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ラマナ・マハルシの真我探求

「神秘主義思想史」に書いた文書を転載します。


ラマナ・マハルシは、若い時に、グルもなく、瞑想の訓練や習得もなしに、一挙に「真我」を見出した稀なる聖者です。

ラマナは、ラーマクリシュナ同様、西洋的・近代的な教育を受けていません。
そのため、インド的ではありますが、宗教的な教育を受けたり、勉強を行っていなかったため、彼の教えは極めてシンプルです。

ラマナは、純粋な主体としての「真我」を見出すために、「私は誰か?」と問うだけの、直接的な「真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)」の道を説きました。


人生


ラマナ・マハルシ(1879-1950)は、南インドのマドライ近郊の村のバラモンの家庭に生まれました。
バラモンとしての宗教的教育を受けず、キリスト教の学校に通いました。

ですが、16-17才の時に、インドの聖者に関する書を読み、興味を持ちました。
その後、親戚の死を期に、死の恐怖に襲われ、それを解決するために、時分が死んでいると想像すると、突如、「真我」に目覚めました。
その気づきは、一時的なものに終わらず、起きている時も寝ている時も継続しました。

6週間の後、ラマナは家を捨て、聖地アルナーチャラの洞窟に住むようになりました。
彼は、そこで長期に渡って三昧に入り続けました。

やがて、ラマナに惹かれた修行者が、彼の回りに集まり始めました。
そして、ラマナは、回りに人間の期待に応えて、山麓まで降りることになり、彼の噂が広まりました。

その噂によって、ラマナの母は、失踪した息子を見つけることとなりましたが、彼女は、ラマナの弟子として彼の元に留まりました。
やがて母がなくなると、ラマナは彼女の墓の近くに住むようになり、そこに彼を慕う者達によるアシュラムが生まれました。

パラマハンサ・ヨガナンダも、帰国した時に、ラマナを訪れています。

ラマナには、グルはいませんでした。
また彼の回りには、多くの者がいましたが、彼は、「真我(アートマン)」のみがグルであるとして、誰も弟子とは認めませんでした。

ラマナは、もともとヴェーダーンタ哲学などを勉強していませんでしたが、人から聞かれることに答えるために書物を読んで不二一元論を知り、それが自分の体験に合致することを知りました。
ですが、哲学の込み入った迷路は必要ないと説きました。

ラマナは、アルナーチャラから他の場所に移動することなく亡くなりました。


真我


ラマナは、「真我(アートマン)」を探求する「真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)」を主張します。

「真我」は、対象とならない「主体」であり、想念を持ちません。
それに対して、自我(自己)は、対象となりうる想念です。
「真我」は、常に存在し、それに気づくには、想念を持たず、主客を持たないことが必要です。

ラマナは、「真我」の状態を、ヴェーダーンタ哲学の伝統と同様に、「サット(存在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)」とも表現します。

そして、「真我」の第一の表現を、「私-私」、「私はある(I AM)」としました。

また、「真我」を「神」とも表現しました。
ですが、人格神や創造神(イーシュワラ)などについては、「消え去るべき最後の非実在の姿」とも語りました。

そして、「真我」を知ることを「ジニャーナ(智慧)」と表現し、その体験の意識状態を、ヴェーダーンタ哲学同様に、「第四の状態(トゥリヤ)」と表現しました。


サマディ


ラマナは、「サマディ」に関して、次のような独特の定義を行い、また、いくつかに分類しました。

「サマディ」は、「目覚めの状態で絶えず真我の中に留まる」こと、「実在につかまっている」状態です。

そして、「サマディ」の最初の段階である「サヴィカルパ・サマディ(有想三昧)」は、努力して「サマディ」の状態を維持する「サマディ」です。

次の「ケーヴァラ・ニルヴィカルパ・サマディ(完全無想三昧)」は、もはや努力は必要としませんが、一時的な「サマディ」です。
そして、「ヴァーサナー(潜在印象、カルマの種子)」から解放されていません。

最後の「サハジャ・(ニルヴィカルパ・)サマディ(自然無想三昧)」は、努力が必要なく、永続的な「サマディ」です。
その状態は、原初の、生得の、自然なものであり、「実在に溶け込み」、「世界に気づかずにとどまっている」状態です。

また、別の観点からの分類で、「外的サマディ」は、「世界を目撃している間も、内面ではそれに反応することなく実在を捉えていること」で、「波のない静寂な海」のような状態です。

一方、「内的サマディ」は、「むらのない炎」のような状態です。

そして、「サハジャ・サマディ」は、両者の統合、同一視です。

また、ラマナは、「真我」を発見した人(ジュニャーニ)の意識状態について、次のように説きました。

「(ジニャーニには)24時間を通して途切れることのなく続く一つの状態だけがあります。…深い眠りは目覚めの状態においてさえいつもあるのです。我々がなすべきことは、「意識している眠り」を得るために、深い眠りを目覚めた状態の中にもたらすことなのです」

「不滅の意識」


真我探求の方法


ラマナは、「真我」を見出すための自身の方法を「真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)」、あるいは、「探求(ヴィチャーラ)」、「探求の道(ヴィチャーラ・マールガ)」と表現します。

彼はこの方法を一番に勧めますが、他の方法を否定するのではなく、どれも方法にすぎないと言います。
ですが、「探求」は、唯一直接的な道であり、それを「ジュニャーナ・ヨガ」と表現することもありました。

ラマナは、「探求」と「瞑想(ディヤーナ)」を対比して説きます。
「瞑想」は対象に集中する方法であり、対象と共に自我があります。
それに対して、「探求」の特徴は、どちらもなく、「主体」だけになることです。

「瞑想には瞑想の対象が必要になる。一方、ヴィチャーラには対象がなく、主体だけがある。ヴィチャーラと瞑想が異なるのはこのためである」

「あるがままに」

その主体だけになるための方法は、「私は誰か?」と問うことです。
なぜなら、「私」というのは第一の想念、第一の対象だからです。

「「私」を第一の想念と呼ぼう。この「私」という想念を心に保ちなさい。そしてそれが何なのかを見出すために問いただなさい。この問いがあなたの注意を強引に引き留めるようになった時、他に何も考えることができなくなる」

「心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊し、最後には、萌えている薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」想念自体もほろぼされてしまう」

「あるがままに」

ラマナは、質問者が瞑想について質問した時、「瞑想するのは誰か?」と問い、また、神秘的なものを見たと伝えた時「それを見たのは誰か?」と問うことが良くありました。

「私は誰か?」と問うことは、「私」という想念が生まれた「源」である主体を問うことであり、意識を対象から主体に向かわせるのです。

「自我の源を探求し、自我が消えれば、残っているものが真我です」
「私という想念が湧き上がってくるところを発見しなさい」

「不滅の意識」

それを段階的な「否定」を通して行うことも方法です。

「身体はあなたではない、感情はあなたではない、知性はあなたではない、ということを悟るように努めなさい。これらのすべての想念が静かになった時、あなたはそこにある何か他のものを発見するでしょう」

「真我」の第一の表現である「私はある」を理解することを通して行うことも方法です。」

「「私はある」というのは神です。想念ではありません。「私はある」を良く理解し、「私は…である」を考えないようにしなさい」

「不滅の意識」


フリダヤムとハタ・ヨガ


ラマナは、「真我」を直観する場所を、胸部の中央からやや右側として、それを「フリダヤム(心臓、中心)」と表現しました。

ですが、あくまでも「真我」は空間を越えた存在です。
また、右胸に集中する瞑想を勧めることもありませんでした。

ラマナは、この場所について説いた聖典にあるのかと聞かれて、アーユル・ヴェーダの権威書の「アシュタンガ・フリダヤム」に「オジャス・スターナとは胸の右側にあって意識の座と呼ばれている」(あるがままに)と書かれていると答えています。

また、ラマナは、「フリダヤム」について、次のように語っています。

「もし身体の中のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探求するなら、それはフリダヤムの中に現れることが発見されるだろう」

「私は誰か?」

「フリダヤムの中の小さな穴はいつも閉じられたままですが、それは探求によって開かれます」

「不滅の意識」

ラマナは、ハタ・ヨガや、意図的にクンダリニーを上昇させることについては、それを勧めません
ですが、「真我」を見出すことによって、クンダリニーの上昇は自然になされると言います。

「探求によって心が真我に溶け去った時、真我と異ならないクンダリニーあるいはシャクティは自動的に目覚めるであろう」
「クンダリニーとはアートマ、真我あるいはシャクティのもう一つの名前にすぎない。…実際、クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである」

「あるがままに」

また、クンダリニーは、頭頂に上昇させて終わりではありません。

「クンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラに達し、サハスラーラからジーヴァ・ナーディを通ってフリダヤムへ降りていく」

同上

これは多分、アムリタの下降について述べているのでしょう。
「ジーヴァ・ナーディ」は「アムリタ・ナーディ」あるいは、「パラ・ナーディ」とも呼ばれるようです。



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