして作成、画像や情報などを共有させていただいております。)

■軽業師「旭天華」とはいったい何者なのか?

「【A-5】なぜGLHの日本側露出が少ないのか?」で紹介したBaugher氏からの情報と資料『占領軍調達史』の記述に出てきた、”アサヒテンカ”・”旭天華”とGHL(=THC)との関係、つまり探索テーマの3番目、

3.GLHが芸能活動を始めた当初は、アクロバットチームだった。アサヒシスターズ、アサヒテンカ、アサヒフェンカ(スペルミス?)という芸名だったのではないか? →彼女たちの芸能者としての出自は?

に、今回は食らい付いてみる。

■まずは、旭天華を事蹟を追ってみた。

”旭天華”について、国立国会図書館デジタルでざっと洗い出しをしてみた。

最も古い”旭天華”の記録として、1933年の春に東京上野で開催された『萬國婦人子供博覽會報告』なる皇室御臨席の大型イベント、その結果報告書(1935年5月発行)にその名があった。4月22日に芝会場で「旭天華一座」が松旭斎天秀一座などと一緒に出演したことが判る。

その他、1943年に「東京土木建築工業組合」のイベント出演があり、さらに『映画芸能年鑑』(1947年)、『婦人倶楽部』(1953年)、『左翼文化運動便覧 1960年版』『松竹七十年史』(1964年)、『御園座七十年史』(1966年)といった年史類にも、戦前から戦後にかけての出演記録が残っている。

”旭天華一座”というアクロバットチームが、国家的大型イベントから松竹演芸場など劇場に出演して日本人の間で人気のある芸人だったことは間違いないようだ。そういう点で、戦後の”日本人の目には触れなかった”特殊芸能人とはすこしポジションは違う。

ただし、これらの資料は出演記録だけで、旭天華および一座のペルソナ、GLHとの関係はまったく伺うことが出来ない。

■青木深教授の『めぐりあうものたちの群像』を開いてみたら。

次に、前回ご紹介した青木深教授の著作『めぐりあうものたちの群像: 戦後日本の米軍基地と音楽』を開く。

この書は元が青木教授の博士論文として書かれた学術研究書だが、一般の読者でも比較的読みやすい。論文だけに資料や情報がとても豊富である。

まず巻末に人名索引が付されていたので、GLHの記載がないかと確認したが残念ながら見当たらない。タイトルにある論文の対象期間は、”1945〜58”だ。この1958年といえば、GLHがまだ子供時代で『スヰングジャーナル』の記事にやっと顔を出した年。ゆえに本書からは漏れたのかも知れない。

次に”旭天華”。天華については計7箇所に名前があった。その内のひとつが下記である。

さて、寺島玉章の弟、秦玉徳旭天華(日本人女性)が組んだ天華チームでは、秦玉徳がシャンパンの瓶ーー「ビール瓶」と回想する者もいるーーを頭上にのせて立ち、その瓶の口に木の器を置き、そこにもう一人が頭を乗せて倒立する、という芸が代表的なものであった。一九五一年八月三日には、天華チームは、月島(東京)の空軍補助基地EMクラブ(*)への出演が告示されている。

同書175〜177P 太字・注記は引用者
*【EMクラブ】米陸軍の一般兵士用の慰安クラブ、空軍ではエアメンズ・クラブと称す。 

”旭天華”が日本人女性だったことがわかる。芸風については、『占領軍調達史』の記述とほぼ同様。ただ”旭天華”についてペルソナが伺えるのはこの箇所のみ。

相方である秦玉徳の記録は、国会図書館デジタルで調べると雑誌『婦人倶楽部』1953年7月号が見つかった。「東京浅草田島町の秦玉德、珍らしい体芸一家お掃除など得意の芸でお母さん」という記載箇所がプレビューにある。

この”体芸一家(つまりアクロバット家族)という箇所がすごく気になってページ全体を観たかったのだが、国会図書館に行かないと実物が拝めない。悔しい。

■次作の『進駐軍を笑わせろ!』ではどうか?

青木深教授が、占領軍+芸能をテーマに送り出した2冊目『進駐軍を笑わせろ!米軍慰問の演芸史』。これは学術論文ではなく芸人列伝的教養書という内容で、『めぐりあうものたちの群像』よりもさらに読みやすい。

まず”アサヒ・旭”という字面でいくと、106Pから始まる「3.奇術で生きた戦後 松旭斎の流れをひく女たち」という章に目が行く。

「松旭斎」は明治期の松旭斎天一(男性)が創始した奇術の名門で、その流れはプリンセス・テンコーにまで連なる。この松旭斎派を押し上げたのが、天一の弟子でその美貌とテクニックで絶大な人気を得た松旭斎天勝。彼女は多くの弟子を育てたことでも日本奇術界に多大な貢献を果たした、とある。

松旭斎天勝(from Wiki)

そこで気になるのが、”旭天華”という名前の類似。奇術師と軽業師というジャンルの違いがあるし松旭斎一門ではないと思われるが、何らかの関係があったのだろうか。それとも明治末から100人という大一座を組んで全盛を誇った天勝の名に肖ったのだろうか。

◇  ◇  ◇

次の「第三章 軽業曲芸の世界」で、その”旭天華・玉徳”チームのことが登場する。少しだけペルソナが伺えた。

寺島玉章の実弟、玉徳も戦後の米軍慰問ショーで活躍した。兄とともに来日した秦玉徳は、一九三〇年代には玉章・玉徳・茶目のトリオとして吉本興行の舞台に立ち、戦後は、妻の旭天華(中国人ではないという)とテル子と組んだ一座「旭天華チーム」でアクロバットを演じた

同書181P(太字は引用者)

二人が夫婦だったことが判った。しかし、ここまで。

この本、往年の芸能人・演芸人のエピソードを知ることができる大衆芸能好きの私にとってはたまらない一冊だが、残念ながら本稿のテーマ、旭天華とGLHに繋がる情報を見つけることは叶わなかった。

■子供歌手、こども楽団が米兵に人気だった理由。

つらつらと『進駐軍を笑わせろ!米軍慰問の演芸史』を読んでいたら、探索テーマの答えがひとつ見つかった。テーマの4つ目、

4.子供芸人がなぜ米兵に人気だったのか?
(GLHも初舞台は10歳前後の年齢だったと思われる)

である。

◇  ◇  ◇

子供芸人の人気を今に伝える、GLHの姿が記録に留められていた。

Gay Little Hearts performed aboard the aircraft carrier USS Midway (CVA-41) for the ship’s “Sayonara WestPac Show” on 8...

Posted by Tokyo Happy Coats on Friday, April 19, 2024

上記はBaugher氏が管理するFacebookチャンネルのフィードである。氏の解説によれば、1960年3月8日横須賀に停泊中の米空母USS Midway内で開催されたショーのことを伝える艦内報「Midway Missile」の紙面だという。

この艦内イベントには11組の”特殊芸能人”が出演したが、GLHも参加している。なんと観客は2500人を超える盛況ぶり。ちなみに紙面一番右上のコーラス4人組は結成から5年目を迎えたダークダックスだ。

(Courtesy of Roy Baugher)
(Courtesy of Roy Baugher)

ステージで演奏するGLH全員のショットを見ると、姉妹たちは年齢的には小学校高学年から中学3年生ぐらいの幅だろうか。印象としてはドラムのKeikoさんが最年長、ボーカルのRulikoさんが最年少のように見える。

◇  ◇  ◇

さて。『進駐軍を笑わせろ!』の「第4章 歌舞音曲とアメリカ」には、のちに大スターとなった江利チエミ雪村いずみをはじめとする米軍基地サーキットで鍛えた”豆歌手”やこども楽団についての記述が出てくる。

同じ米軍慰問から芸歴をスタートした子供歌手の出身で、チエミやいずみの”後輩”となる伊藤ゆかりのエピソードも紹介されているが、伊藤が基地で唄いはじめたのは6歳の時だったそうな。本書では2005年6月に『読売ウィークリー』の取材に応えた伊藤の談話を読むことができる。

あの頃は朝鮮戦争で(中略)米軍兵士は立川や横田に一時駐留して韓国の方に出て行く。大きな体の兵隊さんに、泣きながらウォーッと抱きしめられたり。楽屋まで追っかけてきて、「抱きしめさせてくれ」とか。小さい私にとっては、ちょっと怖かったですね。でも、みんな本国に息子や娘を置いてきているから。

同書291P(太字は引用者)

説明は不要だろう。

アクロバットチームだった時期も含めて、少女時代のGLHが贔屓にされた理由の一端が見えてきた。故郷を遠く離れた米兵たちの郷愁または哀愁とでも言うか、国は違えど親心に国境はない。

さらにこの章には、永沢姉弟による「トーキョー・キディ・レンジャーズ」(永沢姓は『スイングジャーナル』1961年11月号で確認)、中川ツルーパーズなどこども楽団についての逸話もあるが、そこにもGLHの名は見えない。

◇  ◇  ◇

残念ながら、いまのところは、旭天華の詳細なペルソナやGLHとの関係は謎のままとなった。ま、急いてもしょうがないが。うーむ。

ということで。

本稿では松旭斎天勝についてもご紹介したが、実は別の探索テーマを掘り返していたら、意外なところでGLHと松旭斎天勝が絡み合ってきたんである。次回はそれも含めてご紹介したい。

(【A-7】へ続く)


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