萩尾望都の少年愛とエロス論
「萩尾望都の諸作品のテーマと継承」に書いた文章を転載します。
萩尾作品の多くには、少年同士や青年同士、青年と少年の恋愛が描かれます。
ですが、萩尾望都(以下、萩尾と表記)自身は、自分の作品について「少年愛」という言葉を使わず、むしろ「少年愛はわからない」と書いています。(「一度きりの大泉の話」、以下同じ)
これは、竹宮惠子(以下、竹宮と表記)、増山法恵(以下、増山と表記)を意識した発言でしょう。
増山は萩尾の友人だった漫画家ではない人物で、萩尾が竹宮に紹介しました。
増山は「少年愛」にハマり、それを二人に熱心に伝えました。
竹宮は増山と意気投合し、増山が語る「少年愛」の影響を受けて、それを漫画として表現しました。
つまり、増山は、竹宮の少年愛漫画のプロデューサーのような役割を果たしました。
ですが、萩尾は「少年愛」を理解できず、萩尾が書いた作品に対して、増山からは「少年愛」ではないとダメ出しをくらい、竹宮からも「偽の少年愛」のように言われたそうです。
そのため、萩尾は、自分の作品を「少年愛」ものではない、自分は「少年愛」を分からない、と強調するのでしょう。
ですが、私は、「少年愛」には一つの決まった定義はないと思うので、竹宮の作品は「竹宮流の少年愛」、萩尾の作品は「萩尾流の少年愛」と言っても構わないと思います。
ただ、私の考える「本物の少年愛」というのがあるので、その基準で言えば、どちらの作品もそれには当たりません。
これについては、後で書きます。
少女漫画の描く少年愛
萩尾は、少女には社会的制約が多く、登場人物を少年にした方がより自由に動かせるから、少年を描いたと書いています。
竹宮も似たようなことを言っています。
当時、少女漫画で女性の性衝動やセックスの場面はタブーで描けなかったけれど、少年にすれば描けたと。
また、誰の発言か忘れましたが、少女の読者にとっては、少年であることで空想を広げることができた、という理由もあるでしょう。
それに、少年愛は、セックスを描かない場合は恋愛から肉体的なものを排除して純粋に精神的なものとして描くこともできます。
セックスを描く場合も、生殖を排除した行為として描けます。
以上は、少年を描く、表現上の間接的な理由ですが、より直接的、積極的な理由もあります。
萩尾望都が初めて「少年愛」をテーマにして描いたのは「雪の子」です。
ところが、少年が愛した相手の少年は、実は男装した少女でした。
それゆえに、増山からはダメ出しをされたと、萩尾望都は書いています。
「雪の子」の作品論のページで詳しく書きますが、この少女にとって、「少年」とは自由な姿であり、大人になることは罪悪でした。
つまり、萩尾が描く「少年」とは、少女がそうありたいと願う「自由」な姿、「本来的な自分」だということです。
「排斥」のテーマに即して書けば、「排斥」のない「解放」された姿です。
竹宮は、少年の美しさについて「大人でも子供でも、女でも男でもない、描くことに意味のあるかたち」と語りました(BS11「宮崎美子のすずらん本屋堂」)。
つまり、少年に、限定されない「透明」なものを見ているということでしょう。
これが「少女」でないのは、「少女」は「少年」よりも社会的な制約が大きいからでしょうか。
この竹宮の捉える少年は、萩尾の少年と似ています。
萩尾の「トーマの心臓」で、トーマはユーリへの愛について、
「この少年の時としての愛が、性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって投げだされるものだということを知っている」
と書きました。
萩尾も「透明」という言葉を使っています。
萩尾の総決算的作品の一つであり、大人版「トーマの心臓」である「残酷な神が支配する」では、
「ぼくときみは友人だろう? 友人だけどぼくはきみが愛おしい。…ふつふつとわきあがるこの年代の感覚って、愛に近いせつなさがある」
と、主人公の友人ウィリアムが、改めて話します。
つまり、友情とか、恋愛とか、憧れとかいったカテゴリーに枠づけられず、社会的に規定された男性、女性といった枠から外れる感情であって、「透明」なものです。
このように、萩尾も竹宮も、透明な存在の透明な衝動として「少年愛」を描いているという側面があるでしょう。
萩尾望都のエロス論
萩尾は、後に、この「愛」に一つの形を与えています。
「トーマの心臓」で、ユーリはトーマのことを「恋神(アモール)」と呼んでいます。
「アモール」はローマの神ですが、これはギリシャでは「エロス」に当たります。
「残酷な神が支配する」では、この「エロス」についてウィリアムが論じています。
そして、「エロス」を、「錬金術的」な「融解」する愛と結びつけています。
そして、その後、主人公のジェルミは、行為の最中に空高く飛ぶ鳥と一体化します。
おそらく、この鳥は、「翼」を持つ愛の神「エロス」なのでしょう。
抽象への愛としての少年愛
萩尾作品からは離れますが、私が思う「本物の少年愛」について書きます。
一言で言えば、「本物の少年愛」の核心は、「抽象への愛」、「人工的なものへの愛」です。
それは、少年愛の哲学を代表するプラトンにおいても、少年愛の文学を代表する稲垣足穂においても、少年愛を描いた映画「ベニスに死す」においても、明らかです。
世に有名なプラトン的エロス(プラトニック・ラブ)の道とは、少年の肉体への愛に始まり、より抽象的な美を発見し、「美のイデア」そのものに至る道です。
「少年愛」とはイデアという「抽象への愛」です。
プラトンの学園アカデメイアの門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」と書かれています。
幾何学とは「抽象の学」です。
ちなみに、音楽は、伝統的に数学の一分野です。
年長者と少年者との関係は、知識を与える教育的な関係であり、少年側からすれば、知識を有する者を愛することです。
萩尾作品の「百億の昼と千億の夜」にはプラトンが登場し、女性に失恋するシーンが描かれますが(これは光瀬龍の原作にはありません)、プラトンを知る者なら絶対に描かないシーンです。
ですが、その後に勉強したのか、「残酷な神が支配する」には、「プラトンの愛したギリシャの美少年のよう」というセリフが出てきます。
ただ、先に書いたように、この作品が描く「エロス」は、プラトンの「エロス」とは少し異なります。
少年的な少年、男性的な男性は、バイクや車のような機械を愛し、模型を愛し、数学を代表とする諸学を愛します。
それは、少年を愛するのと同じく、「抽象への愛」、「人工物への愛」だからです。
「機械へのエロス」や「数学へのエロス」、「イデア界(観念)へのエロス」がわからない人には、「本物の少年愛」は分かりません。
萩尾ら三人も話題にし、見に行った映画「ベニスに死す」は、完全にプラトン哲学の表現です。
あまたの映画評論家にそんな解説ができなかったとしても。
最後のシーンは、それをはっきりと示しています。
主人公の音楽家アッツェンバッハが見守る中、海岸で美少年タージオが他の少年にいじめられ、その後、海の彼方を指差します。
いじめられるのは地上に降りた「美のイデア」(=タージオ)が地上で汚される姿です。
「ソーマ(肉体)はセーマ(墓・牢獄)」という言葉が示すように、魂にとっての肉体、イデアにとっての地上は牢獄なのです。
そして、タージオが指差す先は「イデア界」であり、死にかけているアッツェンバッハの魂が帰って行く世界なのです。
アッツェンバッハは、疫病による死の危険を犯してタージオの中の「美のイデア」を見守り、亡くなりました。
プラトン哲学は、地上の生ではなく、「イデア界」への復帰を目指すものであり、そのような意味においては死の追求です。
萩尾は、この映画に対して、「アッツェンバッハは恋の中で死んで、これは幸福な終わりなのだと思いました」と書いていますが、凡庸な表現です。
萩尾が諸作品で描いた魂の故郷は、抽象の世界(イデア界)ではなく、母性的なもの、子宮的なもの、大地(地球)、あるいは、海です。
「マージナル」が明確に描いたように、「少年」は「女性」の代わりであり、もっと遡れば、「ポーの一族」のエドガーにとって、アランはメリーベルの代わりです。
稲垣足穂(以下、「足穂」と表記)の「少年愛の美学」は、増山と竹宮が同時期に読み、萩尾に紹介した書です。
竹宮は多大な影響を受け、「風と木の詩」の出発点の一つとなりました。
ですが、3人の誰もがこの書の核心を理解しているとは思えません。
足穂はこの書で、男性に特有の精神傾向を「P(ペニス)感覚」、女性に特有の精神傾向を「V(ヴァギナ)感覚」、少年に特有の精神傾向を「A(アヌス)感覚」と表現して分析しています。
ちなみに、足穂は、「少女」というものは存在せず、女性は幼女からすぐに大人の女性になると言います。
そして、足穂は少年が持つ「A感覚」の核心を「抽象化」を志向するものだと考えます。
「(A感覚が)完結しないという処が、その「抽象化」のための条件になっている…抽象化は…ビイ玉…等々の少年的オブジェを手蔓として、既にそれは始まっている」
「(男女の性の感覚である)PV両感覚が代表している自然性に対するA感覚のレジスタンスは、きわめて抽象的なもの」
萩尾は、「少年愛の美学」に関して
「私は面白いシュールなファンタジーだなと思ったけど、それだけでした」
と書いていますが、完全に的をはずした感想です。
萩尾は「存在」、「生」を問うた作家であり、女性的、母性的なものに至りました。
ですが、稲垣のA感覚は、「存在」ではなく「存在学」を問うものであり、自然や生活ではなく「抽象」、「人工」へ至るものです。
竹宮は、少年愛について、
「年長男性と少年の間で成立する恋愛ではない。同年齢、あるいは年齢が近い少年同士に成立する恋愛だ」
と書いています(「少年の名はジルベール」)。
そして、
「少年が持っている細くて不安定で、そんな薄紙一枚の時期にしかない透き通るような声。身体も声もあともう少ししたら絶対に消えてしまうとわかっている残酷な美しさ。稲垣足穂は、『少年愛の美学』ではっきりとそれを説明している」
とも書いています(同上)。
ですが、まず、足穂の言う少年愛は、少年同士の恋愛のことではありません。
また、身体的なはかなさのある美については語りますが、上記したように、その核心は「抽象への愛」です。
また、竹宮は、
「人間の美しさは裸の姿態にこそ現れる。少年たちは裸でいても誰にも非難されないで川遊びができる、動物としての美しさを発揮できる生き物だ」
とも書いています(同上)。
「風と木の詩」のジルベールは、生身の肌の触れ合いを求めます。
ですが、少年は、そのような自然な存在でもなければ、自然なものを求める存在でもありません。
少年は、裸で自然の中で遊んでいても、心の中では抽象の世界を芽生えさせているのです。
そして、少年の生身の肌を見る少年は、そこに機械の肌、サイボーグの肌、理念的なものを見ているのです。
足穂も、少年をAO円筒(アヌス・オラル円筒)という抽象構造体として捉え、それから生まれる「存在学」を説いています。
このような抽象化を行う姿勢こそが少年愛的なものなのです。
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