3つのレベルの意識と瞑想
意識の3つのレベルという観点から、それぞれのレベルの意識を変えるプロセス、方法についてまとめます。
具体的な部分では、仏教、人智学、プロセス指向心理学の理論と実践について触れます。
意識の三つのレベル
この稿では、意識に「合理的意識」、「夢的意識」、「直観意識」という3つのレベルがあるという図式で考えます。
この3つのレベルの意識の大まかな特徴は、思考の観点からは、「論理的/連想的/直観(直感)的」です。
それぞれの意識で使用されている重要な要素は、「概念的言語/象徴的なイメージ/無表象(概念やイメージのような表象を伴わない)」です。
ここまでをまとめると、次のようになります。
・合理的意識:論理的:概念
・夢的意識 :連想的:イメージ
・直観的意識:直観的:無表象
一日のサイクルで言えば、それぞれ、「日中の覚醒状態/夢を見ている状態/夢のない睡眠の状態」に対応すると考えることができます。
「日中の覚醒状態」は、一般に意識があると考えられていますが、実際には、意識化されているのは、その働きの一部にすぎません。
一般の「夢の状態」では、意識はあるようなないような状態ですが、たまに「夢」であることを意識できる「明晰夢」の状態になります。
「睡眠の状態」は、ほとんどの人は、意識はありません。
ですが、実際には、日中の覚醒時にも、3つのレベルの意識の働きが共存していて、意識はしていなくても、これらの間を行き来しています。
つまり、覚醒時にも、夢と同様の働きがあり、表象のない直観も働いているということです。
インドのタントラ(密教)では、一日のサイクルだけではなく、一生のサイクルとも結びつけられます
つまり、「生時/死後の中有/死の瞬間」です。
付け足してまとめると、次のようになります。
・合理的意識:論理的:概念 :覚醒:生
・夢的意識 :連想的:イメージ:夢見:中有
・直観的意識:直観的:無表象 :睡眠:死
また、これらはタントラでは、「粗大身/微細身/極微身」という3つのレベルの身体と結びつけられます。
仏教では、悟った場合にそれらは「法身/報身/応身」となります。
・合理的意識:粗大身→応身
・夢的意識 :微細身→報身
・直観的意識:極微身→法身
ルドルフ・シュタイナーの人智学では、この3つの意識に対応するものを、「自我/アストラル体/エーテル体」と表現します。
・自我(悟性魂) :対象的意識:覚醒意識
・アストラル体(感覚魂):動物的意識:夢の意識
・エーテル体 :植物的意識:睡眠の意識
アーノルド・ミンデルのプロセス指向心理学では、この3つの意識に対応する領域を「合意的現実/ドリームランド/ドリーミング」と表現します。
・合意的現実 :覚醒時の合理的思考、一次プロセス
・ドリームランド:ドリームボディ、二次プロセス
・ドリーミング :微細なもの、本質
3つの意識の意識化と変容と意識の持続
神秘主義思想では、例えば、タントラ(密教)でも、人智学でも、これらの3つのレベルの意識を十分に意識化することを目指します。
そして、それによって、3つの意識を変容させます。
これは、現代のプロセス指向心理学でも同様です。
神秘主義思想では、3つのレベルの意識を十分に意識化できれば、常時、意識の途絶えがなくなると説かれます。
つまり、夢を見ていていもそれを自覚し、夢のない睡眠の状態でもそれを自覚します。
これは、死んでから再生するまで意識が途絶えないということでもあります。
また、日中も常に3つのレベルの心の動きを自覚しているということです。
こういう人は、眠りに入る時、自覚を持って短い「夢的意識」を経過して、一瞬の「光」を体験した後、自覚を保ったまま「夢のない睡眠」に入ります。
そして、「夢のない睡眠」を意識を保持したまま経過し、また、一瞬の「光」を経て「夢」が出現するのを体験し…、意識を保持したままに「覚醒」します。
同様な体験は、日中でもミクロな時間でも体験します。
つまり、普通の人間は思考する時、概念やイメージのつながりしか意識できませんが、自覚を継続できる人は、表象のない「直観的な意識」の状態から、一瞬の「光」とともにイメージや概念が生まれ、すぐに、消滅する、これが次々と起こるのを意識することができるそうです。
以下、プロセス指向心理学、人智学、仏教における、3つの意識の意識化について紹介します。
プロセス指向心理学
プロセス指向心理学では、まず、「夢的意識」を意識化することから始めます。
単に夜の夢を思い出すというだけではなく、日中の覚醒している時に存在する「夢的意識」を意識化するのです。
これは、ユージン・ジェンドリンのフォーカシングを継承するものです。
日中の「夢的意識」は、漠然とした雰囲気、フィーリング、無意識的なしぐさなどとして現れると考えます。
ジェンドリンは、これらを「フェルトセンス(感じと取られた意味)」と表現します。
そして、それらを、人格に変容を迫るようなメッセージであると捉えます。
そのため、それらを意識化するだけではなく、自然に想像力を働かせて、人格としてイメージして会話したり、物語として展開したりします。
多分、「フェルトセンス」自体は「直観的意識」に属しますが、それを「夢的意識」として展開することで、「合理的意識」にも反映させるのでしょう。
ミンデルは、3つの意識を区別して、それらの間を行き来することを目指します。
つまり、直観的なものをイメージにしたり、言葉を語らせるだけではなく、イメージのもとになっている「本質」を直観したり、その直観から再度イメージを作って物語に展開したりするのです。
そして、最終的に、3つのレベルの意識を、一日中、意識化をすることを目指し、これを「24時間の明晰夢」と呼びます。
ミンデルは、これをチベット仏教の「大いなる覚醒」やヒンドゥー教の「サハジャ・サマディ」、タオイズムの「無為」と同じものであるとも書いています。
人智学
シュタイナーの人智学では、合理的意識である「思考」、夢的意識である「アストラル体」、直観的意識である「エーテル体」を順次意識化して、変容させていきます。
まず、初歩的な修行として、読書で著者の論理をたどり、思考展開・思考体系を理解することを勧めます。
これは、「合理的意識」の自覚化に関わる行法です。
その後、物質世界を対象としない思考そのものを思考することを行い、思考自身を意識化することも目指しますが、シュタイナーはこれを「直観的意識」に関わる行法と位置づけています。
次に、「アストラル体」の夢的意識を意識化して、「イマギナチオーン認識(霊視的想像力)」を得ることで、「霊我(マナス)」を育てます。
この段階では、象徴的形象を対象とした瞑想などが行法となります。
さらに、「エーテル体」の睡眠的意識を意識化して、「インスピラチオーン認識(霊聴的霊感)」を得ることで、「生命霊(ブッディ)」を育てます。
この段階では、宇宙的な象徴や理念への瞑想などが行法となります。
人智学は、さらにその先で4つ目の意識レベルの意識化に取り組みます。
仏教瞑想と合理的意識
一般に「気づき瞑想」とか「マインドフルネス瞑想」と呼ばれている仏教由来の瞑想は、覚醒した「合理的意識」の状態から始めます。
例えば、「四念処(四念住)」と呼ばれる初期仏教の瞑想法は、身体、感受(快・不快)、心(感情)、法(思考対象)という4つを気づきの対象とします。
これらは日常意識に近い状態で行う限りは、「合理的意識」に関わる瞑想です。
ただ、後でも扱いますが、言葉のない状態で観察する場合、それを超える「直観的意識」に関わる瞑想となりますが。
こういった瞑想を行うと、普段、意識していなかった自分の無意識的、自動的な認識や行動、思考のパターンを自覚できるので、それを変えることができるようになります。
仏教の瞑想法における「合理的意識」の意識化として興味深いのは、中観派の瞑想法です。
まず、様々なものに実体性があるとすると矛盾が生じるので、すべては空であるという論証を瞑想の中で行います。
こうして合理的思考を突き詰めてその限界まで行くことで、それを超えた概念のない「空」の智恵である「等引智」を得ます。
その後、言葉の対象に実体性がないことを前提にして言葉を使い、思考する「後得智」に至ります。
つまり、「合理的意識」な意識から、「直観的意識」に至り、両者を意識的に結びつけた意識に至るのです。
仏教瞑想と夢的意識
密教、特に後期密教では、夢的意識の中で瞑想を行い、それを変容させます。
密教では、まるで夢の中にいるかのような形でイメージを描く観想法(生起次第)を行います。
これは、「夢的意識」に近い状態で行う瞑想です。
また、「夢のヨガ」と呼ばれますが、実際に夜の夢の中で意識を保ち(明晰夢)、イメージを操作して空無にする瞑想を行います。
先に書いたように、後期密教では、「夢的意識」は一生のサイクルでは「中有」に対応すると考えます。
この死後の中有の時に行う瞑想も説かれます。
中有で諸尊の曼荼羅が出現した時、これに一体化する瞑想です。
密教では、尊格に関わる象徴的イメージを観想することが、瞑想法の核心の一つです。
尊格のイメージは、煩悩と結びつかない清浄なイメージであり、また、象徴体系をなす一種の元型的イメージでもあります。
観想で重要なのは、描いているイメージに実体性がないことを理解していることです。
そのため、イメージは輪郭が動的に揺らぎながら光っているように観想します。
また、必ずイメージを虚空から生み出し、虚空に溶け入らせます。
こういったイメージを意図的に操作する観想を行うことで、心を浄化するとともに、智恵を得ます。
そして、最終的には、意図的に操作せずとも、自然に清浄なイメージが現れるようになります。
仏教瞑想と直観的意識
上座部の「観(ヴィパッサナー)」の瞑想は、本来は概念やイメージなしに行うものです。
大乗仏教の「空」の瞑想も同様です。
これを行っている意識は「直観的意識」です。
先に書いたように、後期密教では、「直観的意識」は一生のサイクルでは「死」に対応します。
後期密教では、「死」をシミュレートして死の意識状態になる瞑想の「聚執(ピンダグラーハ)」を行います。
「死」に際してプラーナが心臓にある「心滴」に収縮するので、プラーナを意識的にコントロールして仮死状態になる瞑想です。
この概念のない「死」の「直観的意識」の状態で、最高の「空」の智恵を得ます。
また、実際に、「死」の瞬間にも、その状態に何日も留まって、最後の瞑想修行を行います。
後期密教のおいては、「空」は単に概念やイメージのない意識状態ではなくて、それらを生み出す母体です。
ですから、最終的には、煩悩なしに、自由に概念やイメージを生み出すことができるようになることを目指します。
これらは「仏の三身」の獲得として表現されます。
「法身」が変容した「直観的意識」、「報身」が変容した「夢的意識」、「応身」が変容した「合理的意識」に対応します。
・合理的意識:粗大身 →応身
・夢的意識 :微細身(意成身)→報身
・直観的意識:極微身 →法身
チベット仏教で最高の奥義とされるゾクチェンでは、「明知」と呼ばれる自覚ある意識状態に、あらゆる体験を統合しようとします。
これは、つまり、常時、完全な意識化を保つことで、3つの意識の作用を変容させて、自然に開放された状態にすることでしょう。
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