グノーシス主義神話の2段階の鏡像の比喩
「ヨハネのアポクリュフォン」で述べられる神話に、2段階の「鏡像(似像)」の比喩が語られます。
この文献は、ナグ・ハマディ文書に含まれる、セツ派のグノーシス主義の文献です。
中沢新一は、その1段階目について、ラカンの鏡像段階を表現するものと解釈しています。
ですが、私は、これは間違いで、鏡像段階と結びつけることができるのは、2段階目だと思います。
本稿はこのことについて書きます。
その際、ヘルメス文書「ポイマンドレース」における2段階の「鏡像」の神話や、仏教やゾクチェンにおける「鏡像(反射像)」の比喩についても触れます。
「ヨハネのアポクリュフォン」の光の鏡像と鏡像段階
「ヨハネのアポクリュフォン」において、至高存在の最初の創造、最初の自己認識、自己限定、自己分離として、次のような物語が語られます。
「光の活ける水」は、「見えざる霊」、「万物の父」、「記述しがたきもの」、「純粋な光」などと呼ばれる原初の至高存在です。
そして、この至高存在の鏡像である「思考」は、母なる「バルベーロー(大いなる流出)」であり、「摂理」、「万物に先立つ力」、「光の似像」、「第一の人間」、「処女の霊」などとも呼ばれます。
「光の似像」は、「純粋な光」自身である光の水に映った鏡像であり、それを見る働きでもあります。
「純粋な光」という思考主体から、「光の似像」という思考の働き、思考内容が生まれたのです。
ただ、この「思考」がどういうものであるかについては、後で考察します。
中沢新一は、「フィロソフィア・ヤポニカ」で西田哲学の「一般者の自覚」を語る際に、プロティノス哲学と並べて、「ヨハネのアポクリュフォン」のこの光の似像の部分について紹介し、それをラカンの鏡像段階に当たると解釈しました。
私は、この中沢の解釈を読んだ時、違うのではないかと思いました。
このことは、神秘主義思想の本質に関わる重要な問題だと思っています。
これについては、最後のパラグラフに書きます。
*本稿では西田やプロティノスの哲学については踏み込まないようにします。
フロイト派の精神分析学者ラカンの「鏡像段階」というのは、生後6-18ヶ月の幼児が、鏡に映る自分の像に同一化することで、初めて自分を統一された存在として認識する、という心理的発達段階のことで、これが自我意識の形成につながります。
ですが、鏡像は自分ではない「他者」であることが強調され、この鏡像への同一化は、他人の中に自分を見て同一化することの始まりとされます。
確かに、鏡像を介した最初の自己認識という点では、「ヨハネのアポクリュフォン」の最初の部分と似ています。
ですが、大きな違いがあります。
それに、「ヨハネのアポクリュフォン」の神話の後の部分で、もう一度、異なる形で鏡像の比喩が出てきます。
私は、こちらの方が鏡像段階と関係していると思います。
鏡像段階の完成によって、自分をひとまとまりの存在として対象化する認識が誕生しますが、これには、あらかじめ、「対象化する認識」、「イメージによってひとまとまりにする認識」、「鏡像が実像ではないことの認識」が必要です。
つまり、前史があって成立する複雑な認識です。
鏡像段階が完成する以前から、幼児は母を認識し、母でない人物を認識しています。
十分に自分と他者が区別されていないかもしれませんが。
幼児が鏡像を見ると、まず、母であろうと認識する段階があり、その後、それが母ではないと認識し、その後、実像ではないと認識し、この後にやっと、鏡像が自分であるという認識に至ります。
鏡像段階は、それ以前に他人の認識がありますが、「ヨハネのアポクリュフォン」の上記部分にはありません。
鏡像段階は、自分ではない物体の鏡を介した認識ですが、「ヨハネのアポクリュフォン」では光の水という光が自分自身を介した認識です。
鏡像段階はイメージによる自己認識ですが、「ヨハネのアポクリュフォン」の「光の似像」は、「力」とも「霊」とも表現されるので、イメージとは思えません。
鏡像段階は鏡像を虚像と認識しているので、対象化された認識ですが、「ヨハネのアポクリュフォン」では、おそらく、対象化されていない自覚でしょう。
「ヨハネのアポクリュフォン」とゾクチェン
「ヨハネのアポクリュフォン」には、「認識」や「思考」といった言葉が出てきますが、これらは、概念やイメージをともなう理性的なものではないと思います。
また、「似像」や「形作る」といった言葉が出てきますが、これらは、形相/質料モデル、シニフィアン/欲動モデルで考えているのではないと思います。
例えば、アリストテレスは、至高存在(不動の動者)を、主体と対象が同じ「思考の思考」と表現しました。
プロティノスは、至高存在(一者)を、主体も対象もない「絶対思考」と表現しました。
このように、究極的なレベルで使われる「思考」や「認識」は、直観的なもので、非表象的、非対象的であることは、珍しくありません。
意識が意識たる所以は、自分の体験内容に気づくこと、自覚することです。
これには、客体としての対象化も、表象も必要としません。
インド哲学や仏教では、意識の内容が存在しない「無」の状態を意識することがあります。
ですが、何らかの心の動きが起こると同時に、その意識化がなされることが多いようです。
この時に、光のヴィジョンを伴うことがあります。
これは、意識、心が、自分自身に気づく、純粋な自覚です。
私は、「ヨハネのアポクリュフォン」の冒頭の物語は、この対象化も表象もない純粋な自覚に近いものだと思います。
中沢新一は、ゾクチェンの修行者です。
ゾクチェンでは、心の本質である原初の境地を「リクパ(明知)」と呼びますが、これには自覚が伴っていると説きます。
リクパからは「イエシェ(原初的知性)」が生まれますが、この段階でも対象化が伴っておらず、もし、対象化が生まれると、「マリクパ(無明)」に落ちてしまいます。
中沢は、「精神の考古学」で、ゾクチェンの思想を説明している中で、イエシェが自分の反射像を見る「鏡のような原初的知性」について語っています。
これは、対象化をともなわない法界の知性です。
そして、中沢は、これに相当するものとして、「ヨハネのアポクリュフォン」の冒頭の物語を持ち出します。
私も、両者は似ていると思います。
ところが、中沢は、またも、ラカンの鏡像段階がこれらに相当する近代の理論であると書きます。
先に書いたように、鏡像段階は、イメージを介した対象的認識ですから、明らかに異なります。
中沢には、言語(表象)的なものを越えたところを指向していると言いながら、そこに言語(表象)的なものを持ち込んで、引き戻してしまうところがあります。
中沢は、この「鏡のような原初的知性」を、唯識や密教が言う「大円鏡智」に等しいとも書いています。
仏教ではよく鏡の比喩が使われます。
ゾクチェンでは同じことを水晶の比喩で表現します。
ゾクチェンにおける鏡の比喩は、意識(原初の境地、心そのもの)に何が映っても、意識自体は映ったものに汚されることなく、変わらないことを表現します。
つまり、意識の非対象的な自覚の表現であり、鏡像段階とはまったく異なります。
「ヨハネのアポクリュフォン」にもゾクチェンにも、光のイメージが伴います。
ゾクチェンでは、「心そのもの」の三位一体構造を、「青空」と「太陽」と「太陽光」で比喩します。
また、そのリクパの力が、「ティクレ(心滴)」という「光の粒」の運動として現れると説きます。
「ヨハネのアポクリュフォン」では、「純粋な光(父、見えざる霊)」と「光の似像(母、バルベーロー)」から、「独り子(モノゲネース)」が生まれますが、これは「光の飛沫」とも表現されます。
これは、ティクレとそっくりです。
「ヨハネのアポクリュフォン」の水面の鏡像と「ポイマンドレース」
「ヨハネのアポクリュフォン」の神話では、その後に、再度、鏡像の比喩が使われます。
そして、これは最初の鏡像とはっきり区別したものとして扱われています。
「光の似像」である「バルベーロー」が生まれた後、様々な「アイオーン(永遠の存在)」が生まれ、「プレローマ(充足)」の世界が構成されます。
これらは神の内的世界と言えます。
この「プレローマ(充足)」の意味は、精神分析学に対応するものを探せば、「欲動」がイメージや言葉に結び付けられて「欲望」や「要求」になる前の世界でしょう。
つまり、原抑圧以前であり、それは鏡像段階以前、エディプス期以前、無意識以前の、非表象的な現実界です。
ただ、「以前」といっても、これは時間的なものではなく、論理的なものです。
さて、最後に生まれたアイオーンである「ソフィア(智恵)」は、自分も「似像」を作りたいと欲しました。
ですが、「見えざる霊」の承認をえられず、自分と対になるアイオーンも獲られないので、「似像」をつくることができませんでした。
そのため、「似像」にならなかった彼女の欲望は「プレローマ」の外に投げ出されてしまいます。
この「ソフィア」の物語は、一見すると、ラカン的に解釈したくります。
象徴的父である「見えざる霊」からシニフィアンを受け取れず、双数的関係を形成する相手のアイオーンも獲られなかった。
つまり、象徴界も想像界も機能せず、「ソフィア」の欲望(欲動)が、行場を失ったのだと。
ですが、それだと上記の解釈と矛盾します。
「プレローマ」は、「光の水」、「光の飛沫」、「光の似像」、「万物に先立つ力」といった言葉から分かるように、粒子的な光と流体的な光の間の力のやり取りの世界であり、「ソフィア」はそれから切り離されて、強度を失ったのでしょう。
重要なのは、物語のこの後の部分です。
プレローマの外に投げ出された「ソフィア」の欲望は、「アルコーン達(天球層の支配者)」を生み出してしまいます。
そして、アルコーン達は、「見えざる霊」が現した自分の像が、地上の水面に移った下側の部分だけを見て、「アダム」の魂の体を作りました。
ですが、「アダム」は動けなかったので、アイオーン達が「息(霊)」を吹き込んで動けるようになりました。
その後の展開では、アルコーン達に由来する「模倣の霊」しかもたない人間たち(カイン、アベルの子孫)と、アイオーン達に由来する「生ける霊(光の配慮、生命)」を持つ人間たち(セツ、ノアの子孫)の対立が描かれます。
このように、「ヨハネのアポクリュフォン」では、次のような対立項が語られています。
・光の水の鏡像 :バルベーロー(光の似像):アイオーン:生ける霊
・地上の水の鏡像:アダムの魂の体 :アルコーン:模倣の霊
つまり、2つの質の違う「鏡像」が語られ、それが「生きたもの」と「模倣されたもの」と表現されます。
創造には常に「形」が伴いますから、対立しているのは、「創造力のある形(形態形成運動)」と「固定された形」でしょう。
バルベーローが映したのは前者で、アダムの魂の体が写したのは後者です。
ちなみに、ほぼ同時代のヘルメス文書の「ポイマンドレース」でも、2種類の像が語られます。
最初は、至高存在であり、「光」である「ポイマンドレース(絶対の叡智)」が、自分に等しいような「似像」として生んだ「原人間(アントロポス)」です。
次が、「原人間」の姿が地上の水面に映った像であり、「アントロポス」はこの鏡像に愛着を感じて地上に堕落します。
「ポイマンドレース」では、内なる至高存在である「ヌース(叡智)」について、次のように記述しています。
このように、至高存在が生む「光」は、無数の力が影響を与え合っている存在です。
ですから、「序列」とは、力を与え合う強度の序列でしょう。
至高存在の「似像」である「原人間」とは、力の強度を落とした光であり、光の「形」ではありません。
「ポイマンドレース」では、「似像」である「原人間」には、至高存在に由来する「神の子」である「ロゴス」がありますが、水面の鏡像には「ロゴス」がないと区別されます。
この「ロゴス」も、単なる言葉、形相的なものではなく、創造力の強度を持ったものでしょう。
「ヨハネのアポクリュフォン」や「ポイマンドレース」で語られる2段階目の鏡像の物語の方が、鏡像段階と関係していると思います。
両者は、鏡像段階で生まれる自己愛の表現とされるナルキッソスの神話にも似ています。
2段階目の鏡像は、他者である物質的な水面の鏡に映った像です。
ここには他者への同一化があり、対象化や表象があります。
この物語は、鏡像段階以降に、言語やイメージを伴って生まれる自我に捕らわれて、本当の自分を見失うことを表現しています。
神秘主義思想の宇宙創造論
世界各地の神秘主義思想は、宇宙創造論を神話的ないし、哲学的に表現してきました。
これが何を意味するのかは、神秘主義思想を評価する場合に本質的な問題となります。
宇宙創造論の初期段階に鏡像段階を見ることは、ここに幼児からの心理的発達のプロセスを見る発想です。
私は、宇宙創造論は、啓示的であるにせよ、瞑想的であるにせよ、非日常的な体験をもとにしていると思います。
その体験は、意識の根源状態、強度的な極限状態からの、日常意識の発生のプロセス、いわゆる神秘的下降体験です。
つまり、宇宙創造論は、この下降体験を反映して作られます。
これは過去の心理的発達の再現ではありません。
世界神話学には「ゴンドワ型神話」や「ローラシア型神話」という分類があります。
他のサイトで書いたことがありますが、どちらの型の神話においても、その創造神話には、心理的発達を反映したと解釈できる部分があります。
神秘主義的な創造神話には、それらの古い神話を素材として用いている部分があります。
ですが、宗教的な専門集団の中で、神秘主義的な思想が発達するに従って、それらの神話は、下降体験を反映するものへと、改変され、再解釈されてきたのだと思います。
*参考資料
・「ナグ・ハマディ文書 I 救済神話」(岩波書店)
・「ヘルメス文書」 (朝日出版社)
・中沢新一「精神の考古学」(新潮社)
・中沢新一「フィロソフィア・ヤポニカ」集英社
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